見出し画像

作品の肉体と精神、どちらも届ける。

世の中の作品と制作の手段は、数多に存在する。
造る、移す、組む、歌う、建てる、描く。

創作をする人間たちのほとんどは、何かしらの想いを込めるだろう。

制作物が誰かに届いた時。作品の肉体は届いても、内に込めた「想い」という精神が届かないことがある。

想いが届かなければ、行動と感動、肉体と精神の動きに結びつかない。
表現の世界における「何を伝えたいか分からない」や、ビジネスにおける「売れない」「流行らない」という状態の原因はここにあると考える。

私が創作において重要だと考えるのは、想いを届けること。

この思考は、実体験に基づいて生まれた。この道に来た当初は、仕事も自主制作も報いを受ける頻度が少なかった。

作品を納品・発信しても感謝、報酬、評価などの対価が多くない時期は続く。むしろ納品後に批判・メッセージの既読無視などの経験もあった。

今振り返ると原因は、自分よがりの作品を渡していたことだろう。

想いを込めたことが殆どなかった。ターゲットも目的も何も設定していなかったので、最低限言われた条件に則って納品するだけ。工夫も拘りも何もなく制作することが目的。
目的達成の手段ではなかった。

納品していたのは、それっぽいが中身がない。

さらに、想いを込めても届かないケースもある。
受け取り手の誰しもが、考察班のように深堀するわけでない。広告業界などは、人々が作品に触れるであろう限られた時間を条件とし、伝える工夫が必要だ。

基礎スキルの習得期でもあった当時、「このスキルを使えたらカッコイイ」と不必要なバイアスで、無駄なモノばかりを組み込んでいた。引き算は皆無。得た知識をひけらかしたかった。

思うは知性、言うは理性、選ぶ言葉はその人の品性そのもの

発達障害、うつサバイバーのバク@精神科医が明かす 生きづらいがラクになる ゆるメンタル練習帳 そこそこ幸福に生きる40のコツ

スピードワゴンの小沢さんやラッパーのSAMさんも似たような言葉を話していたが、言葉を選ぶのは品性。引き算の美学。

当時、未熟だった私に足りなかった部分だ。引き算がないので不必要なモノばかりで溢れる作品となってしまった、
想いを込めても、受け取り手が一目で分からなければ、何も届かない。まるで、ウォーリーが潜んでいたそうな過去作たち。

ただ、数少ないが感謝などの報いを受けた瞬間はあった。それは、身内での思い出動画である。

思い出動画は「記念に思い出を残したい」という想いが、記録と納品だけで本人に届く。
そもそも、残すことが目的だから。

それゆえに、未熟な当時でも喜んでもらえた。それを「映像で評価された」「仕事になるのではないか」と、ビジネスに繋げていた自分がどれほど、浅はかだったか。多くの人々に迷惑をかけたと思う。

数々の失敗を繰り返し、 想いを届けることの重要性を学んできた。私にとって創作は手段。写真も映像も、何もかもだ。

写真家や映像クリエイターなど、撮ることや映像自体が目的のかのような肩書きを名乗らないでいる。

想いを届けることが目的。

肉体だけでなく、作品の精神も届けること。
そして、誰かの感動と行動に繋げることが、私がこの先やるべきことだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?