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沖縄  ~激戦地のガマは今①~

空港

2020年2月。私は福岡空港発の最終便で沖縄・那覇空港に降り立った。通算28回目のフライト。新型コロナウイルスの感染拡大が長期休校という形で現れる直前である。私の荷物は作業着や長靴、手袋、記録用カメラなど。空港の手荷物受取所を流れる荷物にはマリンアクティビティの道具やゴルフバッグなど、リゾート地「沖縄」を示すものがあふれていた。自分の荷物の中身を知る私は、自分の訪沖が他の人とは大きく異なることを感じていた。

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遺骨収集活動

翌日、私は沖縄戦最後の激戦地である糸満市へ向かった。那覇市内から路線バスを乗り継ぐこと1時間半。糸満市喜屋武岬(きゃんみさき)の公民館に到着した。ここで遺骨収集ボランティアの南埜安男さんと合流するためだ。ここの東屋で待っていると、2人の地元の男性が向かいの席に座った。そして、「どこから来たのか」、「何をしに来たのか」などを話していた。すると男性は言った。
「ここから見える森の中は沖縄戦の姿をそのまま残している」
青々とした森の中には戦場が隠されているのだと改めて実感した。私は南埜さんと合流し、遺骨収集活動をするガマへと向かった。

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遺骨収集活動

森の中はこれまでに感じたことのない雰囲気を纏っていた。普段見ている熊本の山や森と違い、琉球石灰岩のゴツゴツとした巨岩がそびえていた。それらの上にはガジュマルなどの木々が生い茂り、その根や蔦は巨岩をも覆い隠していた。それらの下や側面に狭く小さな隙間ができており、それがガマの入り口だった。

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ガマへの入り方は決まっており、後ろ向きで入らなければならない。内部の状況がわからず危険だからだ。そしてガマの内部は光がない。頼りはヘッドライトの光だけである。狭い内部では身をかがめて活動する。

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ガマの内部から70年以上の間に崩落したり、堆積した土砂や岩をガマの外に運び出す。そして遺品や遺骨がないかを捜す。

収集された遺骨

私が活動をしたガマではこれまでにいくつかの遺骨が発見されている。私は4~5時間の活動を通して小指ほどの骨片を発見した。しかしそれがどの部分なのかは不明である。また、南埜さんが前日までに発見された遺骨を見せてもらい、手にのせた。70年以上前、沖縄の狭く暗いガマで死を迎え、孤独なガマで朽ちゆく名も知らぬ遺骨。その人は生きていた。しかし戦争がそれを奪った。強制的に。この遺骨は戦争の悲惨さを強く伝えていた。

手榴弾を持って

遺骨収集活動をした場所はもともと陣地だったこともあり、多くの薬きょうや銃弾、薬品瓶、防毒マスクの部品、そして手榴弾などが残っていた。私はその手榴弾を手に持った。その瞬間、自分が人を殺めるものを手にしていることに恐ろしくなった。平和を追求するからこそ抱く感情なのだと思った。

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沖縄 ~激戦地のガマは今②~へ続く

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