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【小説】あわてんぼう様に捧げる演舞

 薄紅色をした舞台の上で、ヤアは細く短い木の杖を掲げた。
 杖の先端には分厚い紐と小さな鈴が括り付けられている。ヤアが腕を勢いよく振り上げると、シャラシャラと軽やかな音が鳴った。
 勢いのままに杖はヤアの手からすっぽ抜け、月光を浴びながら空へ飛び上がった。ぽかんと口を開けるヤアをよそに、杖は空中で滑らかに三回転半し、鈴の音を響かせながら落下してヤアの着物の背中側に滑り込んだ。
「うひゃひゃ」
 毛羽立った紐の感触が背中をくすぐる。ヤアは素っ頓狂なうめき声を上げながら着物から杖を引っ張り出した。
 くすぐったさによる笑いが収まると、代わりに落胆の波が押し寄せてきた。はあと嘆息を吐いて舞台に座り込む。冷たい夜気が気分をも冷やすようだった。体も冷えてくしゃみも出た。
「舞手なんてやりたくなかったのに」
 ヤアは恨みがましく呟いた。祭りの演舞を担う舞手に選ばれてから、練習を続け一通りの振付を覚えはしたが、未だぎこちない箇所は多く、今し方のように失敗することもある。明日に迫る祭りの本番を控え、ヤアは不安と緊張と逃走の選択肢を拭えないでいた。
 頭上には星が満ち、円い月が一際大きく輝いている。月から降る銀色の光が、本番で身に着ける銀の髪飾りを思い起こさせ、ヤアは夜空へ向かって「こんにゃろー」と意味のない罵声を飛ばした。
 ヤアの住む村では季節の変わり目に大きな祭りが催される。山の神に感謝を捧げ、豊作や健康を祈るために、古くから伝わる様々な行事を行う習わしとなっていた。
 祭りの当日には、酸っぱい匂いのする木の実を村中にばら撒く行事や、山に棲む鳥の羽ばたきを真似てひたすら腕を振る行事、奇声を発しながら山の麓まで疾走する村長を追いかける行事など、古式に則った祭事の数々が夕暮れ時まで続く。やがて日が落ちる頃、祭りの締めくくりとして、選ばれた舞手による「ツクヮ舞」が執り行われる。
 舞手は一定の年齢の若者から選ばれるしきたりだった。まずは希望者が募られるが、今回は誰も名乗りを上げなかった。自ら希望する者がいなければくじで選ぶのが慣例だったが、それを曲げて村長がヤアを指名し、村の大人たちもそれを歓迎した。
 理由は名前にあった。「ヤア」という名前は、遥か昔に初めてツクヮ舞を踊ったとされる伝説上の人物の名前から取られていた。その伝説にあやかろうと、村長たちはヤアに目を付けたのだった。
 名前の由来がどうあれ、ヤアは村でも有数の不器用者で、身のこなしにさっぱり自信がない。しかし「初代様の再演だ」「新たな伝説の幕開けじゃい」と勝手に盛り上がる大人たちの勢いに押され、結局は引き受ける羽目になってしまった。
「ツクヮサマを怒らせたらどうしよう……」
 ヤアは緩慢に腰を上げ、舞台の裏手にある山の方角を見た。木々に覆われた雄大な輪郭を、月明かりが薄闇の中に浮かび上がらせている。静寂に包まれたその姿は、厳かな神秘の気配をまとっていた。
「ぐうるるるる」
「クアーックアーッ」
「ヂヂヂヂヂ」
「うるさっ」
 神秘の気配は急激に霧散した。
 山裾の林道から獣や鳥の騒ぐ声が聞こえてくる。随分近い位置で鳴いているとヤアが気づいた矢先、木々の隙間から無数の丸っこい鳥があふれるように飛び出してきた。
 ヤアが呆気に取られているうちに、鳥たちは茶色の翼をはためかせ舞台を囲むように地面へ降り立った。
 何羽かは小さな黒い瞳を舞台上に向け、品定めするかのようにヤアを眺めている。別の何羽かは自分たちが通って来た森の方へ眼差しを注いでいる。一羽だけ着地に失敗してぽかんとした表情で尻餅をついている鳥がいて、ヤアは何となく親近感を覚えた。
「あら? 一人しかいないじゃない」
 鳥でも獣でもない声が響いた。
 痺れるような体の強張りを感じて、ヤアは手から杖を取り落とした。舞台に落ちた鈴の音だけを残して、周囲には再び静寂が満ちていた。鳥たちは一斉に声の方へ体を向けた。尻餅の鳥だけは起き上がるのに忙しかった。
「ツクヮサマ……?」
 森の暗がりから現れた姿を目にして、ヤアは呆然と呟いた。
 一見すると、ヤアと大差のない背丈をした小柄な人物だった。蔦のような紋様が刻まれた木彫りの面で顔を覆い、面と同じ意匠が縫い込まれた裾の長い装束と、薄紅色の草で編まれた履物を身に着けている。結った髪を留める飾りが、月光を弾いて銀色に煌めいていた。
 面の人物は鳥たちが左右に分かれて開けた道を通り、ヤアのいる舞台へ真っ直ぐに迫ってきた。
「あなたは舞手? 他の村人はどうしたの? 来るのが早かったかしら? それとも祭りは取り止め?」
 忙しなく足を動かしながら、面の人物は矢継ぎ早に問いかけた。
 ヤアは何か答えようとして、舌がもつれて「もぬ」としか言えなかった。無意識に後ずさった足が、落としたまま転がっていた杖を踏みつけた。
 気づくと星々を視界に映しながら背中側へ体が倒れていた。夜空から落下するようなその感覚を、舞の練習中にも何度か味わっていた。ヤアはその経験から瞬時に判断を下した。ちょっと痛いから覚悟しよう。
「粗忽な子ね」
 呆れたような声を合図に、草木のつるに似た長いものがヤアの手首と腹に巻き付いた。
 蔓の表面には細く硬い毛が生え、むき出しの手首をつついてくすぐったい。ヤアが「うひゃひゃ」とうめいているうちに、傾いた体は蔓に引き上げられ、転倒の軌跡を逆向きになぞって元の体勢へ戻っていった。
 すでに面の人物は眼前まで来ていた。ヤアを受け止め引き上げた蔓は全て、装束から僅かに覗く喉元から生え伸びている。蔓は緩やかに波打ってうごめき、その度にヤアの手首は表面の毛につつかれた。
「うひ、うひゃひ」
「くすぐったいの?」
 上下左右に顔を引きつらせるヤアを見て、面の人物はくすくすと笑い声を上げた。
 巻き付いていた蔓が不意に緩んだ。かさりと乾いた音を立てて落ち、緑色の粒になって崩れていく。周りを囲む鳥たちの何羽かが舞台に上り、後に残った緑の粒を恭しげについばんだ。
 ヤアは荒い息を吐き出し、声を震わせながら「あ……ありがとうございます」と言った。
「折れてしまったわね」
 面の人物がヤアの足元を指差した。指の示す先を見ると、ツクヮ舞で使う祭礼用の杖が二本に増えていた。
「わーっ」
 青ざめて叫ぶヤアを眺めながら、面の人物はけらけらと愉快げに笑った。

 村人たちにとって、ツクヮサマは崇敬と畏怖の対象だった。
 山神やまつみの加護を人々にもたらし、人々の祈りと供物を山神に届ける、人に似て人ではない山神の使い。山に棲む鳥や獣を従え、草木を生み出し育む力を持つ。
 山中の奥深くに暮らし、人前に姿を現すことは滅多にないが、ツクヮ舞の夜には決まって村へ降りてくる。山神はツクヮサマの目を通して、人の捧げる舞を眺め愉しむのだと言われていた。
 ツクヮ舞を木彫りの面越しに見つめるツクヮサマの姿を、ヤアは幼い頃から何度も見てきた。ツクヮサマはほとんど言葉を話さず、古木のように伸びた背丈や、傍らに従えた強靭な体躯の鳥たちも相まって、粛然として近寄りがたい威光を放っていた。
「祭りは明日か。迂闊だったわ、間違えるなんて」
 威光のの字もない軽やかな調子で眼前のツクヮサマが言った。舞台の端に腰掛け、悔しげに眉根を寄せながら、喉から赤い実をしきりに飛ばして鳥たちの歓声を浴びている。
「逸って動くとこういう失敗があるからいやね。あ、他の人には内緒にしてちょうだいね。慌て者のツクヮと思われたくないから」
「は、はい」
「……あなた今、『実際慌て者のくせに』と思ったでしょう」
「い、いえっ、決してそのようなっ」
 ヤアが猛然と首を左右に振ると、ツクヮサマは「本当かしら」と笑い声をこぼした。
 ツクヮサマは時節が来ると土地をお替わりになる。以前村長に聞かされた話をヤアは思い出した。村長が子供だった頃は、背丈の倍ほどもある髪を箒のように逆立たせたツクヮサマが村に訪れていたらしい。
 それにしても随分な違いようではあった。記憶に染みついた厳粛なツクヮサマと、軽口を叩いて笑う目の前のツクヮサマが、いずれも同じくツクヮサマ。戸惑うヤアの頭の中を、二人のツクヮサマが縦横無尽にぴょこぴょこと跳ね回っていた。
「ねえ、あなた舞手よね」
 実物のツクヮサマもぴょこんと跳ね、舞台から地面へ降り立った。
「ツクヮ舞、今からやりましょうか」
「はい……えっ?」
 反射的に頷きかけて、ヤアは体を強張らせた。
「折角ここまで来たのだし、用事を済ませてしまいたいの」
「あの、他の祭事もありますから、明日でないと……」
「大丈夫よ。ツクヮ舞の他は山神様と関係ないから」
 ツクヮサマは何でもないような調子で言った。
 ぱくぱくと口を開閉させた後、ヤアは「えーっ」と目を白黒させた。ツクヮサマは悪戯が上手くいったかのようにくっくと息を弾ませた。
「時を経て儀式が伝えられていくうちに、人々が少しずつ付け加えていったのよ。山神様を喜ばせようとしたのか、自分たちが楽しむためだったのかは知らないけどね。……あ、他の人に言ってはだめよ。ツクヮはなるべく人の営みに干渉してはいけないの」
 驚かせたくて教えてしまった、とツクヮサマは気まずそうに首の裏を撫でた。周囲の鳥たちから咎めるような鋭い声が発せられたが、ツクヮサマが喉から赤い実をばらまくと即座に喝采へ変わった。
「まあともかく。舞手とツクヮさえいればツクヮ舞は成立するというわけ」
「でも、明日の舞は急にやめられません」
「半分ずつ分けるのよ。今日と明日で」
 ヤアが折った杖を舞台から取り、ツクヮサマは「この杖みたいにね」とからかうように言った。頬に熱を感じながら、ヤアは「どういうことですか」とぶっきらぼうに尋ねた。
「ツクヮはね、ツクヮ舞をぼうっと眺めているわけではないの。自分の身を山神様と結びつけて、見えるもの、聞こえるもの、舞から感じ取るあらゆるものを、余さずお伝えする役目があるから。集中は乱せないし、体は消耗するし、面は汗を吸ってふやけるし、けっこう大仕事なのよ」
 ツクヮサマはやれやれというように首を振った。
「祭りとなれば人も集まる。ツクヮとしてそれなりの振る舞いをしなくてはいけないから、余計に疲れるのよね。くたびれて寝転びたくても、体面を考えるとやりづらいし。まあどうしても寝たくなったら寝るけど」
「ね、寝ないでください」
「疲れる本題を先に片づけておけば、祭りの日には寝ないで済むと思わない?」
 話の向かう先が薄っすらと見え始め、ヤアはごくと唾を飲み込んだ。
「今から山神様に捧げるためのツクヮ舞を行う。大仕事には変わりないけど、人目を気にしないでいいし、終わった後すぐに休める。そして明日の祭りでは、形だけのツクヮ舞を気楽に行えばいい」
 ツクヮサマは手に持った杖でヤアを指し、「あなたにとっても嬉しいはずよ」と付け加えた。
「儀式の成否と大勢の視線、両方を気にしながら舞をこなすなんて大変でしょう? 特にあなたって粗忽そうだし、肝も小さそうだし」
「そっ、そんなことありません。沢山練習もしてきたし、大丈夫です」
「あら、頼もしいことね。それなら諦めて今日は帰りましょう。明日、私や村人たちの前で、素晴らしい舞を見せてくれると期待しているわ」
「……ごめんなさい。大丈夫じゃありません」
 ヤアがしょんぼりと肩を落とすと、ツクヮサマは「素直でけっこう」とくすくす笑った。
「私、苦手なんです、踊りなんて。なのに舞手に選ばれて、練習したけど下手なままで、でも大事な儀式だから失敗できないし、みんなは期待してるって言うし、不安と緊張ばっかり膨らんで、ふぐっ、むぐ、うぐぐう」
 ぼろぼろと頬を伝う涙を、柔らかな感触がそっと拭った。ツクヮサマの喉から伸びた蔓だった。表面の細かい毛はくすぐったいが、寄り添うように涙をすくう仕草に、心を落ち着けてくれる優しさがあった。
 やがて蔓はさらさらと崩れ、頬を白い蕾が滑っていった。肩に落ちた蕾を摘まむと、眼前で小さな花が開いた。愛らしいその姿を瞳に映し、ヤアはふわりと微笑みを浮かべた。
 数瞬経って強烈に酸っぱい香りが漂い、ヤアはぎゃああと叫びながら花を鼻から離した。
「それ、気付けに使われる花なの。元気出たかしら?」
「おかしな慰め方しないでくださいっ」
「おかしくたっていいのよ」
 面白がるように弾み、それでいて慈しむような響きをまとった、入り組んだ声音でツクヮサマは言った。
「下手でいいし、失敗していい。私も、鳥たちも、そして山神様も、細かいことは気にしない質だもの。ここに恐れるものはないのよ」
 ツクヮサマは杖をヤアに差し出した。折れた箇所を樹液のようなものが包み、固まって一本に繋ぎ合わせていた。
「あなたの舞を見せて」
 ヤアはおずおずと手を伸ばし、杖を受け取った。繋ぎ方が大雑把で、杖は妙な方向に少々曲がっていた。不思議とそれが心を緩めて、ヤアはふふっと笑いの吐息をこぼした。

 鳥たちが奏でる音色に合わせ、ヤアは懸命に体を動かした。ツクヮ舞の演奏は笛で行われるが、鳥たちが鳴き声で代わりを務めてくれていた。音の高低がずれ気味なのが難点ではあったが、ヤアも振付がずれ気味のためお互い様だった。
 足を伸ばし、腕を振り、鈴の音を軽やかに鳴らして、ヤアは薄紅色の舞台の上で躍動した。
 ぎこちなさが消えたわけではないが、ヤアの心に不安はなく、体は練習した通りに動いてくれた。時折足さばきを間違えて転びそうにはなったが、ツクヮサマの蔓が支えてくれた。ツクヮサマの注意が山神へ向いていたせいか、引き上げる力が強すぎて逆側に転びかけたり、弱すぎてしばらく星の数を数える羽目になったりもしたが。
 舞い踊るヤアの姿を、ツクヮサマは面の向こうから静かに見つめていた。泡のような光の粒が体からあふれ出し、銀色の月明りと溶け合って煌めいた。
 なんて綺麗なんだろう。
 ヤアは舞いながら見惚れていた。見惚れたせいで足さばきを間違えた箇所もないではなかった。
 舞の中頃から先、ヤアの記憶は曖昧になっていった。踊りの巧拙、儀式の成否、期待の重圧、今晩の食事、何もかもが意識から消えてなくなり、思考を置き去りにしてひたすらに舞い踊った。ただ一つだけ、自分を見守る美しい光の在処だけは心に留め続けていた。
 ヤアがふと気がつくと、すでにツクヮ舞は終わりに差しかかっていた。全身を重く満たす疲れさえ心地よく、ヤアは満ち足りた気分で杖を掲げた。残った力を振り絞って腕を振り上げると、儀式の結びを告げるように、鈴の音が凛然と夜闇に鳴り響いた。
 そのまま杖はヤアの手からすっぽ抜け、月光を浴びながら空へ飛び上がった。杖は空中で滑らかに三回転半し、軽快な音を立てながらツクヮサマの頭上へ落下した。
 ツクヮサマはぐらりと体を揺らし、背中側へと勢いよく倒れていった。
「わーっ」
 ヤアは青ざめて叫んだ。鳥たちも一斉にチチーッと叫んだ。
 舞台を飛び降りてツクヮサマの傍らへ駆け寄る。ツクヮサマは地面に横たわったまま、「疲れたっ」と元気いっぱいの大声を発した。足元から力が抜けて、ヤアはへなへなとその場にくずおれた。
「おどかさないでください……」
「仕方ないじゃない、体に力が入らないのだから。あなただってそうでしょう?」
「それは……そうですね」
 ふっと息を吹き出し、ヤアはツクヮサマの隣に身を横たえた。土と草の匂いが鼻をくすぐる。視界に映る無数の星々が煌びやかに瞬いていた。
 不意に頬を撫でられる感触があった。触れた手のひらはひどく冷たかったが、ヤアの胸中には暖かな光が灯った。
「お疲れ様。いい舞だったわ」
「ありがとうございはびぇ」
 頬をむにむにと無遠慮に摘ままれ、感謝の言葉は霧散した。ヤアは苦笑を浮かべたが、その手を振りほどこうとはせず、遥かな光に満ちた空をいつまでも見つめ続けた。

 翌日の夜、ヤアは再び舞手として舞台に立った。
 集まった村人たちの視線や、堅苦しい祭礼用の衣装が緊張を高めはしたが、儀式がすでに終わった気楽さと、傍で見守るツクヮサマの存在が心を落ち着かせ、さほどの失敗もなくツクヮ舞をやり遂げた。
 祭りが終わり片付けを進める最中、ヤアは村長たちから「すまなかった」と声をかけられた。話を聞くと、ツクヮサマから「舞手の心を軽んじて身勝手な重責を負わせることのないように」と戒められたらしい。その気づかいが嬉しくて、村長たちの丁寧な謝罪は途中からさっぱり耳に入らなかった。
 やがて片付けも済んだ後、ヤアはツクヮサマに声を掛けられ、山へと続く林道の前へ来ていた。付き従う鳥たちの姿はなく、ツクヮサマは「内緒話があってね」とわざとらしく声を潜めた。
「村長から聞いたのだけど。あなたの名前、昔の舞手の名前から取っているそうね」
 ヤアは「はい」と頷きながら苦笑いを浮かべた。この名前のせいで舞手をやる羽目になったが、そのおかげでツクヮサマと知り合えたわけでもあり、何とも複雑な気分だった。
「本当は言ってはいけないのだけど、折角だから面白いことを教えてあげる」
 悪戯めかした調子で言って、ツクヮサマはヤアの耳元に頭を寄せた。
「私の名前はね、トヤア●●ネというの」
「えっ」
「誰にも言ってはだめよ。でも、覚えていてね」
 目を丸くしたヤアを見て、ツクヮサマはくすりと小さく吐息をこぼした。
「じゃあね、ヤア。また来るわ」
「あ、はいっ。ぜひいらしてください。いつでも歓迎します」
「いつでもいいの? さっそく明日来てしまおうかしら」
「それは少し早すぎませんか」
 ヤアが呆れたように眉をひそめると、ツクヮサマはけらけらと楽しげに笑い声を響かせた。
 あの人のことだから、本当に明日また来たりして。
 林道の向こうに消えていく背中を見送りながら、ヤアは心の中で呟いた。知らず知らずのうちにヤアの頬は緩んでいたが、その表情を目撃したのは、一羽だけ帰りが遅れて急いで飛んでいた丸っこい鳥だけだった。

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