人間と時空間

 絵画、彫刻、建築などは空間芸術、音楽、舞踊、演劇などは時間芸術に分類され、前者は表現者と鑑賞者の間に物質が必要になるが、後者は必ずしもそうではなく表現者の肉体のみで完結させることが可能だ(音楽は楽器を使用したり、演劇のためには舞台は必要になる場合も多いが)。また、後者は鑑賞の際に時間継起が存在するが前者は必ずしもそうとは言えない。このようなことは前にも書いた。

 話は変わるが、詩や小説などの散文形態の芸術に関しては、書くという行為を基本としている。書くということは、元来物に傷をつけることから始まった。物質がないと書くことは成り立たない。物がないと散文芸術は存在できないことになる。散文芸術については表現者と鑑賞者の間に物質が必要になる。話し言葉のみで伝える詩もあるだろうが、それを詩と言っていいのかはよくわからない。このように散文芸術は物質性を持つことになるのだが、これを理由にして散文芸術は空間芸術に分類できるということにはならない。むしろ、散文は鑑賞の際に時間継起を必要とするので、本質的には時間芸術だろう。散文は時間芸術ではあるが、音楽、舞踊、演劇などに比べると空間芸術寄りであるということは言えそうだ。書くという行為自体が時間の空間化を伴ったものなのかもしれない。などと言うことも私はもう何度か書いている。

 人類の歴史は文字が生まれたことで大きく変わったと言える。私たちが義務教育で習う世界史は文字が生まれたシュメール文化から始まる。人間は、時間と空間についての認知方法を進化の過程で身に着けたが、文字の発明によってそれを大きく変えたのかもしれない。文字を生み出したことで、人間にとっての空間と時間のあり方も変化していった。もともと言葉は話して聞くものであった。言葉は口から発せられては消えていくものであり、形として残るものではなかった。聴覚で認知できるものも形であるということはできるが、人間は見て触れるものに実体性を強く認めるものである。視覚と触角は、人間の空間把握能力と物質認知能力に大きく関わっている。話して聞くだけのうつろいやすいものであった言葉が、文字として記すことが可能になったときに、言葉はより生々しいものになったと同時に呪術性からも解放されていったのだろう。もはや言葉は消えゆく存在ではなく、空間的存在、物質的存在として残り続けるものとなった。こうして文字によって成り立つ歴史時代は始まり、私たちは今もこの時代にいる。

 書くことは時間の空間化だと私は書いたが、文明自体が時間の空間化を目指しているとも考えられる。人類は文明化によって時間管理技術を発達させてきた。日時計、水時計、砂時計などを発明して時間を計測させる技術を絶えず進歩させ、近代に入ると古典力学の誕生により時間を数値化させることさえ可能となった。そして、産業革命に入ると現代式の時計が発明され、現代の都市社会では完全に数値化された時間に管理された空間ができあがった。飽くなき時間の空間化の追求の果てに今の社会が完成されたのであり、最先端の物理学の世界では時間が空間化されすぎたために、私たちに馴染みのある時間とはかけ離れたものになってしまった。というようなことも、すでに前に書いた気がする。

 文字の誕生により、人類にとっての空間と時間のあり方は変わった。そして、近代に入り科学と技術が進歩したことで、またさらに空間と時間のあり方が変化していっているようだが、あまりにも急速すぎてもはや誰の手にも負えなくなっている。文字の発明によって、人間は自分たちに都合のいい時空間を作り上げたことで、歴史時代が生まれた。そして、科学技術の進歩によってまた新たな時空間を生み出そうとしているが、これはもはや人間の意志だけで生み出したとはいえず、人間と自然の共同作業のようなところもある。この時空間の変化は現在でも進行中であるが、どこへ向かっているのかわからない(どこへと言う表現自体が非常に空間的ではあるが)。文字も科学技術も、時空間を変えるものではあったが、一定の時期にこだわらず歴史を俯瞰してみると、人間はずっと文明化によって時空間を常に変えようとしてきた生き物だと言える。時間の空間化を目指す欲望は、おそらく不老不死への欲望とつながっていると思う。このようなことも前にすでに書いた気がする。

 人類史の過程において、言葉は長らく話して聞くものであり口と耳に関わるものであったが、五千年前という比較的新しい時代に入ったときに、書いて読むことが可能となり、手と目も関わってくるようになった。文明において重要になるのは、工作と技術である。工作と技術においては、口と耳よりは手と目が重要となる。口を動かす暇があったら手を動かせなどと職人の世界ではよく言われる。口と耳は政治的、商人的であり、手と目は職人的なところがある。農業が始まり、文明化が加速して手と目が忙しくなるにつれ文字が生まれたのだろうか。時間芸術に代表される音楽は耳で鑑賞するものであり、空間芸術に代表される絵画は目で鑑賞するものだ。時間は耳と、空間は目と大きく関わっている。それぞれの動物に対応した時空間が存在しており、人間には人間特有の時空間が備わっている。人間は長らく話し言葉しか持たなかったのであり、言語は時間性に限定された聴覚的特徴の強いものであったと考えたくなるが、実際はそうではなく空間性の備わった視覚的特徴も持っていたのだろう。人間は文字が生まれる前から、自然界や人間社会の様々なものを読んでいたと考えた方が妥当だと思う。

 前に私は自分が読んだ本(世界は時間でできている、平井靖史)の影響を受けて、時間を主観的時間と客観的時間に分けて色々書いた。その本では各々の時間を三種類に分類していたが、それに倣って自分もやってみようと思ったので以下に記す。

 主観的時間というものは、自分の肉体が実感する時間概念であり、自分の存在なくしては成立しない時間のことである。一方で客観的時間は、自分がいなくても成り立つ時間であり、物質的なものであると言える。まず主観的時間をそれぞれS1、S2、S3に分類する。S1は鳥の鳴き声を聞いたり、車の動きを観察したり、ある一定の比較的短い時間の流れを身体で実感するものである。あまり精神は関わらないものであり、体感的な時間感覚と言える。次にS2は記憶に関わるものであり、頭の中で思い浮かべる過去がこれに当たる。自分がこれまでに経験してきたものを想像の世界で再現するものがS2であり、1時間前でも10年前でも構わない。だが、この時間は幼少期のある時期よりも前には遡れない。最後にS3は、自分の人生を俯瞰して見たときに生じる時間感覚であり、これは客観的時間に近いところがある(何事も正確に分類することは難しく混ざりあう部分はある)。S3の立場を取ると、自分の人生を外側から見るような状態になり、死の概念を意識するようになる。人間は進化の過程でまずS1とS2を身に着けたが、その後も時間の空間化を進めていくうちにS3を獲得することで死を発見したのかもしれない。時間を空間化していく過程を続けると、どこかで死の概念が現れると思う。

 次に客観的時間であるが、これもK1、K2、K3と3つに分類する。K1は鳥の鳴き声だったり、車の動きだったり、日常生活で把握できる様々な物の動きだったり流れだったりする。S1と同じように見えるが、あくまでS1は自分が体感した時間であり、K1は自分の外側に存在する物に属する時間のことだ。そしてK2は太陽の動きや月の動き潮の満ち引きなど、より大きい範囲の流れを扱った時間であり、一日、一か月、一年などの周期的サイクルを表す時間もここに属する。中世までの人類はK1とK2が支配的な世界に生きていた。最後にK3であり、これは厳密に数値化された時間のことであり、今日の私たちに最も馴染みのある時間である。K3は時計の針が正確に記録する時間であり、列車の発車も、友達との待ち合わせも、会社の始業時刻もここに属する。この数値化されたK3は近代に入って古典物理学の誕生とともに発展したものだ。K3は分刻みのスケジュールでありながら、同時に地球の数十億年の歴史を評価するときに必要なものでもある。

 著者は私と同じように主観的時間と客観的時間を3つに分類していたが、ここにさらに主観的時間としてS0と、客観的時間としてK4を加えたい。S0は小説を深く読み込んだときに体感するような時間感覚であり、外側の世界から遮断されたような自分の身体のみに流れる自足的時間のようなものである。あまりうまく言語化できないし、これ以上書くといい加減なことを言いそうなのでここでは踏み込まないことにしよう。K4はK3からさらに客観化、空間化、数値化を極めた時間であり、物理学の世界で言われるような時間は存在しないなどの話はK4に分類すればよいと思う。あまりこの辺は自分の頭の中でも整理できていないので、またの機会に言語化してみたい。

 人類は文明を進歩させると同時に文化や芸術を生み出してきた。その過程で時間を空間化させていったのであり、人間社会に適した時空間も変節していった。その変節に大きな影響を与えた分岐点として、おそらく文字の誕生と科学技術の誕生が挙げられると思う。

 後者の科学技術の進歩によって、人間は天動説ではなく地動説を受け入れることになり、自分が立っている大地は常に動いており、自分は広大な荒廃した宇宙空間に存在する卑小な存在であることを認めざるをえなくなった。その世界観はあまりにも寂寞とした空虚なものであり、本来人間には耐えられないものなのだが、その事実を正面から受け入れるのを避けることで私たちの実生活は成り立つ。これはあまりにも救いがなく痛ましい世界観だ。人間は自然科学の教義を頭で理解することはできても、心と身体では受け入れることはできないのかもしれない。

 私たちは宇宙空間に生きていることを、今日では動画で気軽に確認することができる。天体の美しい星雲の動画を見るのは私は好きだ。科学技術の進歩によって、目で宇宙を実感することができるようになったのは、すばらしいことだと思う。だが、自分たちが宇宙に存在していることは目ではなく耳でも確認することができる。それは、音楽によってであり、特にクラシック音楽は人間と宇宙とのつながりを実感させてくれるところがあると自分には思える。西欧では近代に入り、科学革命と産業革命が起こったが、これと同時期にクラシック音楽も発展していった。科学によって次々と自然界のことが明らかになるにつれ、人間の精神は深く動揺し傷つけられ、暗い空洞を抱えることになった。そのような精神の凍り付くような激変過程を表現したものがクラシック音楽かもしれないと思うことがある。別にそれほどクラシックに詳しいわけでもないのだが、モーツァルトの「レクイエム」、ベートーベンの「運命」、ドヴォルザークの「新世界より」、スメタナの「モルダウ」などを聞いていると、もはや人間は宇宙に投げ出された存在であり、もう科学を知らなかったころには二度と戻れないと嘆く人類の悲痛な叫びにも思える。

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