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ズレの多い人生を送ってきました
数十年生きてきて、はなはだ痛感することには、どうも私は世間からズレているらしい。
価値観、嗜好、行動、ステータス。何もかもが微妙にズレていて、思えば人生の1/4くらいをこのズレの修正に費やしてきた気がする。
その甲斐あったのかどうか、なんとか進学し、就職し、家庭も持てたが、ここに至るまでには数知れぬズレからのリカバリーがあったのである。
断っておくが、人からズレている自分を「人とはちょっと違う私」としてカッコイイと思ったことはない。
たぶんないと思う。
なかったんじゃないかな。
まあちょっとはあったも知れないが、しかしできれば私だって世間様とはズレずに生きてきたかったのだ。
ズレているということは思いのほかしんどいものだ。
面白い!これ最高!と思ったものが世間ではイマイチとされていたときの悲しみ。
逆に、世間でウケているものをどうしても面白いと思えないときの疎外感。
「それはこうなんじゃないの」と思ったことと周囲の意見が一致しないときの不安。
自信満々で発言したら、周囲が「…え?」とさざ波のごとく引いていったときの、あの穴を掘って埋まりたい感じ。
悪気なく、何気なく発した一言が相手の逆鱗に触れたときの恐怖と罪悪感。でも自分では何故そうなったかが判っておらず、あとで指摘されてハッとする。
思えば経験したくないことばかりだった。もうゴメンだ。自分も人様と同じ価値観、考えを持てるようになりたい。ズレているかもと気おくれせず、人前で堂々と自分の意見を開陳したい。そしてツイッターとかで皆が感心するような鋭い意見を披露しリツイートやイイねを山ほどもらってみたい。
…い、いやそれはともかく、ズレに気付く→軌道修正、という余計な迂回路を歩んでいるぶんだけ、私は人生のリソースをロスしているような気がしてならない。自分だけ盲腸みたいな余分がついたコースを走っているようなものである。
しかし数十年生きてきた今、どう考えても人生の折り返し地点は過ぎている。ドリフで言ったらヒゲダンスでも始まったタイミングだ。
死ぬまでこのズレは治らないと思ったほうがいいのかもしれない。そうしてズレては直しズレては直し、永遠に垂れてくる子供の鼻水を拭き続けるような人生をこのまま送るのかもしれない。
めんどくさいな。
もういいや。いちいちズレを直すのもしんどい。もう直さない。このままズレっぱなしで残りの人生を過ごしてみてもいいんじゃないか。
などと思うこともあるが、初めは小さなズレでも、長らく放置すればその幅は増大し続け、いずれは致命的な孤立に至る。そうなったときに悔いても取り返しはつかぬだろう。そうなりたくなければ、根本的に治らないと判ってはいても、細かくズレを修正し続けなくてはならない。
ならばこうしよう。もうこのズレは不治だ。そして細かく修正を続けることも避けられない。そう認めつつ、そのズレそのものを楽しむことはできないか。それが無理ならせめてそのズレを客観視して面白がることはできないか。
それができれば、このズレまくってきた人生の最後に「でもまあちょっと面白かった」とクスクスできるかもしれない。そう思いつつ、これから私のズレっぷりについて書くつもりだ。
最後に読み返したとき、悲しくなるか、呆れるか、ニヤリとするかはわからないけど、ちょっと憑き物が落ちたような、小ざっぱりとした気分になれるような気はしている。
もちろん、その目論見がズレたところに着地するのも織り込み済みだ。そうして思わぬところに着地してあたりをキョロキョロ見回しつつ、本来の着地点を探して走り出したなら、こんなに自分らしい結末はないと思う。
それはいったいズレているのかいないのか、もう私にもわからない。
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