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【018】「畳を降りる」還暦のパラ柔道家・松本義和の決断(中)

■この記事には、前編があります。

■夢をかなえていた松本さん

 東京の講道館で2015年に開かれた第30回全日本視覚障害者柔道大会でお会いした松本さんは、続けました。「山口さん、知ってます? アテネも出て、旗手をやったんですよ!」 私からは「テレビコマーシャルにも出ましたよね?」。15年も会っていなかったとは思えぬほど、自然と、楽しく、話が弾みました。
 私は本業で当時、松本さんたちの競技団体「日本視覚障害者柔道連盟」のクラウドファンディングをお手伝いしていたこともあり、視覚障害のある柔道選手たちには、たいへん親しくさせてもらっていました。大会が開かれる講道館(東京都文京区)の近くにも住んでおり、大会もたびたび見に行っていました。そのたびに、松本さんやライバルの柔道家との闘いに見入っていました。

■リオ2016大会への壮絶な戦い

 シドニー2000、アテネ2004と、連続してパラリンピックに出場した松本さんが、この時に目指していたのが、リオ2016パラリンピックでした。北京2008、ロンドン2012の両大会への出場権を逃した松本さんが、14年ぶりに連絡した私に言った言葉が、「今だに現役(のつもり)です。何とかリオパラリンピックに出場できないかと思っています」だったのですから!
 そして、私が見たリオ2016への戦いは、それは、壮絶なものでした。
 
2016年5月、松本さんが出場した90キロ級には、これら4人がエントリーしていました。
松本義和(シドニー2000銅、アテネ2004日本代表)
加藤裕司(アテネ2004 81キロ級銀、ロンドン2012 81キロ級日本代表)
初瀬勇輔(北京2008 90キロ級日本代表)
廣瀬 悠(北京2008 100キロ級日本代表)
 ※上に書いてある各選手の名前をクリックすると、国際パラリンピック委員会(
IPC)のウェブサイトに載っている選手紹介サイト(英語)に飛びます。

 全員がパラリンピアン(パラリンピック出場経験者)。松本さんを含め、メダリストが2人います。総当たりで戦い、優勝者だけがリオへのキップをつかむ戦いでした。一進一退の攻防が続き、混戦が続きました。松本さんは左手小指を脱臼してしまいます。
 松本さんに聞くと、松本さんのように右組みの柔道家には、相手の右袖をつかむ左手小指は「最も重要な指」だそうです。脱臼したと分かった時、松本さんは「こんな時に……。ほんと、ついていない人間だな」と感じたそうです。それでも、3試合すべてを戦い抜きました。

 結果は、廣瀬悠(はるか)選手がほんのわずかな差で優勝し、妻の順子選手とともに、日本選手団では、パラリンピック同一大会、同一競技、同時出場を果たしたのでした。

■みたび、パラリンピックをめざして!

 しかし、松本さんは、ここでもあきらめませんでした。家族、特に、アテネ2004パラリンピックから帰国して約10日後に生まれ、11歳だった長女涼さんと、その二つ下の長男瑛太さんは、父がパラリンピックで戦う姿を見たことがありませんでしたから。
 振り返れば、独身時代に「自分のリハビリの総決算」と考えて、シドニー2000大会に出場したと松本さんは話していました。この時は、他の競技の日本代表を含めて、視覚障害だけではない、さまざまな障がいのあるチームメートと知り合い、「すごく楽しかった」のです。さらに、銅メダルを獲得すると、疎遠だった人たちから連絡がたくさん来ました。
 そして、シドニー大会後に知り合った女性と結婚し、「妻のため」と考えたアテネ2004大会は、日本代表の旗手を務めました。
 しかし、それから、北京2008、ロンドン2012、リオ2016と3大会連続で、松本さんはパラリンピック出場を逃します。二人の子どもたちにとって、父が柔道選手だということは理解できても、世界を舞台に戦う柔道家だということを見せられていないと感じていたのです。

■「リオでやめる」が、一転、「東京2020大会へ!」

 実は、リオ2016大会に向けた戦いを終え、松本さんは「柔道をやめよう」と考えていたそうです。しかし、そこでも、松本さんは柔道を続けました。次の開催地は東京。20歳で柔道を始めてから、ずっと応援してくれて来た人が、パラリンピックの会場で、直接応援してくれるかもしれないと考えたからです。

■「東京パラ日本代表」に大きく前進! だが、コロナ禍で大会が延期!

 どの競技でも一般的に、パラリンピック日本代表の選手選考では、前年またはパラのある年に開かれる日本選手権といった大きな大会や、国際大会での成績などが考慮されます。東京2020大会での日本代表を狙う松本さんにとって、最も大切だと考えていた大会は、2019年12月にあった第34回全日本視覚障害者柔道大会でした。松本さんが出場した100キロ級は、松本さんを含めて2人だけの出場だったため、「3試合して2勝した方が優勝」というルールになりました。松本さんは見事に2連勝して優勝しました。この結果、松本さんは翌年の世界選手権にも派遣されることになり、「4大会ぶりにパラリンピック出場」に、大きく近づいたはずでした。
 ところが、新型コロナウィルスの感染拡大に伴って、大会が1年延期に。「東京2020」への視覚障害者柔道の日本代表(内定)も、発表されないまま、時が刻まれていくことになりました。

■当初の「東京2020パラ」開幕の時、新聞の見出しは「出場を目指す」

 ちゅうぶらりんな状況が続く中、東京2020パラリンピックがもともと予定されていた2020年8月、ある新聞は、松本さんを「17年ぶりのパラリンピック出場を目指す」と紹介していました。「目指す」。つまり、まだ「決まっていない」ということでした。
 当時のことを最近になって尋ねると、松本さんは「取材にもまともに答えられないこともあって、東京パラの日本代表になることが濃厚な他の選手にも相談した」と言います。そして、松本さんらは、日本視覚障害者柔道連盟に連名で「内定発表してください」と要望書を出したそうです。この時、東京パラに向けて、松本さんのトレーニングは続いていました。「4LのTシャツがきつかったんですわ。体がごつくなってね」と話してくれました。

■アテネ後に生まれた娘と息子に、パラで戦う姿を見せたい!

 還暦間近で現役を続けけていた松本さんにとって、大きな動機はやはり家族でした。長女涼さんは14歳、長男瑛太さんは12歳になっていました。
 「息子からは当時、『東京大会に出られなかったら、一生のうそつきもんや』とプレッシャーをかけられていた」と苦笑いする松本さん。
ですが、その要望書を提出して間もなく、日本視覚障害者柔道連盟は、松本義和選手を東京2020大会の日本代表に内定し、2021年6月には、日本パラリンピック委員会が正式に日本代表として「松本義和」を発表しました。
 1年延期となり、4大会17年ぶりのパラリンピックの舞台が、そして、59歳になって、「パラリンピック日本代表になった父」の姿を見せられる時がやって来ました。
 ※下のリンク「選手名簿」の122番(柔道の13番)に松本義和選手の名前が載っています。
東京2020パラリンピック競技大会日本代表選手団  選手名簿

(後編に続く)