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利休での安寧、泡のような記憶。

かつての写真を部屋に貼る。
丁寧に、自身のルーツを辿るように。

そうだ、私は旅館で生まれた。
草津町で生まれたのだ。
間違いなく山口大空という人間の核には温泉がある。

家に温水が出ないタイミングでもあるので、久しぶりに利休へ向かった。本来は地元の温泉に浸りたいが、こちらも馴染みの場所なので良い。

父の姿、父親

滝風呂で目を瞑る。
今までこの場所で何を見てきたのか?
何を聞いてきたのか?
何であったのか?

まず、薄らと形が見えたのは父の姿。

草津から映画を見に出かけた小学生時代も、サッカーで点を取れなくて悔しい思いをした中学時代も、その夜は父と温泉に浸った。

当時は、自身がオーディエンスであると自覚していた。柔道もサッカーも尊敬している選手を分析して父に共有する、そんな人間。

熱い湯で語る、その多くは他者だった。
きっと父は、自分を語る息子を見たかったかもしれない。今になって当時を聞く機会などなさそうだが、私がいつか父親になれば、その答えが分かるかもしれないな。

「父親になれば」。私も、そんなことを考える年齢になったのだ。

ただ、他にどんな話をしていたのかはあまり覚えていない。
この場所での父の写真は一枚もないから。不明瞭な記憶のワンシーンを見返すしかないのだ。

それも、いつか消えてしまうのが怖くて、こうやって綴る。
この文章が未来で記憶の補完になればいい。

中学の友人たち

吉岡中学校、私が育った場所。いつかの友人たちとの記憶。
大寿と大河原と温泉と夕食を楽しんだっけ。中3のクラスの親友たち。彼らは2023年の同窓会や今年のドライブで再開できたな。

中学卒業後のクラス会

当時は漫画コーナーもなかった利休の待合室で、それぞれに恋愛話をしていたのも覚えている。

利休での大河原

どちらかがラーメンで、どちらかがカレーを食べていた気がする。
しかし、それは思い出せない。記憶にも写真にも残っていないから。


彼らとの別日の思い出


泡のような記憶

ジャグジーの風呂で思考する、数分たち目を開いた時。
目の前には大量の泡が。
新しく生まれては、ぽつぽつと消えてしまう。

これは記憶、時が流れれば生まれ、時が経てば消えてしまう。

その泡が水に流れず、空を浮き、割れず漂う。
そんなものがあるのだとしたら、きっと写真だろう。

私の脳とは違う世界で、記憶を丁寧に格納してくれる存在。
写真さえ撮っていれば、大河原と大寿が当時食べていたものも、父との思い出もたくさん思い出せたかもしれない。

改めて、私が写真に残す意味を理解した。
多くの瞬間を収めていこう。どんな時も、どんなものも。

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