優しさが切れた瞬間

家にある私物を、いつでも持ち出せるような量まで減らしたいな。アレも持っていきたい。ソレもいるな。あっちのやつは持っていきたいけど嵩張るな。
そんなことを考えながら、チキンのバーガーを頬張る。あんまり味はしない。ただ空腹の胃に入れているだけだからどうだっていいのだ。
どうして家にある私物を減らしたいと思うんだろう。そうしたところで、自分が一番叶えたい「家族から優しくしてもらいたい」という願いが叶うわけではないのに。そうして考える。以前なにかの本にあったな。「死にたいのは、生きたい証」って。私は家族から逃げたいと思ってるのかな?今の家族の中に、私の居場所はないってことなのかな。家事や授乳の道具でしかないのかな。今は長女が擦り寄ってくること、私の寝かしつけでしか眠らないこと、お風呂もお母さんとがいいこと、それらに自分の居場所を見つけられずにいる。どうしてだろう。そうだな、別に自分に優しいわけではないものな。長女がそうしたいって言ってるだけで、それは片思いなんだもんな。
 
ずっとずっと我慢して育児をやっていた。旦那は「シーズンだから」とか「新しく買ったApple Watchを試したい」とか言ってよく家を開けた。先月は3日ほど。今日は日帰りで、夕飯後くらいに帰ってくるのかと思ったら、結局22時頃の帰宅となった。
20時を過ぎて、もう限界だった。旦那が出るまで、ライン通話と携帯電話、交互にかけた。携帯電話にかけているときにラインで「温泉にいるから出られない」みたいなメッセージが来ていた。温泉?
一度目の通話、旦那が出た時に娘が「まだテレビみたい」と言い出し、リモコンを探すために通話を切った。ビデオを1つ再生してから2度目の通話。「もう限界」と言った瞬間に全てが決壊した。子供のように、でも大人の声量で、叫んだ。何時に帰ってくるのか聞いた。旦那は狼狽しているようだが、落ち着いた声でなにかしゃべっていた。今はもう覚えていない。
その後、知り合いに順番に電話をかけた。温泉にいて、すぐには帰れないと言われ、もう限界だった私は誰かに縋っていたかった。わたしには友人がいない。知り合いにただただかけた。6人目、それほど親しくもないが、良くしてくれている知人がいて、かけた。7コール目くらい、切ろうかなと思ったタイミングで出た。
泣きじゃくって話す私に驚いて、靴下も履かず「すごいかっこうや、割烹着着たままやけど行くわ」といって、靴をつっかける音。家の場所なんて教えていないので、最寄駅を教えて、着いたら連絡してもらうことにした。
 
そうして慰めてもらって、落ち着いたらおなかが空いてきた。お城が見えるバーガー屋さんに足を運んで、イートインで食べた。お城が見えるように大きくしてある窓も、夜はただ店内を反射し、窓側の机に座る私と、キッチンでゆったり仕事をしている数人を写している。2回、くしゃみが出た。
どんなに辛くてもおなかがすく自分がいやだ。ストレスを溜め込むとごはんが食べられなかったり、吐いたり、熱が出たり、でなければ起きる力さえ出ないほどダルくなる体でありたかった。どんなに辛くても体は元気なのだ。つらいと思ってない瞬間がやってきて、そのときは普通に笑うから、辛い辛いと思っていても誰にも伝わらないようだ。笑っている人から辛いと言われて真に受けるのは、同じような経験をしている人で、そんな人が近くにいたなら、私はとっくの昔に救われている。泣き叫ぶほどにはなっていない。
 
疲れ果てた自分が呪いのように頭に感情を渦巻かせている。もううんざり。自分を大切にしてくれる人といたい。今の家族はそういう人ではない、と。
一方で、2人の娘を産み落とした責任もある。2人は立派に育てなくては。「産んでくれなんて言ってない」なんて理不尽なことを言われたとしても、2人を大人にするまでは見守らなくてはいけない。
傷ついた自分と、2人の娘を、同時に守ることはできるのだろうか?

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