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【凸凹と歩む】多重人格?それとも分人?ふしぎな「人格たち」の世界

分人(ぶんじん)」とは、作家の平野啓一郎氏が『私とは何かー「個人」から「分人」へ』で提唱した、”個人よりも一回り小さな単位”のことです。
”たとえば、会社で仕事をしているときと、家族と一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか?””たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である”と平野氏は言います。

では、自分の中にいる別の人格と話をしたり、疲れたときに変わってもらったりする場合は、分人と考えてよいのでしょうか、それとも、多重人格と呼んだほうがよいのでしょうか?

次男は自閉スペクトラム症(ASD)。
とことん得意なことと、とことん苦手なことがある、凸凹の激しい子です。
次男が徐々に語ってくれるようになった凸凹の世界について、そばで見ている親の立場からお伝えしていきたいと思っています。

幼児期にいたふしぎな「友だち」

小さな子どもには「イマジナリーフレンド」と呼ばれる、実在しない友だちがいることがあります。
次男にもふしぎな友だちがいました。

「Mとあそんだよ。Mは一人暮らしをしているよ。Mは男の子だよ。Mは働いていて、ベネツィアに住んでいるよ。Mは死んじゃったよ」

どんな子やねん?と思っていたら、イマジナリーフレンドだったようです。
保育所時代には、ほぼ毎日のようにMと遊んだ話を聞きました。

「今日はYくんとあそんだよ。Yくんはおにいちゃんだよ。Yくんはやさしいよ」

保育所にはYくんに相当する子はいなかったので、やはり別のイマジナリーフレンドだと思われました。
もしかすると、MやYくんも次男の中にいた「別人格」だったのかもしれません。

そのうち、また違うことを言い出します。

「ねえ、自分の中に『いいこころ』と『わるいこころ』がいるんだけど、みんなそうなのかな?」
「ん?自分の中に天使と悪魔みたいな、反対する心がいるってことかな?」
「うーん、たぶんそうなんだけど、ちょっとちがうかもしれない」
「私でも、『ああやだ、今日はごはん作りたくないよお、サボりたいよお』っていうわるい心と、『いやいや、みんなのために頑張っておいしいごはん作ろう』ていういい心がいるよ」
「そうなの?」
「そうだよ。両方いるよ」
「うーん、でも…」

このとき次男が言葉にはできないながらもはっきりと感じていたものが、分人よりも「別人格」に近かったと知るのは、もう少しあとのことになります。

たくさんの人格がいる?

「ああ、下級生に勉強を教えるときには、オレじゃなくて〇〇さんがやってくれるんだよ、教えるのが上手いから」
「先生に説明するときとかも、〇〇さんに話してもらってる」
小学校高学年になると、次男はこんなことを言いだしました。
誰のことかと思ったら、彼の中にいる別人格だというのです。耳を疑いました。

「え、別の人がいるの?」
「うん。何人かいるよ」
「〇〇さんが説明してくれてるときには、次男くんはどうしてるの?意識はあるの?」
「ある。オレは引っ込んで休んでるだけ」
「〇〇さんの他にはどんな人がいるの?」
「話し相手になってくれる人とか、モブ担当とか」
「モブって何?」
「ただいるだけ。わあわあ言ってる」
そんなのもいるのか?
よくわかりませんが、どうやら次男は自分の中にいる何人かの人格で役割分担をすることで世の中に対処している様子です。

それは、学校にいるときの自分と家にいるときの自分のあり方が少し違う、「分人」的なものなのでしょうか。
それとも、「多重人格」に近いものなのでしょうか。

発達障害に関する書籍をいろいろ読み漁ってみても、長い間「多重人格」に関するヒントは見つかりませんでした。

ずっとカウンセリングを受けてきている先生にたずねても、
「うーん、それは多重人格とは違うんじゃないのかな、という気がします。
だれでも、いろんな側面を持っているでしょう。
それだけじゃないのかな。
いわゆる本当の『多重人格』の場合、本人の意識と別のところでおかしなことが起こるようになると、治療して統合していかなくてはいけないんですよね。
けれども、次男くんの場合は協調してうまく立ち回っている。
場合に応じて使い分けているわけで、おそらく、多重人格とは違うと思いますよ」
とのことでした。

「COCORA 自閉症を生きた少女 Ⅰ小学校篇」

私が初めて見つけた、発達障害と多重人格について書かれた書籍が、この自伝的小説です。

主人公の心良(ここら)は、親や教師、周りの子どもたちとの関係の中で苦しんでいました。
やがて、自分にやさしく話しかけてくれる「声」や、父親に怒られるときに”そと”にいて自分を守ってくれる存在がいることに気づきます。
心良の「声」は、窓から身を乗り出して楽になってしまおうとする心良を引き止めることもありました。
ここに書かれている「声」は、完全な別人格です。

彼女の場合は、発達障害の一つの症状として多重人格があるわけではなく、過酷な体験による二次障害として別の人格が生じたのだと考えられます。

では、次男の中にいる人格たちはなんなのか。
彼もまた、二次障害としての解離を起こしているのか。
そんなに過酷な日々を過ごしているのか。
結局、わからないことだらけです。

現在の中の人たちについて

あらためて、次男の中にいる人格たちのことを聞いてみました。
現在、呼んだら出てくる人格は10人以上。
その中でも、よく登場するのは5人だそうです。

Aさん
19~20歳くらいの男性。たいくつなときの話し相手になってくれる。アドバイスをしてくれることもある。賑やかでノリがいい性格。

Bさん
同じく19~20歳くらいの男性。Aさんよりも落ち着いた性格。話し上手。電車の中で変わったおじさんに話しかけられたときには、Bさんが出て対応してくれた

Cくん
15~16歳くらいの男性。真面目な性格。話し相手になってくれる。学校からの帰り道は疲れているので、Cさんに交代してもらっている。

Dくん
Cくんと同じくらいの歳。明るい性格で、にぎやか要員。話し相手専門。

Eさん
19~20歳くらいの男性。どうしてもつらいときや、嫌気がさしたときに、代わってもらう要員。とても姿勢がいい。

疲れたときやつらいときに、別人格に代わってもらっている、というのは、今回聞いてみて初めて知りました。
他には小学校高学年くらいから勉強を一緒にやってくれる人格などがいます。

幼児期に彼の中にいた「いい心」と「わるい心」は、クリーム色の空間に紫色のわるい心と、ピンクのいい心が存在していて、2人で言い争っていたそうです。
とはいえ、彼自身に干渉することはあまりなく、今ではいなくなっているとのこと。

これらの別人格は、「こんな人がいてくれるといいな」と思って作ったり、あるいは急にぬっと新しい人格が現れたりするのだそうです。

以前は、意識して教えるのが得意な人格に交代してもらっていたりしたけれども、今は特に意識しなくても代わっているのだとか。

「結局、あなた自身は、この中の人たちを自分の性格の一部だととらえているの?それとも、別の人だととらえているの?」
「別の人、だと思っている。大勢で話すと、くたびれて眠くなることがよくあるよ」

彼を助けてくれる、必要な存在

次男の中にいる、10人あまりの人たちは、一体全体何者なのでしょうか。
分人なのか、それとも別人格なのか。
それは、本人にしかわからないことなのかもしれません。

しかし、次男のケースではっきりと言えるのは、彼は中の人たちに困らせられているのではなく、助けてもらっている、ということです。

彼がこの世界と向き合っていくために、必要な存在。
それが彼の中の人たちなのだと思います。


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