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写真家にもフォトグラファーにもなれない。

2023年の冬から写真とフォトグラフィーの定義、考え方の違いについて触れ続けている。

そして以前、写真的要素を成長させたいといった記事も書いた。

明らかに照明機材やカメラをの知識が劣っているため、仕事でのパフォーマンスが落ちてしまうからだ。


現状として、私は自身の表現にファンが付き、金銭になる人間ではない。するべきはクライアントワークである。他者の願望に寄り添うこと、依頼主を満足させること。

しかし、これまでは自身の表現を追求してきたばかりに、他者の希望に答える上で実力が足りないと感じてしまうことが多い。この一連が、アーティスト思考が強い人間が稼ぐ上で、壁になっていることは言うまでもないだろう。

どうしても自身の表現を求めると、思想や信念が伴うので引き算をしてしまう。すると、その表現で使わない技術や知識を疎かにしてしまう。ゆえに依頼が入った時、必要な能力を持ち合わせていなくて折れる。

ただ、ブランディングや売り込み方、ターゲットを考えれば、得意な分野や業界で活躍できるので、あくまで斜め上から相談をされた時の対応の話だ。私はウエディング以外で、写真を商品として売り込まないので、相談された時に満足させるためには、自身の表現に拘らず習得し続けることが必要なのだ。

即時対応力は、仕事外での蓄積である。

さて、長くなりそうなので本題。
今回は私が「写真家にはなれない」といった話をしていきたい。

まず私なりの写真家の定義。
真実を写すため、写真を生業ににする者だ。
光の絵図で表現するものは、フォトグラファー。自分勝手だが、ここは分けている。

例えば、報道写真家。戦場写真家。芸術写真家、など。
私の中で広告写真家は存在しない。広告の世界はフォトグラファーの仕事である。

私は仕事において、より真実を鮮明に写すため写真家的な要素を成長させたい。加えて、依頼の目的達成のために、フォトグラファー的な要素を利用していく。

アートにおいて、自身の思考を残すためにも写真的要素が必要で、記憶を振り返る際の感性を最大化させるためにはフォトグラフィー的な要素が必要である。

先日、同居人が「大空の写真は記憶を思い出した時の色味」「笑顔でも儚さを感じる」と伝えてくれた。

それは私が写真に込める、「希望なりうるもの」「記憶の儚さ」「目の前の日常の大切さ」が伝わっていると感じた。それを届けたのは「写真として何を写すか?」もあるだろうが、「フォトグラファーとしてどう表現するか?」の部分にも起因しているだろう。色彩、ノイズ感、明暗など。

作品はもう既に確立している。何回も何回も実験的に比較し、満足行くとこまで作り出した。自身の外は揺らぐことがなく、今後も最も好きな世界観となるだろう。

私は、写真家にはなれないしフォトグラファーにもなれない。
肩書きは要らないといった思考で生きているが、そもそもどっち付かずなのだ。真実を写すことも、光で表現することも手段でしかない。写真も、映像も、デザインも、それ自体が目的ではない。

一途に写真を追求する人、フォトグラファーとして表現に挑む者、彼らを否定しない。むしろ私にはできなかったから、素直にリスペクトがある。

専門学校に行って感じた、『他者より飽きやすい性格』がまさか自分のアイデンティティとなるとは思わなかった。それが山口大空そのものだと。

私は写真家にはなれないけれど、誰かの記憶を代わりに保存することができる。

私はフォトグラファーにはなれないけれど、さまざまな依頼に寄り添うことができる。

私に肩書きはないけれど、山口大空という唯一無二な人間である。

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