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時を止めるのは、写真か死か。

偶然にも、こんな文章を見つけたのだ。
永遠の停止行為。かなり面白い視点だ。確かに写真も自殺も永遠に停止される。

撮られたものは、意図的に編集を加えない限り残り続ける。だからこそ、停止(記録)される一瞬に瞬きをしないように気をつけ、その瞬間が残念なものにならないようカメラマン達も工夫する。

自殺は、対象者の評価や印象が止まる。いや、自殺と書いているが、死は全て当てはまるのではないか?事故死でも、老衰でも、病死でも、その人は死んだ瞬間に停止される。言うなれば、死と写真は永遠の停止行為だ。

しかし、『写真に写った人』と『亡くなった人』だとかなり変わってくる。死は人の魂も停止されるが、写真は人の複製に過ぎないので、魂は止まらない。簡単に言えば、写真は撮られても生き続けるから、評価も細胞も何もかもが変移し続ける。

写真は停止行為だが、あくまで複製の停止だ。
死は複製ではない、そのものだ。見かけだけの話ではなく、魂(内部)も全てが止まってしまう。だから、どちらも永遠の停止行為といえど、かなり性質は異なる。

一旦ここで、死と停止について考える。
命が尽きた時に停止するのは、生命活動だ。=その人の行いが更新されることはなくなる。遺作がの発見や、他者の介入で、死後に名声を獲得する・評価を変えていく者も少なくはないが、基本的には評価や功績、印象なども停止する

ここで、写真を考える。少しだけ似た性質があるではないか?
印象や、評価などは、写真を使ってでも停止できるものだ。

一瞬のなかにしか永遠がないことを仏教用語で「刹那」と言うと友人から聞いたんだけど、なるほどな、と。


——ご自身の写真に対する感覚もそれに近いですか?


うん。やっぱり写真は永遠に近いと思う。

「やっぱり写真は永遠に近いと思う」。写真家、石内都が語る写真・傷・女であること(前編)

石内都さんが語る、写真は永遠に近いという言葉。人を複製して行う写真は、死と同じにはならないが、限りなく近い存在だろう。


過去の写真は、「美しかった20代」「可愛かった幼少期」「鍛えていた肉体」などを停止させることが可能だ。自身の誇れる一面を停止して未来に持っていくこともできるのだ。

ヌードフォトグラファーや女体書道についても調べたことがあるが、その世界で活躍する芸術家はこれに近い考えを持っていた。美を残すのだ、残せるうちに。

時は残酷にも流れ続け、落し物を拾う余暇も与えず、前に前に進む。
人は変わり続ける。
海も山も。
空気も変わる。
心も何もかも。

そんな世界の理を止める手段は、死と写真しかないのではないだろうか。

死は終わってしまう。時も止めるが、それ以外も全てが終わってしまう。

写真は複製することで、死なずともこの世界を止めることができる。

電車の窓のよう流れ続ける世を、写真によって止めていきたい。

情報化の忙しい現代において誰もができ、誰もが忘れてしまう世界の静止。

私は忘れずに続けていきたい。それが私の活動する価値であり、本質であると思うのだ。

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