![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/75668212/rectangle_large_type_2_673244e9d448629c7c61ac0b0941fd00.jpg?width=800)
沖縄 ~激戦地のガマは今②~
第24師団司令部壕
2021年3月。前回の遺骨収集で活動した壕とは別の場所に行った。そこは前回よりも大きな壕で、戦時中は陸軍の第24師団が使用していたものだった。この壕の入り口も前回と同様に森の中にあった。しかし、さすがは司令部壕なだけあって、上部にはトーチカや壕の入り口につながる交通壕が姿を残していた。
内部へ
壕の入り口は大きく、ここに入った部隊の規模がうかがえる。しかし一歩中へ足を踏み入れると、そこには摑まるものが何もない暗闇へと続く傾斜30度、長さ25メートルの空間があった。この坂を下りると左に直角に曲がり、再び坂が現れる。このように壕は入り組んだ造りになっており、それが約100メートル続いていた。
遺品や遺骨
この壕では、私が行った時までに300回以上活動が実施されてきた。しかし見つかった遺骨はわずか6柱。ここで南埜さんがあることを教えてくれた。それは、収集したくてもできない遺骨の存在である。
壕での活動には危険が伴う。主な危険は崩落である。写真を見てわかるように、土は粘土質であり。ぼろぼろと崩れやすい。そんな2tほどの土の塊が突然崩れてくるのだ。そのため、遺骨を収集することができない遺骨があるのだ。
一方、この壕では多くの遺品が発見され、そのうちいくつかは遺族の元へ返還されている。しかし、記名のない遺品や備品がいまだに壕内に残されている。
陸軍の水筒
砲弾を入れていたケース
最後に
現在の沖縄は日本有数の観光地である。その一方で、戦争の爪痕を多く残す地である。観光地へとつながる幹線道路から見える小さな森、郊外の畑に残る木々、その中にはいくつもの戦争の記憶が残されている。
那覇市内を走るモノレール「ゆいレール」の駅の一つとして「おもろまち駅」がある。近くには商業施設が立ち並んでおり、そのそばに大きなタンクが設置された丘がある。そこはかつて米軍が「シュガーローフ」と名付け、日米両軍が血みどろの戦いを繰り広げた場所だ。そこでいくつもの部隊が壊滅した。(これは本にもなっている)
沖縄にはこのような場所がいくつもある。これから沖縄へ行くすべての人に、このことを心にとめていただきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?