夢幻 2021/11/7
僕、ぼく、ボク、ぼク、BOKU…
たくさんの僕がそこにいた
正面、真横、後ろ、斜め右、斜め左
いろんな角度から見た僕は
まるで自分じゃないようだ
三面鏡をコの字にすると
僕の数がさらに増す
本当に全部僕なのか
ためしにニッと笑ってみる
無限の笑顔が広がった
*
子供の頃
母の鏡台で遊んだものだ
不思議な空間
口紅や櫛
その他よく分からない化粧品
鏡もそう
虚像がさらなる虚像を描く
無限にして夢幻の迷路
あるとき母に聞いてみた
「どうして女の人は化粧をするの?」
「女はね、いつもきれいでいたいのよ」
鏡ごしに答えた母が
知らない女の人のようだった
*
母が認知症になったのは
昨年の秋だったか
以来父がケアしてきたが
最近もう限界だと言う
施設に入れる案もあったが
なんとか家でがんばりたいと
協力をお願いされた
翌朝、妻に話した
「私、行かないわよ」
即答だった
「住めるわけないじゃない
あんないなかに
あなたはテレワークで済むでしょうけど
私の仕事はそんなのむり
それにこの際だから言うけど
私、あなたと別れたいと思ってるの」
えっ
目が合った
化粧中の妻と鏡の中で
見慣れたはずの妻の顔が
知らない女性のようだった
*
三十年ぶりの実家住まい
子供の頃とうって変わって
部屋には陰の気配がしみついていた
母はもう
私が誰か分からない
ときどきお兄ちゃんなどと言う
母に兄なんていないのに
夕暮れ
あの鏡台に座ってみる
母はここで何を思い
何を考えたのだろう
これからいったい
どうなるのだろう
すべてがこわれていく
みんな虚像だったのか
こんな未来を見るために
今までずっと生きてきたのか
鏡を見る
しけた大人がそこにいた
あの日の笑顔はどこ行った
こんな大人になるなんて
本当にこれは僕なのか
ためしにひとつぶ泣いてみる
無限の涙が、流れて落ちた
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