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一面の地縛霊

 春の中頃にしてはいやに冷たい風が首筋を撫で、私はぶるりと身を震わせた。
 辺りに立つ木々は風に揺られ、ざあざあと軋むような音を立てた。禍々しいほどに赤黒い夕焼けが、葉や枝や幹を血のような色に染めている。
 夕暮れの林道には、木々の発する音のほか、二人分の足音だけが響いている。鳥の声も虫の気配もない、静まり返った空間の中で、息の詰まるような思いをしながら私は歩いていた。
「まだ着かない?」
 隣を歩く友人に視線を向け、私は微かに震える声で言った。友人は手に持ったスマートフォンの画面を見て、「もうちょっと」と囁くように返した。私は小さく頷き、この道のりが早く終わることだけを心中で願った。
 地縛霊を見つけに行こうと友人に持ち掛けられた時、やはり私は断るべきだったのかもしれない。
 友人は幽霊だの妖怪だのというオカルト話が好きで、その手の情報が集まる掲示板サイトに入り浸っているらしかった。私達が住んでいる近辺の情報も時おり書き込まれるようで、廃校になった小学校の窓際で手を振る白い影だとか、仄暗い山中の川沿いで蠢く多頭の蛇だとか、そういう不気味かつ胡乱な目撃情報を、友人は喜んで収集していた。
 集めたそれらの情報を、友人は度々自分の目で確かめたがった。一人で行くなら勝手にすればいいが、困ったことに毎回私を一緒に連れて行こうとする。折角の情報を独り占めするのはもったいないから、と本人は言っているが、単に一人で行くのが怖いだけだろうと私は推察している。オカルト話が好きなくせに、いざとなると腰が引けるところが友人にはあった。
 私もあまり肝の大きい方ではないが、毎度しつこく頼み込まれるので、渋々つき合ってしまっていた。そうして何度か連れ立って噂の場所に出かけたが、これまで情報通りの光景が見られたことはない。出所の怪しいウェブ上の噂に過ぎないのだから、当然ではあった。
 これまでと同じく、今回も何事もないだろうと私は高を括っていた。某町の林道を抜けた先の丘に、夕暮れ時の数分間、地縛霊が姿を現すなどという話を、真に受ける方がどうかしている。
 しかし全身を包む冷気のせいか、林道を覆う静寂のせいか、空を塗り潰す暗赤色のせいか、私はいつにない不安を感じていた。気分の問題だと頭の中で自身に言い聞かせるが、心身に沁み透る重苦しい澱みのような感覚は消えてくれそうにない。私は呼吸を荒くしながら、とにかく前に進むことだけを考えようとしていた。
 しばらく無言で歩く。風は止んで木々の音も聞こえず、私と友人が地面を踏む音だけが鳴っている。ぞわぞわと背中が痺れるような錯覚に顔をしかめながら進んでいると、道の先に開けた空間が見えてきた。
「あそこだ」
 友人は歓喜とも恐怖ともつかない震えた声で言い、小走りに駆け始めた。私も歩調を速め、友人の背中を追っていく。
 林道を抜けると、背の低い草花に覆われた緩やかな斜面が、赤黒い夕日の下に広がっている光景が見えてきた。傾斜を上がっていくと、電波塔らしき建築物が立つ広場のような空間があり、眼下に遠く町の灯りが煌めいていた。
 友人はきょろきょろと左右を確認しながら、忙しく広場を駆け回っている。私は広場の端に立って、ゆっくりと周囲に視線を巡らせた。
 広場のそこかしこには、黄色い花を咲かせた小さな植物が生えていた。タンポポかと思ったが、それにしては花びらの数が少ない気もする。野草に詳しいわけでもないので、どういう種類かは分からないが、ともかく愛らしい外見の花ではあった。
 他に特筆するようなものは見えなかった。電波塔と草花と、動き回る友人の影があるだけで、幽霊の姿などどこにもありはしない。当たり前のことではあったが、私は心からの安堵を抱いていた。風船から空気が抜けるように、強張った体が緩んでいく感覚を味わいながら、私は腰を落としてその場に屈んだ。
 すぐそばに咲く小さな黄色い花に向かって、私は手を伸ばした。優しく撫でるように花びらに触れようと、そっと指を近づけていく。
 私の指先は、何にも触れることはなかった。
 花びらをすり抜けて、空気を撫でる。
 同じ動作を試みて、私は同じ結果を得た。眼前に見える小さな植物の、花にも葉にも茎にも、私の指が触れることはなかった。
 隣の花も、更にその隣の花も同じだった。何本も巻き込むように腕をぶんぶんと振り回してみても、私には何の感触もなく、花々には何の影響もない。
「何、これ……」
 私は呆然と呟いた。目の前で起こった現象を、どう解釈すればいいか分からない。
 私は跳ねるように立ち上がって、黄色い花から逃げるように一歩下がった。冷たい雫が背中に流れ、体中が再び不安の毒素に蝕まれていく。
 意味もなく唾を何度も飲み込みながら立ち竦んでいると、友人の足音がこちらに近づいてきた。
「この花、まさか」
 友人は私のそばに立ち、空気に溶けていくようなか細い声で呟いた。顔色を赤黒く染め、額に脂汗を浮かべて、凍えるように震えながら両腕で自分の体をかき抱いている。
「何か知ってるの?」
 私は叫ぶように声を荒げて友人の肩を掴んだ。友人の震えが腕を介して私にも伝わってくる。心臓が暴れ脈を乱し、私は息苦しくごぼごぼと咳をした。
 友人は小さく首を横に振り、意味を成さない言葉をぶつぶつと繰り返している。
「知ってることを教えて。あの花は何なの!」
 私は手に力を込め、友人の肩を揺すった。友人は目元を歪ませ、掠れる声で「あれは……」と絞り出すように言った。
「ジシバリ」
 友人の声は細く小さかったが、耳の中でその言葉が乱反射するように響き続けた。ごぼごぼと咳を吐き出す。心胆を凍らせるおぞましい予感が、胸中でその輪郭を浮かび上がらせていた。
 私は友人の肩から手を離し、ふらふらと覚束ない足取りで後ろに下がった。友人は俯き体を震わせていたが、やがて顔を上げ、私の目を覗き込むように見た。友人の瞳の奥深くに、異様な熱が垣間見える気がした。
「ジシバリっていう名前の植物があるの。道端とか、山の中とか、色んなところに生えてる。見た目からすると、ここにあるのもそうだと思う」
 広場中に咲く黄色い花々を示すように、友人は腕を広げた。
「でも、このジシバリに私達は触れない。まるで実体のない幽霊みたいに」
 友人の言葉を聞きながら、私は唾を飲み込んだ。胸中に浮かんだ予感はほとんど確信へと変わり、私の全身を稲妻のように刺し貫いた。
「地面を縛るって書いて、ジシバリ。その幽霊ってことは……」
「まさか、そんな」
 ほとんど吐息のような声で私は言った。頭の中で理解と拒絶とが攪拌されていく。血のように赤黒い空を背に負って、友人は口角を裂けんばかりに持ち上げた。
「つまり、地縛霊じしばりれい
 友人の言葉が辺りに響いた途端、一際冷たい風が吹いた。
 立ち続ける力が足からすっぱりと抜けていき、一面に地縛霊じしばりれいの咲く地面へ向かって、私は大きくすっ転んだ。

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