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コーチングに固執しない

2022/08/11

コーチング業界に納得行かないことがある。安易に「カウンセリングと合流している」だの「うちのコーチングはカウンセリングも活用している」と言ってしまう支援者・事業者がいることだ。

第一に、コーチングとカウンセリングは本来全く異なる専門性を持つ。境界を曖昧にし、うまみを吸おうとすると、どちらの領域の尊厳も傷つける。

第二に、支援者が苦悩体験を一般化して援助に活かそうとする行き過ぎた姿勢が気に触る。それは援助ではなく、「おせっかい」だ。おせっかいは社会に必要不可欠だが、援助のプロとしての倫理には抵触するだろう。おせっかいのつもりが押しつけになってしまう。

評価判断をしないをよしとする支援者が押し付けると、もはや「ミイラ取りがミイラに」なってしまう。力になりたい想いが空回りして、評価をし、価値を押し付けてしまう。
自分とクライアントは全くの他者性を抱える存在だ。今一度自覚せねばならない。

第三に、コーチの承認欲求と生活維持のためという力学が透けて見えるから。承認のためには、解決策を揃えているように見せねばならないようだ。
コーチは「もともとミイラだった人がミイラ取りになった」人間が多い。それは何ら問題ない。原体験と情熱に基づいた仕事をする人が増えるのは嬉しい限りだ。

問題は、ミイラ取りをすることで自身の苦痛や傷を癒そうとすることだ。ミイラとしての苦痛や傷と十分に向き合えていない結果である。それはプロではない。プロの倫理に基づいた仕事ではない。

自分の苦痛を分割し、クライアントに投げ出すような力学が観られる。無意識なのがまた、タチが悪い。

三つの理由をまとめて訓戒とするなら「コーチングの限界を把握すること」に尽きる。コーチングは何ができ、何ができないのか。自分は何のプロなのかを把握し、誠実にクライアント及び社会に発信する。提供する。ここに一つの倫理があると考えている。

ごく当たり前のことを大声で書いているが、業界として責任を持つことができていないだろうということを言いたい。

そういうわけで、「一人ひとりにコーチがつく」未来を描かない。そのビジョンに賛同できない。コーチングとは自己成長や変化、学習というある種特殊な文脈で機能する専門的な援助だからだ。

一方で、「コーチングマインドを広げる」ということには同意している。プロコーチが行う、カウンセリングより高価なセッションが、消費者向けサービスとして民主化される可能性はゼロだろう。ただ、「コーチング的なモノの見方・人との関わり方」なら民主化され得る。

僕が気にかかっているのは、言葉と思惑が一致しない感覚だ。「一人ひとりにコーチがつく」と掲げる時に、深いところで想定されているのは、「みんなにコーチがつく」という現象ではないように聴こえる。

代わりに、「心と向き合う」という習慣や技術か民主化されることを意図しているのではないか。だからこそ「カウンセリングとかぶる部分がある」などと言ってしまうのではないか。
目的を見失い手段が肥大化し起こっている事件なのではないかと推理したい。
これではミイラ取りがミイラになっている。目的と手段を取り違えて人生の事業を進めているとなると、ちゃんちゃら頼れないコーチだ。

「心と向き合う」というのは、2つの要素でできている。「心を感じる」ということと、「心を考える」ということだ。心の意識しづらい部分・深いところをしっかりと感じること。そしてそれを言葉に圧縮し、意識化してみることで「心と向き合う」姿勢となる。これは単に感情のみではなく、思考や身体感覚、信念、過去、未来、ある種の心的外傷などが含まれる。

そんなわけで、今そしてこれからコーチング業界でhalが解いていく問いの一つは「コーチングに固執せず、『心と向き合う』機能を民主化していくには?」と定義される。表題「コーチングに固執しない」につながる。

弊社のRenewサーベイフィードバック・エグゼクティブコーチング・マネジリアルコーチングはベンチャーの経営やマネジメントが「心と向き合う」契機と実際になっている。生き方テラコヤは、愚直に「心を感じる・心を考える」をライフスタイルとするようなクラスや援助を届け続けている。

掲げる問いによって、法人もヒトも在り方が大きく変わると認識させられる日々だ。

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