見出し画像

劇場

劇場/ 又吉直樹著

売れない劇作家の男がある日、画廊で見かけた女優志望の女に一目惚れし、一緒に暮らすようになるが、男は女の優しさに甘え、次第に奔放になっていく。


主人公の永田と自分が重なった。甘えさせてくれる人に対して感謝を忘れてしまい、どこまでも甘え続け、自分ではなかなかそこから抜け出せない。頭ではいけないとわかっているのに、昨日と同じ無駄な一日を過ごしてしまう。途中からは横暴な永田という人間が嫌いになっていたのに、小峰という才能と対峙している永田と自分を重ね、絶対に負けないでくれと読みながら願っていた。一行一行がパンチラインの連続で、一気に読み進めた。考えもしなかった考えや、今まで目を逸らしていた自分の汚物的な内面を暴露されたような部分もあって忘れられない一冊になった。


・お気に入りの文章

頬肉が溶けるほどの猛烈な脱力感が押し寄せて、膝の内側の骨を地面に叩きつけてみたくなる衝動に駆られながら、なんか「衝動」という言葉は簡単で嫌いだなと思った。(p8)

イメージとして湧き上がってきた感情を「衝動」という使われ倒した一言で片付けてしまうと、元の感情自体が陳腐でよくあるものの中の一つに感じてしまう。そう感じる時が自分にもある。そして衝動という言葉しか浮かんでこない自分を情けなく思う時がある。


表現に携わる者は一人残らず自己顕示欲と自意識の塊やねん。俺もキミ達も。相手から受ける攻撃減らすために笑ってるだけやろ。(p35)

青山達が劇団を辞めると口論になった際に永田が放った台詞。どうしてこの言葉を言ったのかはよく分からなかったけど、永田が表現に対して真向から勝負してる姿勢を表してると同時に、永田の不器用さを体現した言葉だと思った。


人間が泣くときは、前後不覚でなければならないと思っていた。だけど沙希には涙を感動の物差しとして誰かに示すことを恥と思ういやらしさがなかったのだ。(p57)

沙希が永田の脚本を読んで涙を流して賞賛した時に永田が思っていたこと。泣くということについてこんな風に考えたことがなくてビックリした。でも誰かに感動を伝える時に自分も、声のトーンを上げたり、目を見開いたり、動作を大きくしたり、色々な物差しを使っていたんだと改めて思った。沙希の純粋さを表現する最高のパンチラインだと思った。


野原と『まだ死んでないよ』という劇団の公演を観に行ったのは年が明けてすぐのことだった。.....脱力させる意識的な劇団名が苦手で、まだ観たことはなかった。演劇だけにかかわらず、創作全般に対して気負い過ぎず自然体であろうとする雰囲気を過剰に主張したがる輩が性に合わなかった。(p109)

自分がまさにやっていることを見透かされたようでハッとした。ツイッターやインスタのアカウント名だったり、youtube動画のタイトルだったり、大真面目にやっていると思われるのが怖くて、「気負い過ぎてない雰囲気」を出して、ボケという逃げ道を作ってることがバレてると思った。恥ずかしくなった。


芸術というものは、何の成果も得ていない誰かが中途半端な存在を正当化するための隠れ蓑などではなく、選ばれた者にだけ与えられる特権のようなものだという残酷な認識を植えつけられた。(p128)

小峰が天才であるという前提で話す青山と会話を進めていかなければならなかった時の永田の気持ち。

これもまさに自分がやってることだと思った。単純に構成が稚拙なだけの動画や文章に芸術という名前をつけてしまえば何だって許されると思っている節が自分にはある。ただ、後半部分の「選ばれた者にだけ与えられる特権のようなもの」というのは了解できない。芸術は誰が作ってもいいと思うし、それで飯が食えなくても、賞賛する人がいなくても、自分の作品に誇りを持っていい。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?