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猫の巣

 寒い。冷たい風に身体が震え上がる。そのせいだろう、通行人が少ない。客はタクシーで乗りつけて、降りたらすぐに目的の店へ潜ってしまうのだ。
 錦三(きんさん)、名古屋の夜の街、夜に煌めき活気づく。金曜の夜。

 谷川透は迷子になっていた。
 縦横きっちり区画されて迷いようのない街なのに、夜の明るさに惑わされていた。
 ジャズ・バー「キャット」が見つからない。
 キャットのドアを開けると、一九五〇年代から六〇年代のジャズが流れていた。ビリー・ホリディが歌っているときは、店に客がいない。マスターがひとり、ビリーに浸っているのだ。
 最後にキャットへ来たのは、十年も前になるだろうか。もう店はないかもしれない。
 キャットは地下にあった。

 立ち並ぶ雑居ビルを見上げ、真冬の誘蛾灯のごとく明かりをともし客を誘う看板を確かめ、地下へ降りる階段を見つけては、レモンイエローを背景に、しなやかに伸びをする猫の黒いシルエットとCatのロゴがある看板を探した。
 東西と南北にに道路が交差するだけの単純な地図の街、迷いようがない。だが見つからない。
 錦通りと桜通りに挟まれた本重町通、袋町通、伝馬町通を歩き、大津通と本町通に挟まれた伊勢町通、呉服町通、七間町通を歩いた。キャットはこの九つの区画の中にあるはずだ。
 二度歩きまわって、三度目。これで見つからなかったら諦めよう。なにしろ十年も経っている。運動不足の足がこれ以上歩くのは嫌だと喚いているし、じっさい太腿と脹ら脛が熱を持ちながら緊張しはじめている。一時間近く歩いたのだ。

「cat nest」。
 伸びをする黒い猫のシルエット、レモンイエローの看板。階段が地下へ向かう。透の記憶が十年前を呼び戻し、ここだとささやいた。
 二度も通りながら気がつかなかった。いや、ここにはキャットはないと確かめもした、二度も。看板を確認し、階段の手すりにつかまって地下を覗き込んだのだ。
 なぜ気づかなかった。なぜ見逃した。
 ドジ、、間抜け、迂闊者……まだほかにないか? 大馬鹿野郎。
 ちょっと待て、今は八時を過ぎている。キャットネストが開店して看板に明かりがついたのだ。さっきは開店前で看板の明かりが消えていた、それだけのことだ。

 キャットネスト……オーナーが替わったののだろう。店に入るかどうかはドアを開けてから考えよう。
 透は階段を降りていく。カツカツと自分の足音が聞こえて戸惑いながら立ち止まった。
 なんだろう、この奇妙な違和感は。一段降りると、カツンと音がした。
 ああ、そうか。靴のせいだ。
 十年前はまだ学生で、スニーカーを履いていて、階段を降りる足音を立てたりしなかった。今はスーツに革靴だ。革靴の硬いソールが足音を立てている。
 そう気がつくと、店の名前は似ていても、ドアの向こうはJーPOPか演歌、ムード歌謡が流れているかもしれないと思った。
 深呼吸をしてドアを開ける。
 キャットネストの店内は透の記憶にあるキャットより薄暗かった。薄く柔らかいショールに包まれるような、暖かい空気に囲まれた。
 
 耳に心地いい音量で、ユー・ドント・ノー・ファット・ラブ・イズ、が流れていた。ギターと絡みあう女性ボーカルの声がぞくりと心を震わせてくる。
 蠱惑的に少ししゃがれた声。誰だろう。
 就職したころから、ジャズはおろか、音楽を聴かなくなっていた。
「カサンドラ・ウィルソン、気に入ったみたいね」
 カウンターの中から声がかかった。長い髪を後ろで三つ編みにした女で、黒いVネックのセーターからきれいな鎖骨が見える。薄い胸のバストラインがきれいだ。
「コートを預かりますよ」と背後から声がかかる。
「あ、どうも……ありがとう。よろしく」
 髪をショートカットにした女にコートを預けると、「これをお持ちください」と眠り猫の形の小さい木札を渡された。裏には猫の肉球の焼印がひとつ。眠り猫のクローク札をスーツの内ポケットに仕舞う。
「お荷物は?」
「地下鉄のコインロッカーに預けたよ」
 ショートカットの女は軽く頭を下げ、カウンター横の引き戸を開けてコートを収納した。キャットにクロークルームはなかったなと思い、透の心はざわついた。小さな変化が残念でならない。
「どうぞ」
 カウンターの女がゆるい弧のL字カウンターの、弧の手前にコースターを置き、コースターの両サイドにメニューを置いた。
 カウンターは昔のままだが、カウンターチェアはキャットのそれよりひと回り大きく、背もたれもある。キャットの古びてがたついたチェアに比べれば、確かに座り心地はいいのだが、古びたチェアに腰掛けてマスター相手に愚痴のひとつもこぼしてみたい気がした。
 おれは何しに来たんだろう。ノスタルジーにひたりたかったのか。それなら残念でした、だ。
 ハイボールを注文し、フードメニューを見る。不覚にも「あっ」と小さく声がもれてしまった。キャットのメニューと同じだ。そこに新しいメニューが加わっている。
「ねこまんまチーズを」
「はい」女はにっこりしてBGMを変えた。最晩年のビリー・ホリディの声が流れてきた。透はネクタイを緩めた。
 アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー。晩年のビリーの声が、透の箍を外していく。
 透は緩めたネクタイを外して、くるくる丸めて上着の左ポケットに仕舞った。
 カウンターの女になんと呼びかければいいのか。ママ? なんか違う。名前を訊くのをためらった。
「あの……キャットのマスターをご存知ですか?」
「野木さん? 」
 透は曖昧に首を傾げる。マスターの姓も名も知らなかった。
「野木洋介さんなら知っていますよ。野木さんのお客さん?」
「学生のころに何度か父に連れてきてもらったんです。久しぶりに帰省したんで、キャットはまだあるだろうかと……、じつはキャットに来るのは十年ぶりなんで……マスターは元気ですか?」
 女の顔が翳った。グラスいっぱいの氷にウィスキーがそそがれる。マドラーがたてる氷の音を、透は眼を閉じて聞いた。
「野木さんは三年前に脳梗塞になられたんです。パートナーの莉花さんが看病とリハビリをされてますよ。野木さんがキャットを再開できるまで、わたしとキリコでここを借りることにしたんです。もし復帰が難しいとなったときには、ここの権利を譲っていただく約束で、莉花さんと相談して、少しキャットを改修させてもらって、看板をキャットネストしたんです」
 冷えたグラスが白く曇る。
「莉花さんは週に二度ほどキャットネストでバイトされるんですよ。息抜きになるんでしょうね」
 グラスに氷を追加して、炭酸水を注ぎ、マドラーがくるりとグラスを一周した。半月にカットしたレモンはガラスの皿に載って出てきた。透はハイボールを注文したときに、柑橘は苦手だと言ったかどうか、自分に問うたが、曖昧でしかない。
「お待たせしました」
 ショートカットの女がねこまんまチーズをカウンターに置く。
 透は自分でもつまみによくねこまんまチーズを作る。サイコロにしたカマンベールチーズを盛り、晒しネギをのせ花かつおをかける。好みに応じて、あるいは気分で、一味か七味をかけ、醤油を数滴たらす。簡単で飽きない。
 店の中のかすかな空気のゆらぎが、花かつををゆらしている。
 一味と七味と醤油は楕円の皿に載ってきた。さっそく、チーズにこんもりネギをのせ花かつおを散らさないように口に入れる。
 うまい。ネギの切り方と水の晒しかたからして違うんだろう。雑じゃだめだな
 ネギだけ口に入れ、納得した。
「わたしはマリエ、あのコはキリコ。今後ともどうぞよろしく」
 カウンターにマリエとキリコのキャットネストの名刺が並ぶ。透はかすかな抵抗を悟られないように自分の名刺をカウンターに置いた。
 マリエは「金沢にお住まいなんですね」と言いながら、マリエとキリコの名刺を透の名刺に重ねて差しだした。
 透は三枚重ねになった名刺をシャツの胸ポケットに入れ、ハイボールをひと口飲んだ。うまい。一気に飲み干したいのを我慢する。
「大学が金沢だったんです。山が近く、海も近く、魚が美味い。街の雰囲気もすっかり気に入って、そのまま金沢で就職しました。おかげで名古屋は年に一度か二度、帰るぐらいになっちゃって」
「なぜ金沢だったんですか? 県内の大学じゃないし、関東でもない」
「なんだろ。カナザワって響かな。優雅でまったりして、でも特に理由なんてなかったりして」
 アハハ、と笑った透は、その笑いのあまりのウソっぽさに、ハイボールを飲み干した。一杯でやめておけ、と自分に言い聞かせた。

 金沢行きの真実なんて、カッコ悪すぎるってもんだ。
 好きだった高校の同級生が好きだったのはおれじゃなかった。おまけに志望大学がその彼女と同じで、もう一つおまけに彼女の彼とも同じだった。最悪の二乗だ。
 頭の中が真っ白になって、とにかく外へ出よう。県外へ行こう。三重とか岐阜とかじゃ近すぎるし、東京と大阪に行く気になれないし。
 太平洋側じゃなくて、日本海側へ行くってのはどうだろう。
 それしかないと、そのときは真剣にそう思った。そうした。
 うちは裕福じゃないから、大学の四年間は必死でバイトしたけど、不思議にそれが楽しかったんだ。金沢へ来てよかったと思えた。
 そのまま金沢で就職。仕事は好きだった。プレッシャーはあったけど、仕事が自分に合っていると感じていたから夢中で働いた。
 山オタクの男たちと知り合って、日帰り登山を楽しむことを覚えて、泊まりで二〇〇〇メートル級の山にも登るようになっていった。
 白山のピークで金沢に来たのは運命だったんだ、と思った。

「金沢に呼ばれたんですね。じゃ今夜のその隠しきれない、なんとなく憂鬱な気配はなんですか?」
 透は思わず両手で顔をぬぐった。グラスを持っていた右手が冷たい。息を吐き、皿に残ったネギと花かつおを集めて口へ入れた。箸で取りきれなかったネギと花かつおの欠片を見つめながら箸を置く。
「姉貴がね、おれの小学校と中学校の同級生と結婚したんですよ。五年前だったかな。もちろん祝福しましたよ、おめでとーってね。結婚祝いに何を贈ればいいか見当がつかなくて、親父に『無理したな』と言わせるぐらいの現金を贈ったんです。あの時も、今でも、おれには大金で無理しすぎだと思うけど、不思議に惜しいとは思わなかった。でも、なんつうか、こう、もやっとしてんですよね。もやもやっと……ハイボール、もう一杯」
 焼きおにぎりを注文して、今夜はこれでおしまいにしようと思った。錦三を歩きまわり、やっと見つけたキャットネストのほどよい暖房が、溜まっていた疲れを解いて、ついでに眠気を解放したのかもしれない。
「家族から、なんとなく疎外感?」
 マリエの好奇心がやんわりと透を攻めてくる。
 透は曖昧に首をかしげ、曖昧にうなずいた。
「幸彦っていうんですよ、そいつ。姉貴は清と書いて「きよ」。幸彦は二男坊で、おまけにやつの姉貴はおれの姉貴のバレーボール部の先輩ときてんだから、ローカルもいいとこです。幸彦はなんかこう、ちょうどおれの場所に嵌った感じなんですよね。おれんちの家族の、おれがいた場所にうまい具合に納まっちまったというか……言ってる意味、わかります?」
「あなたの不在の空白を埋められてしまった、という感じかしら」
「うん、そんな感じでさ、なんか幸彦のほうが使い勝手が良さそうですらあったりするわけ」
 なに言ってんだ、おれ。なに愚痴ってんだよ、かっこ悪い。
「でさ、子どもができたら姉貴たちは実家に転がり込んだんですよ。姉貴は仕事を辞める気なしで共稼ぎだし、両親も異議異論なしって感じで、二階は姉貴と幸彦が使うことになり、メデタく、おれの部屋は明け渡しになったというわけです。おれの荷物は丸っとトランクルームへお引っ越し。おれの実家の居場所場は完璧になくなっちまったな……と。そういう時にはまたタイミングよく、実家の近くにトランクルームができたりすんですよね」
「運命ね」
 キツイこと言うぜ、この女。
 キリコが黙ってコースターにグラスを置いた。
 ウィスキーが濃く、炭酸が強い。気のせいだろうか。
 だが二杯目は気持ちよく咽喉を降りてゆく。透は二口三口と続けて飲んだ。焼きおにぎりはもう食えそうもない。
 客は透だけだった。
 コルトレーンの伴奏でジョニー・ハートマンが歌っている。
 酔いが回っている。ここで寝ちまうのは、まずい。
 立ち上がろうとして、派手にカウンターに肘をぶつけた。
「勘定を……」
「はい、承知しました。その前にコインローッカーに預けた荷物を、キリコに取りに行かせるわ。鍵をくださる」
 言われるままに、コインローッカーの鍵を渡し、場所を教えた。
 タクシーを呼んでもらおう。迷惑だろうとなんだろうと、とりあえず実家へ帰ろう。
 タクシーを……呂律が回っていないのか。マリエに伝わっていないようだ。
「コートよ。自分で袖を通せる?」
 されるがまま、マリエにコートを着せられた。三つ編みにしたマリエの髪が、透の首筋をくるりと撫でた。
 キリコが戻り、ドアから入りこんだ冷たい外気が透を嬲っていく。コルトレーンとハートマンがいなくなり、タイナー、ギャリソン、ジョーンズもいっしょにいなくなってしまった。
「キリコ、看板は消したわね。火の始末はいいかしら」
「オーケーよ。外に車を停めてあるから急いでね。わたし、先に車に戻ってる」
 店の明かりが消える。
 透の脱力した身体をマリエが軽々と支える。キャットネストのドアに鍵をかけ、地下の通路を歩き、地上へ向かう階段を一段一段上がっていく軽やかさに身を委ねた。心地よさに抵抗できない。
 一歩ごとにマリエのお下げ髪が頭を撫で、頬に触れ、コートごしに背中にあたるのを感じていた。
 外気は冷たい。顔や手に落ちてくるのは雨だろうか雪だろうか。 
 車のドアを開ける音がして、後部座席に座らされる。脱力した上半身が勝手に倒れていく。倒れた先の、枕にちょうどいい位置に透のバックパックがあった。
 透はバックパックを抱くように頭を乗せ、睡魔に逆らうのをやめた。
 エンジンがかかり、車が走りだす。

 ゆっくり休んでね。
 キリコはいま生殖期なの。わたしたちの生殖期は一生に三度だけなのよ。一度の生殖期は一週間しかないわ。一生に三度、一週間が三度。しかもふいにやってくるの。
 あ……! って感じね。
 キリコにとって初めての生殖よ。キリコの生殖期は一昨日から始まっている。今夜を含めて残り五日。
 でもわたしたちの経験値から、一週間の真ん中の三日間は成功率が高い。だからといって、誰でもいいというわけにはいかないものなのね。
 マリエがふふっと笑う。
 わたしたちは発情しない。生殖行為があるだけよ。でもね、残念ながらそれぞれの好みってものが、成功率に関係してくるようなのね。
 キリコは透さんが気に入った。今夜だけ、あなたの……を貸してちょうだいね。

 助手席に座っているはずの、マリエの三つ編みの先が透の顔から頭を撫でながら、常に触れ続けている。マリエの声は髪の先から伝わってくるのだ。

 なんなんだ。いったいなんなんだよ。おれのなにを貸すって? なんなんだ? おれはどうなる?

 大丈夫よ。痛みも苦しみもない。意識を失うこともないわ。ただうとうとしてるだけ。
 マリエの声が甘く透の困惑を包んでいく。

 猫が咽喉を鳴らしている。猫が甘えた声で鳴いている。
 眼が醒めているんだろうか。うとうとしてるのか。わからない。動けない。金縛り? まさか。

 透は仰臥していた。いや大の字に仰臥させられていた。
 肌に触れるものすべてが柔らかく気持ちがいい。毛足の長い上質なカーペットに寝かされているのか? わからない。背中、尻、ハムストリングス、脹ら脛、そして腕に触れるこの感触はなんなんだ。
 何も着ていない。おれは裸なのか?
 薄目を開けようとするが、暗闇で眼を開けているのか閉じているのかもわからない。

 マリエの髪が額に触れ、大丈夫よ、とささやく。あなたはなにも見なくていいの。見ないほうがいいのよ。
 マリエの髪が瞼をなでる。
 おれは眼を閉じているのか?
 なにかが指先をざらりと舐める。指先から指の腹、指と指の間、そして腕へ。
 何匹かの猫が念入りに舐めているようだ。だが猫の鳴き声はない。咽喉を鳴らすのも聞こえない。
 脇から胸、腹、臍、太ももから膝、脛、足の指。やがて舌は股間へと這い上がっていく。
 意に反して股間は熱く反応し、意に反して声が漏れる。
 こいつ本当に猫なのか。
 しーんという音が聞こえる気がする。静かすぎる。

 困った人ね。キリコの声。微かな笑い声。

 唇が塞がれ、舌が入ってくる。
 これは何だ。ほんとうに舌なのか。一瞬のパニックを顔を撫でるマリエの髪が取り去っていく。
 眠い。

 ありがとう。お疲れさま。
 ふふっと笑うキリコの声。
 
 透の意識は闇へ落ちていった。

「はーい、行ってらっしゃい」
 楽しげなキリコの声で透は眼を醒ました。起き上がろうとして、シートベルトに阻まれた。マックスまで倒した車の助手席で眠っていたのだ。
 背もたれを起こすと、「行ってきまーす」といいながら手を振るマリエが見えた。
 よく見る風景、ここは……星ヶ丘だ。
「マリエは仕事よ」
 午前八時半。十時から接客トレーニングの講師をするのだと言う。
「わたしは伏見で仕事なの。途中であなたを降ろすわね」
「おれも星ヶ丘で降りるよ」
「ダメ。マリエの仕事場までついて行っちゃいそうだもの。自宅までお届けするわ」
「自宅はやめてくれ」
 キリコはうふふと笑って、ひとつ右の車線へ移動した。
「今夜、錦三へ探しに行っても、キャットネストはないですよ。わたしたちを探さないでね。探すあてもないでしょうけど。でも、もしまた出会ったら、それは偶然じゃない」
 信号が黄色から赤になり、車は停まった。
 キリコが透に身体をを寄せて、「今度会ったら、あなたの娘ががあなたを喰うわ。父親として自分の血肉を娘に与える気概はあるかしら。それがないうちは、会うことはないわね、絶対に」とささやいた。
「娘……なのか?」
「そうよ。わたしたちメスしかいないの」
 信号が青になった。

 確かに透は実家の前で降ろされた。
 家の前で鉢植えに水をやっていた母と、犬の散歩から帰ってきた幸彦がキョトンと走り去るキリコの車を見ている。昨夜は大型のセダンだったような気がするが、キリコの車は軽のワンボックスだった。
 家の中から、幼児の笑い声がして、清の「やめなさい!」という声が聞こえる。
「なんだよ、透。連絡なしで実家をすっぽかしといて、女と一緒だったとはね。やるねぇ。すげぇ美人だな。おおっと、おかえり」
「透、なにやってんのよ。来ないなら来ないで、メールしなさい。あ……おかえり。とうさん、とーさん。透が帰ってきたよ」
 あっという間に実家気分になった。
 幸彦が透のバックパックを持ち、かわりに犬のリードを渡してきた。
「よう、ムツ。久しぶりだな」
 柴犬ミックスのムツは透に飛びつき、スーツを舐めはじめた。
「ムツ、ほんとおまえ番犬になれねえのな。たまにしか会わねえ透に懐くなって」
「妬くなよな、ユキ」ムツは五歳、キヨと幸彦が結婚してすぐ市動物愛護センターで譲渡してもらってきた犬だ。
「やめろ。スーツに犬の唾液をつけるな」
 笑いながらしゃがんでムツをくしゃくしゃと撫でると、ムツがスーツに鼻を突っ込んでくる。
「なんにもねえぞ」
 といいながら上着をはらうと、指先に小さい何かが当たった。
 なんだろうと探ると、内ポケットから眠り猫の形をして、裏に猫の肉球の焼印がある木製のクローク札が出てきた。
 シャツの胸ポケットにキリコとマリエの名刺はなかった。自分の名刺とクローク札を呆然と見つめる透の手を、ざらりと猫の舌が舐めた。十六歳の猫が透を見上げてかすれた声で鳴いて、また手を舐めはじめる。
 違う。昨夜、おれを舐めた舌とは絶対に違う。おまえ、それをおれに教えにきてくれたんだな。おまえ、わかってくれてるんだな。
「ミイ、ミイばあちゃん。元気か?」
 透はミイを抱き上げ頬ずりした。ミイが透の頬を舐める。高校の部室裏で鳴いていたまだ眼も開いていないような子猫だった、ミイ。

 金沢に戻ってすぐ、清が「ミイが永眠した」と電話をしてきた。
「うん、わかってたよ。ミイはちゃんとおれに挨拶にきたんだ」
「そうだね、透の大事な猫だもんね」
 それからずっとおれのそばにいてくれてるんだぜ。ミイはおれのガーディアンなんだ。

 

 
 

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