学習と娯楽の境界線。
※2021年10月5日の記事です
クリエイターとして変化する感受性
「クリエイターになって1番変化したものは?」と問われたら「感受性」と答えるだろう。間違いなくここ数年で研ぎ澄まされた。
そもそも感受性の定義は、外界の刺激・印象を受けいれる能力であり、物を感じとる能力。
例えば、写真の撮影や加工をしてからは、光の位置や風景を常に意識するようになった。さらに映像をはじめてからは、CMや映画を見る時に撮影のメイキングや作品の意図を考えるように。
しかし作品の視聴時に生じる思考(分析)が、娯楽楽しむことへの障害になっていることも否めない。
学習と娯楽は共存できない?
「学習と娯楽は共存できないのではないか?」
ここでの娯楽は、映像を作品を楽しむ為に見ることあり、対して学習とは映像を分析する為に見ること、とする。
最近、グランドイリュージョンを見る機会があった。
いつも通り、何か映像制作に学べないかと見ていた時、ふと頭に過ぎります。
『作品を娯楽として楽しめてないな』
大きな橋での迫力あるシーンでこの思考に至った時点で、作品に没入できていませんし、学習と娯楽は共存はしていない。
映画の鬼滅の刃をみて
加えて本日、鬼滅の刃の無限列車編が地上波で放送された。ちなみに1度映画館で煉獄の有志に涙を流した。
2度目もダム放流の如く号泣したが、今回は注目する観点が違う。
1回目の映画館は、単純にストーリーで泣いたが、2回目はアニメで成功し期待値でハードルが上がっている中、このような素晴らしい作品を作ってくださった人達に対しての涙。
抽象的に書くと、期待値の高い1つのプロジェクトを完成させた作り手に感銘を受けたのだ。
1度見ているので、作品の内ではなく外側への評価が大きかった。
2度目は、より客観的視点に立ったのだ。
私は作り手として期待をして完成を待って下さっている方に対して制作する時は、少なからずプレッシャーはある。
たかが学生の仕事でさえ、緊張感は生まれるのに、この劇場版はどれほど大きなものだったか検討がつかない。気が滅入ります。
しかし、プロジェクトの大きさに比例して一緒に制作する仲間も増えるので、1人が背負う重圧は減るかもしれないが、代わりにチームワークが必要にとなる。
映像だけで監督に助監督、CGのモデラーさんに、アニメーターさん、エフェクトにカラリスト、声優さんに音楽を制作するアーティストさん。これでも一部。SEや宣伝や協力など他にも多くの人達が関わってプロジェクトは進行していく。
劇場版の鬼滅の刃は、チームワークで世間の期待値を超えてきた。本当に素晴らしい映画を作って下さった皆さん、改めてありがとうございます。
2回目は作り手に対して感動だった。
クリエイターとして映画への影響は?
グランドイリュージョンの話の最後に、作品に没入できなかったと書いたが、理由は作り手としての分析をしようとしたから。
他の映画もそうだが、ただ単にストーリーを見ようとすれば映画に没入できる。
『ただ単にストーリーを見ようとすれば』
あえて2度書いたポイント。クリエイターは良くも悪くも、ストーリー以外も見れるようになってしまう。
ここが作り手になったメリットであり、デメリット。
通常の視聴者よりも制作側の知識が豊富なため、作り手視点で深く分析することもできる。視野が広がったもと表現できるが、無意識に見るとその知識が単なる視聴を遮ってくる。
なので、その作品を見る時に娯楽として見るか?それとも分析で見るのかを明確にしてから、今後は作品に触れていこう。
学習的視聴と娯楽的視聴を使い分けれるようになりたい。
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