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戦後78年 今何を考える

78

8月に入り「78」という数字をよく耳にするようになった。戦後78年、78回目の終戦記念日など、時間の経過を感じる毎日である。それと同時に戦争の実相を伝えることが果たしてできているのだろうかと思う。戦争体験者や戦没者が残したものからその「こえ」を聞き「つなぐ」ことが大切である。

6月23日、沖縄

強烈な日差しが降り注ぐ6月下旬の摩文仁の丘(糸満市)。平和記念公園は物々しくかつ厳かな雰囲気に包まれていた。この日平和記念公園では岸田内閣総理大臣らの臨席のもと沖縄全戦没者追悼式が執り行われるからだ。昨今の首相襲撃事件を受け、警備は厳戒態勢がとられていた。
追悼式に参列後、私は沖縄戦で戦死した大伯父の名が刻印された礎に手をあわせた。礎に刻まれた「本田政義」という白い4文字が彼が生きた証だ。同公園内にある熊本県出身者の慰霊塔「火乃国之塔」には大伯父を含め2009柱が合祀されている。その多くのご遺骨や遺留品は遺族のもとに帰っていないことだろう。そして時が経てば経つほどそれは不可能に近くなる。

摩文仁の丘で人々は

摩文仁の丘には花束を持った人々が絶え間なく訪れていた。車いすに乗った高齢の方や小学生ぐらいの子供を連れた家族、アメリカや台湾などから訪れた遺族など。さまざまな世代・地域の人々が訪れていた。人々は礎に手をあわせ、花を手向け、ある家族はそこで料理を食べる。78年前、戦争により無慈悲に命を奪われた人々が、今を生きる人々と同じ時間を共有する。数多く見られたその様子は戦没者との対話の時間であった。

多くの遺族が花を手向けていた

この日にこの場所を訪れる理由

陽が傾き、通り雨によって涼しい風が吹くようになった摩文仁の丘では優しい音楽が奏でられていた。広島・長崎・沖縄の3か所で採取した火を合火した「平和の火」を眺めながらその音楽に聞き入っている夫婦がいた。
隣町から訪れたという夫婦は「23日」にこの場所を訪れた理由を「この日にこの場所で戦争で亡くなった方や平和に思いをはせることに意味がある」と話した。また、「今年は長年戦争の記憶を伝える活動をされていた戦争体験者が何人も亡くなられ、その方たちへの敬意も込めても話した。
23日は沖縄は休日となり各地の資料館が解放され、慰霊式が行われる。人々はそれぞれの場所で平和に思いをはせ、それぞれの平和観を築く。

平和の火

少女の問い

夜になっても平和の礎を訪れる人は絶えない。礎の前や慰霊塔には多くの花や折り鶴が供えられている。
19時頃だろうか。暗くなった丘に燃え続ける平和の火カメラに収めていると小学生ぐらいの少女が母親のもとに駆け寄りこう言った。
「この名前の人達はどうなったの?」
母親は優しく答えた。
「ここに名前がある人達はみんな戦争で亡くなったんだよ。学校で習ったでしょ」
すると少女はこう聞いた。
「なんで亡くならないといけなかったの?」
母親は答えられなかった。そしてその子を抱き寄せ二人で目を閉じていた。

「なんで亡くならないといけなかったの?」
この問い答えは何だろうか。いや、そもそもあるのだろうか。なぜなら彼らは命を落とす必要が無かったのだから。ふと気づいた時には涙が頬を伝い、カメラを持つ手は震えていた。「大伯父はなぜ亡くならないといけなかったのか」

日が暮れてもなお多くの人が訪れる

6月23日を沖縄で過ごして

沖縄全戦没者追悼式での岸田首相の挨拶に次のようにあった。
「沖縄戦から78年が経った今、そのことを改めて深く胸に刻み、戦争の惨禍を2度と繰り返さないという強い決意の下、静かに頭を垂れたいと思います。」
頭を垂れることはもちろん大切であるが、そのために政府として何をするのであろうか。国と軍が主導した戦争により多くの兵士と市民が戦死したにもかかわらず、沖縄などではボランティアが地道に活動を行っている。それでも多くの戦没者が土に還りつつある。国は沖縄の復興、特に経済的成果などを強調するが、78年前の真実からも目を背けることなく積極的に取り組みを行っていくべきではないだろうか。

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