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天狗とポン酢の颪和え

 風に乗って飛んできた白いポリ袋に視界を塞がれ、笠野絵真は「もげ」と間の抜けた声を上げた。
 ポリ袋はそのまま絵真の顔に張りつき、即席の仮面となった。袋からはほんのりと柚子のような香りが漂い、絵真の鼻腔を微かに刺激する。
 絵真がもげもげと呻きながら袋を引き剝がすと、香りは吹き荒ぶ風にかき消えていった。
 はあと荒い息を吐き、絵真は手に持ったポリ袋を睨むように見た。ばさばさと風に揺れる袋の表面には、黒地に朱色の混じった翼を広げ、両手に瓶を掲げて踊る烏天狗の絵が印刷されていた。
 機嫌よく大笑する天狗の傍には、古めかしい書体で「甲夜酒店」と刷られている。
 絵真は軽く目を見開き、肩に掛けたボストンバッグから、青色のカバーに覆われたスマートフォンを取り出した。メモアプリを起動し、「目的地リスト」という表題のメモを開く。飲食店や博物館、神社仏閣などの名前が羅列されている中の最上段に、ポリ袋に印字されているのと同じ店名が、感嘆符を添えて書き込まれていた。
 絵真は小さく頷き、アプリを閉じて青い端末をバッグにしまった。
 白いポリ袋に再び視線を向ける。周囲にゴミ箱の類はないようだった。絵真は袋をくしゃりと小さく丸め、上着のサイドポケットに押し込んだ。
 よっ、と声を上げてバッグを掛け直し、絵真は向かい風を受けながら歩き始めた。
 それなりに傾斜のきつい坂が、吹きつける風のせいで余計に上りづらくなっている。やや冷たい晩秋の空気を顔中に浴びながら、絵真は足を動かし続けた。
 気温の下がる時期になると、跡之原あとのはらでは時おり山颪やまおろしが吹く。
 ウェブや観光誌を当たればすぐ見つかる程度には知られた情報であり、絵真も知識としては理解していた。とはいえ、山から吹き降りる風は想像より強く、巨大な扇風機に前進を阻まれるような感触があった。
 明日には収まるといいけど、と絵真は思う。これほど風が強くては、市街を歩くのもままならない。跡之原に滞在する間、絵真は「目的地リスト」に挙げた各所を巡るつもりでいたから、歓迎できる気象状況ではなかった。
 とりわけ重要なのは、甲夜酒店へ行くことだった。
 飲める歳を一つ越えてはいるが、絵真はさほど酒が好きというわけではない。跡之原に有名な地酒があるわけでもないが、それらとは別の目的のために、絵真は甲夜酒店を訪れたかった。
 椪天ぽんてん、と絵真は口の中で呟く。
 弾むような語感を持つその言葉は、非常に希少なポン酢の名称とされている。ごく少量しか生産されず、限られた幸運な人々のみ口にできる幻の美味。
 ウェブ上を中心として、それなりの範囲に流布している話題ではあったが、実際に椪天を見たという証言はほとんどない。ごくたまに書かれる目撃談も、空想が尾鰭を揺らして泳いでいるような、信憑性の薄い胡乱な話ばかりだった。
 味覚を強烈に刺激する濃厚な味だという話もあれば、口に含んだことを実感できないほど希薄な味だという話もある。透明に澄んだ色のない液体だという話もあれば、宇宙の暗黒物質に似た漆黒の液体だという話もある。山中奥深くの仙境に生る幻の果実を使った品だという話もあれば、天狗の神通力によって作り出される人智を超えた品だという話もある。
 椪天についての言及はどれも霧のように朦朧として、実像を捉える役には立たない。そもそもの実在さえ疑わしくはあったが、それでも絵真は椪天の存在を信じていた。というより、母の言葉を信じていた。
 絵真の母は、椪天を見たことがあると言った。
 見ただけでなく、口にしたことすらあるという。絵真は単なる雑談のつもりで母に椪天の話をしたが、予想外の反応に顎をあんぐりと落とした。
 絵真は詳細を母に尋ねたが、三十年近く前の出来事らしく、はっきりしたことはほとんど覚えていないようだった。絵真の母は大らかな気質で、あまり細かいことは気にせず、過ぎたことはさっさと忘れてしまう。そういう母のさっぱりした性格を、絵真は好ましく思っているが、この時ばかりは少々恨めしい気分だった。
 一応のところ、「跡之原に旅行した時、知り合った地元の人にご馳走してもらった」という話を聞くことはできた。相手の名前も連絡先も分からないが、その人物が「甲夜酒店」と書かれた袋を持っていた覚えはあるという。
 調べてみると、甲夜酒店という名前の酒屋は、現在も跡之原に存在していた。あやふやな記憶に基づく頼りない情報ではあったが、幻のポン酢に繋がる糸を掴んだ気がして、絵真の好奇心はぷくぷくと湯のように湧き立った。
 甲夜酒店に行けば、椪天の実物を見られるかもしれない。そうでなくても、手がかりくらいはあるかもしれない。淡い期待に基づく皮算用が、絵真に旅の計画を立てさせ、そして実行させた。
 母との椪天問答から二週間ほど経った今、絵真は跡之原の地面を踏んでいる。
 長い電車行の後で、すでに日は沈みかけていたが、絵真としてはすぐにでも目的の酒屋へ向かいたかった。とはいえ、甲夜酒店は駅から離れた場所にあり、加えて山颪も荒々しく吹き続けている。
 絵真は渋い柿を食べたような表情をしながら、差し当たって風から逃れるため、一直線に宿へ向かう道筋を進んでいた。

 山から降りてくる風は、段々と勢いを増していくようだった。
 前方から度々飛んでくる木の葉や小枝を腕で払い除けながら、絵真は坂の上へ向かって進む。ちょっとしたアクションゲームだな、と呑気に思っていると、鼻高天狗の格好をした人物の写真が印刷された大判のポスターが真正面から飛んできた。
 絵真はぎょっと表情を強張らせ、砂浜を走るカニのような足さばきで体を躱した。ポスターに刷られた天狗は不規則に肢体をくねらせながら、風に押されるままに市街の方面へと飛び去っていった。
 はああと大きく息を吐いて、絵真は手の平を膝に置いた。烏天狗の絵が刷られたポリ袋といい、妙に天狗と縁がある日のようだった。
「まるで言い伝えみたいだ」
 風の音に消える程度の声で絵真は呟いた。
 絵真も特別詳しくはないが、ウェブや観光誌の情報によれば、跡之原には天狗にまつわる伝説がある。
 山颪が強く吹き荒ぶ日、山奥深くに住まう天狗が、風に乗って人里に降りてくる。天狗は山中でのみ採れる希少な果実を人々に振る舞い、代価に多くの酒と野菜を求め、その場で次々と平らげていく。やがて山颪が吹き止む頃、天狗は人々の饗応に満足し、翼を広げて再び山へと帰っていく。
 古い文献や口伝に由来する天狗話は、仔細の異なるいくつかのバリエーションはあるものの、概ねこのような筋立てになっているという。
 絵真が目撃した光景は、天狗が少々平たくはあるが、伝説の一端の再現と言えないこともなかった。この後ポスターが果実を振る舞い、酒や野菜を食らうならば、より完全な再現となるだろう。印刷物にそれが可能かはともかくとして。
 絵真は首を左右に軽く振り、益体もない思考を頭から追い出した。
 ぐっと拳に力を入れ、飛来物に気を払うため前方を見据える。再び歩き出そうと絵真が足を踏み出した時、木の葉でも小枝でも天狗でもない、横長の物体が近づいてくる様子が目に入った。
 物体は空中にはなく、坂の上をごろごろと転がっていた。距離が縮まるにつれて、円筒状をしたガラス瓶の姿が見えてくる。ラベルの類で覆われてはおらず、透明な表面をむき出しにして坂道を駆けていた。
 絵真は中腰になって腕を地面の間近まで伸ばした。ぱちんと軽い衝撃と共に、瓶が手に収まる。
 背筋を再び起き上がらせ、絵真は手に握った円筒の容器に目を向けた。数百ミリリットルほどの容量がありそうな、手頃な大きさの瓶だった。凹凸のあるアスファルトの斜面を転がってきたにも関わらず、表面はつやつやとして傷一つ見当たらない。握った感触はがしりと固く、かなり丈夫な作りをしているようだった。
 遠目では空のようにも見えたが、間近で見ると中身があり、真っ白い蓋で密封されている。僅かな濁りも色もなく、ひたすらに透き通った液体が、容器をいっぱいに満たしていた。
「ありがとう、受け止めてくれて」
 不意に声が響き、絵真は一瞬ガラス瓶が喋ったように錯覚した。
 顔を跳ね上げ辺りを見回すと、坂のすぐ上から人が歩いてくる様子が目に入った。
 腰まで伸びた長い黒髪と蜜柑色をした着物の袖を風に揺らし、草履履きの両足をしなやかに動かしている。早足ではあるが慌ただしい印象はなく、引き締まった微笑を湛えて歩く様は、凛とした気品を感じさせた。
「あなたのものですか?」
 瓶を掲げてそう問いながら、絵真は心中で首を傾げていた。
 つい先ほどまで、前方に人の姿はなかったはずだった。脇道の類も見える範囲にはない。視線の先にいる着物の人物が、唐突に虚空から現れたような印象を絵真は受けていた。
 見逃していたんだろうか、と絵真が不思議がっているうちに、着物の人物は絵真のすぐ手前まで近づいてきた。
「ええ。うっかり落としてしまって……」
 着物の人物は言葉を継ぎかけたが、絵真と視線が合った途端、「あら」と訝しげに目を細めた。
 彫像のようにぴたりと体の動きを止めて、着物の人物は絵真の顔をじっと見つめた。切れ長の目から放たれる視線に気圧されて、絵真は一歩後ろに足を下げた。
「あなた、見覚えがある気がする」
 着物の人物は絵真の肩を掴み、自分の方へぐいと引き寄せた。互いの顔と体が近づく。絵真はぱくぱくと口を動かし、困惑と気恥ずかしさの混合物を「えっ、あ、えっ」という音声として発した。
「目元、鼻筋、頬の輪郭……どうしてかしら、見れば見るほど憎たらしい顔つき」
 着物の人物の目つきが、抜き身の刀のように鋭くなっていく。肩を掴んだ手が離れ、絵真の顔へ向かって素早く伸びた。身を躱す間もないまま指で頬をつままれ、絵真は「ふべ」と珍妙な悲鳴を上げた。
 指先がくいくいと小刻みに動き、それに連動して絵真の頬が小刻みに伸びる。
「や、やめてください」
 頬が伸びて喋りづらいのをどうにか堪えながら、絵真は言った。
 つままれて痛いというほどではなく、頬に触れる指先のさらりとした肌触りが、むしろ快くすらあった。とはいえ、会ったばかりの親しくもない相手に、「顔つきが憎たらしい」という受け入れがたい理由で頬を弄ばれたくはなかった。
「ああ、ごめんなさい。知り合いのような気がしたのだけど、きっと別人ね」
 着物の人物は邪気のない笑みを浮かべて、絵真の頬から手を引いた。離したばかりの指を見て、「中々のつまみ心地」と満足げに呟いている。
 庇うように頬を手で覆いながら、妙な人物に出会ってしまった、と絵真は心中でため息を吐いた。
「これ、どうぞ」
 絵真は自分の頬をつまんでいた手に、拾ったガラス瓶を押しつけるように渡した。「それでは」と小さく会釈をして、着物の人物の隣をすり抜けて坂道を進もうとする。
 すり抜けが成功する前に、再び肩に強い力がかかった。
「ありがとう。お礼をしなくてはね」
 愉快げな調子で着物の人物は言った。絵真は引きつった笑顔を作り首を横に振ったが、着物の人物も「遠慮しないで」と首を横に振って返した。
「私、早久陽子と言うの。よろしくね」
 名前を告げた朱い口元に、涼やかな微笑が浮かぶ。それは凛々しい様相ではあったが、絵真には獲物を見つけた妖怪の顔に見えた。

「なかなか良い具合ね」
 薄い灰色をした小ぶりな鍋を眺めながら、陽子は言った。
 絵真は鍋の中身に目を凝らした。豆腐、水菜、えのき、しいたけといった具材達が、熱い湯の中にその身を浸からせている。
 食材の入った灰色の鍋は、綺麗に磨かれた木製の座卓に陣取っていた。鍋を囲うようにして、箸や小皿、湯呑みといった食器が並ぶ。
 それらの置かれた右方に、同様の小型鍋と食器類がもう一塊並んでいる。二つの鍋の中間には急須や醤油差し、そして絵真が坂で受け止めた、透明の液体が入ったガラス瓶も置かれていた。
 机の周囲にはいくつかの座椅子があり、そのうちの一つに絵真は座っていた。右隣の座椅子には、陽子が腰を下ろしている。
 畳の上に足を投げ出し、絵真は落ち着かない気分で目線をふらふらと動かした。
 部屋を囲む壁や柱は少々色あせているが、置かれた家具類はつやつやとして新しい。床の間には掛け軸が飾られ、犬のような狐のような、正体が判然としない四足歩行の動物が墨絵で描かれている。
 予約しておいた旅館の一室に着いてから、数十分ほどの時間が経っていた。
 吹き荒ぶ山颪から解放され、絵真はほっと安堵していたが、心の底からはくつろげずにいる。
 絵真は横目で隣の様子を窺った。強風とは別の懸念が、時代劇の主題歌を口ずさみながら小皿を手に取っていた。
 早久陽子と名乗った着物の人物は、それが当然というような顔をして、宿へ向かう絵真の隣を付いてきた。長く伸びた坂を上り切り、風に揺れる柳の下をくぐって、古色ある門構えの旅館に着いてなお、陽子は絵真の傍から離れようとしない。当人は礼をするためだと主張するが、絵真としては悪霊に取り憑かれたような心境だった。
 この人、一体何者なんだろう。
 陽子がガラス瓶の蓋を外し、中身の液体を小皿に垂らす様子を眺めながら、絵真はぼんやりと思う。
 座卓に並んだ鍋や食器は、透明な液体入りの瓶を除いて、旅館の従業員が用意したものだった。絵真は食事がつかない素泊まりのプランを予約していたから、これは本来受けられるサービスではない。追加の料金を払ったわけでもないが、陽子が一声頼んだだけで、従業員は嬉々として二人分の夕食を準備してくれた。
 陽子はこの旅館に対して、何らかの影響力があるようだった。玄関に足を踏み入れた際も、出迎えた従業員は至極丁重な態度で陽子を歓待した。偶然一緒にいただけの絵真も、陽子と同様に賓客のような扱いを受けた。格安プランの対価としては全く見合わない待遇に、絵真はかえって恐縮する気分でとぼとぼと廊下を歩いた。
 旅館のスポンサーか何かだろうか、と想像を転がしているうちに、絵真はどこからか柚子に似た香りが漂ってくることに気づいた。さっぱりとして瑞々しく、仄かに甘やかな空気が少しずつ部屋に満ちていく。
 香りの根源を探して視線を動かすと、陽子の手前に並べられた、透明な液体が注がれた小皿に行き当たった。
「もう少し待ってちょうだいね。すぐに済むから」
 別の小皿に同じ液体を注ぎながら、陽子は言った。注ぎ終わると別の皿を手元に寄せ、同じ動作を繰り返す。段々と濃くなっていく柑橘の気配を感じながら、絵真は陽子の手さばきを眺めた。
 四枚の小皿に液体を注ぐと、陽子はガラス瓶に蓋をして机に置き、代わりに醤油差しを手に取った。四つ並んだ小皿のうち、右端にある皿の上部に醤油差しを持っていき、ゆっくりと傾ける。
 絵真は「あっ」と声を上げ、身を乗り出して皿の中身を注視した。
 何の色もなく澄み切っていた液体が、数滴の醤油と混じり合った途端、真っ黒い色をした液体へと変わっていた。それは醤油の褐色とも違う、全ての光を飲み込むような純然とした黒だった。
 どこか宇宙を思わせる姿に絵真が見惚れていると、陽子は別の皿にも醤油を垂らした。その皿の上でも同様に、新しい宇宙が生まれていく。
 満足げに朱い唇を歪めて、陽子は醤油差しを二つの鍋の間に置き直した。透明の液体が入った小皿と、黒い液体が入った小皿が、二枚ずつ机の上に並んでいた。
 陽子は透明液の皿と黒液の皿をそれぞれ一つ指先で掴み、絵真の手前に動かした。
 爽やかな柑橘の香りと微かな醤油の香りが鼻腔をくすぐる。静かにしていた絵真の臓腑が香りに刺激されて暴れ出し、腹の辺りでごうごうと叫び声を上げた。
「さあ、いただきましょうか」
 陽子が滑らかに腕を動かして、観音像のように両手を合わせた。絵真も手を合わせたが、腹のうなりに急かされ、すぐに離して箸を素早く掴み取った。
 手前に置かれた小ぶりな鍋へ箸を入れ、そうっと豆腐をつまみ上げる。ふるふると揺れる白い立方体を皿まで運び、その身の半分ほどを透明の液体に浸す。
 ごくと唾を飲み込み、絵真は豆腐を口の中に入れた。
 殊更変わった味ではなかった。柑橘の香りに包まれた、豆腐と出汁の淡い風味。ただそれだけのものが、信じがたいほどの旨味を発揮し、絵真の舌を幸福感で叩きのめした。
 透明の液体自体の味はほとんど感じられないが、液体のない箇所と食べ比べてみれば、美味さの違いがはっきりと分かる。不可思議な味わいではあったが、陽子が注いでくれた透明の液体が、優れた調味料であることは疑いなかった。
 舌に残る余韻を感じながら、絵真は鍋からもう一つ豆腐をつまみ取った。今度は黒い液体に浸し、口の中へ放り込む。
 火のような味が舌の上を走った。柔らかな豆腐の食感と瑞々しい柑橘の香りに乗って、濃厚な辛さと痺れるほどの酸味が口内を駆けていく。強力な刺激と美味の入り混じるそれは、心身に燃え上がるような熱情を湧き立たせ、絵真は夢中になって豆腐を咀嚼した。
 口の中はすぐさま空になった。絵真は箸を皿に乗せ、長い息を吐きながら座椅子にもたれかかった。豆腐を二切れ食べただけで、何もかも満ち足りたような安らかな気分だった。
 骨のないクラゲのように脱力する絵真を眺めながら、陽子はくすくすと軽やかな笑い声を上げた。
「お気に召したみたいね。瓶のお礼にはなったかしら?」
 陽子の問いかけに対して、絵真は半ば重力任せに首を動かして頷いた。
 ガラス瓶を拾って陽子と出会ったことを、絵真はどちらかといえば不運の部類だと感じていた。それがひとたび美味な食事を馳走してもらうと、むしろ幸運な巡り会いのように思えてくる。単純すぎる心理だと絵真自身も思わないではないが、美味いものは美味いのだから仕方のないことではあった。
 あの調味料は何ですか、と陽子に尋ねようとして、何も言わず絵真は口を閉じた。ガラス瓶の中身について絵真はすでに、ほとんど確信に近い予感を胸中に抱いていた。
「あまりそれらしくはないけれど、これはポン酢なのよ」
 ガラス瓶の表面を撫でて、陽子は言った。
「特別な材料と製法を使った、たいへん珍しいもの。毎年少しずつしか作れないから、市井に出回ることは滅多にないわ」
「やっぱり、これが」
 絵真は背中を起こし、蛍光灯の光を浴びて煌めく透明のポン酢を眺めながら、嘆息交じりに「椪天」と呟いた。
「あら、知っていたの?」
 陽子は訝しむような鋭い調子で言った。「あなた……」と言葉の切れ端を継いで、そのまま何も言わず押し黙る。
 椪天から陽子へと視線を動かして、絵真はぎょっと背中を反らせた。坂道で見たのと同様の、研ぎ澄まされた刃を思わせる目つきが絵真に向けられていた。
 居合のような速さで陽子の腕が閃き、絵真の頬を再び指で捉えた。先ほどと寸分違わない位置に、さらりとした陽子の指先が触れる。その感触は決して不快ではなかったが、不可解ではあった。
「えっと、あの……どうしたんですか」
 絵真は困惑を声に込めて言った。二度目の体験だからか、陽子の奇行に慣れ始めたからか、今度は珍妙な悲鳴ではなく言葉を発することができていた。
「ねえ絵真。私とあなたは初対面?」
「そう、だと思いますけど……」
「そうよねえ。そのはずよねえ。こんな頬の感触に覚えはないし」
 むにむにと絵真の頬を動かしながら、陽子は言った。
「けれど私、覚えている。あなたと同じ姿をした人間に、こうして椪天を振る舞ったこと。あれはあなたではないの?」
 力強い視線が絵真に向けられている。真っ直ぐで切実な感情を映した凛々しい瞳に、絵真は一時の間見惚れそうになったが、頬を好き勝手にひねり回される感触で我に返った。
 同じ姿をした人間。
 陽子の言葉のひと欠片を、絵真は頭の中で繰り返した。自分の記憶を信じるならば、それが絵真自身であるはずはない。よく似た別人と考えるのが妥当ではあった。
 絵真は以前見た一枚の写真を頭に思い浮かべていた。
 それは三十年近く前に撮られた写真だったが、絵真はその光景の中に、いるはずのない自分の姿を見出した。写真の人物と絵真は、体格も顔つきもそっくりで、絵真はドッペルゲンガーを目撃した気分になった。
 写真に写ったその人物を、絵真はよく知っている。写真を見せてくれたのは当の本人だから、当然のことではあった。
「その人、『ひろみ』って名前でしたか」
 絵真は写真の人物の名前を口にした。
 陽子の目がゆっくりと見開かれ、朱い唇の端が微かに持ち上がっていく。
「そう、そうよ、ひろみ。知っているのね? ということは、つまり、あなたは……」
「娘です。陽子さんが前に会ったのは、きっと私の母だと思います」
 絵真の言葉を聞いて、というより聞く直前に、陽子は花を咲かせるように顔を綻ばせた。
「そういうからくりだったのね。ああ、すっきりした。あなたと出会ってからずっと、最中の皮が歯に貼りついているみたいな気分だったの」
 陽子は弾んだ調子で言って、時代劇の主題歌を口ずさみながら絵真の頬を四方八方へと引っぱり回した。絵真は「ぐべえ」と奇怪な悲鳴を発したが、幼さすら感じる邪気のない笑顔を見ていると、やめてくれとも言い出しづらい心境だった。

「あの日も椪天の瓶を落としてしまったの。今日とは違って、すぐに自分で拾ったけれどね」
 陽子はそう言って、薄茶色の酒器を口元で傾けた。
「それで、持っていた袋に瓶をしまおうとしていたら、ひろみが話しかけてきたの。『それ何ですか』って、呑気そうに笑いながら」
「母は人見知りをしないので。どこへ行ってもすぐ知人を作るんです」
 苦笑交じりに絵真は言った。陽子は「そういう人だったわねえ」と目を細め、器を左右に小さく揺らした。
 絵真は自分の手前に置かれた器を手に取って、そっと口を寄せた。微かな柑橘の香りと共に、熱すぎない程度に温められた、柔らかい口当たりをした酒が口の中に流れ込んでくる。
 鍋の中身を食べ切った後、陽子は再び従業員に頼んで、別の料理と酒を持って来させた。
 陽子は器をぐいぐいと傾けながら、白菜やかぼちゃ、里芋といった野菜を使った品々に次々と箸を伸ばしている。絵真の腹は鍋だけで満たされていたから、酒だけを少しずつ飲み進めていた。
 酒には陽子の一存によって、椪天がいくらか混ぜてある。椪天入りの酒はほんのりと甘やかで癖がなく、それほど酒が好きでない絵真も、抵抗なく飲むことができていた。
「ひろみとも一緒にお酒を飲んで、夜遅くまで話をしたわ。とても楽しい時間だった」
 空になった器を机に置いて、陽子は懐かしむように言った。
「必ずまた会いに来ます、なんて嬉しいことも言ってくれたのだけど。結局一度も来ないんだもの、憎たらしいわ、まったく」
「多分、忘れてると思います……」
「そうよねえ。そういう人よねえ」
 陽子は口元を苦く微笑ませながら、大根おろしとほうれん草の和え物に箸を伸ばした。和え物をつまみ上げ、「口を開けて」と当然のような調子で絵真に言う。
 絵真は戸惑って眉根を寄せた。口を開けるとどうなるかは推察できるが、何故急にそうするのかは分からない。
 もごもごと絵真が口元を動かしてばかりいると、陽子は「早くしないとつまむわよ」と脅しつけるような口調で言った。無論酒のつまみではなく、頬のつまみを指しているのは明白だった。
 絵真は上顎と下顎を弾き飛ばすように素早く口を開いた。
 ひと呼吸の間を置いて、口の中に爽やかな野菜の風味が入ってくる。顎を閉じて噛みしめると、柔らかな苦味を伴う力強い旨味が、波紋のように広がっていった。
 和え物には疑いなく、椪天が加えられていた。表情が加速度的に緩み崩れていくのを抑えられないまま、絵真は舌から伝わる美味にしばし夢中になった。
「幸せそうね」
 くすくすと小さな笑い声を上げながら、陽子は絵真を愉快げな眼差しで見つめた。絵真は顔を隠すように手の平を掲げたが、陽子はその手を掴み取って動かし、握手のような格好に仕立ててしまった。
「今の一口は、瓶を拾ってくれたお礼とは別。きちんと対価を払ってもらうわ」
 絵真の手を捕まえるように握って、陽子は言った。
「ねえ、あなたは私に何をしてくれる?」
 朱い唇を凄絶に歪め、陽子は禍々しい笑みを浮かべた。より正確に評すると、禍々しさをわざとらしく誇張した笑みを浮かべた。
 絵真は吹き出すように短い呼気を吐いた。微振動する体に連動して、握られた手が小さく震える。
「じゃあ、また会いに来ます。それでどうですか」
 可笑しさの吐息が混じった声で言って、絵真は陽子の手を握り返した。
 陽子は恐ろしげな表情を瞬きの間に崩して、邪気のない満面の笑顔を咲かせた。
「きっとよ。忘れないでちょうだいね」
 歌うような調子で言って、陽子は握った手をぶんぶんと上下に振り回した。
 かつてない可動を見せる自分の腕を眺めながら、絵真は小さく苦笑を浮かべた。これほど奔放で奇矯な人物は、母のようにマイペースな気質でもなければ、忘れようにも忘れられるものではなさそうだった。
 とはいえ記憶というものは、ふとしたことで移ろうこともある。絵真は握った手に少しだけ力を込め、そこから伝わるひんやりとして滑らかな感触を、できるだけ覚えておこうとした。
 副産物として振り回される腕の感覚も記憶に強く残ってしまいそうだったが、どうにも致し方のないことではあった。

 まぶたを開けると、くすんだ色をした木造の天井が見えた。
 絵真は掛け布団を退かして身を起こし、その場にゆっくりと立ち上がった。半開きの目で周囲を見ると、昨夜は部屋の中央にあった座卓や座椅子が、壁際に置かれているのが見えた。
「陽子さん?」
 視線を左右に動かしながら、絵真は声をかけた。返事も人影もなく、畳に敷かれた布団も、絵真の分だけのようだった。
 陽子は自宅に帰ったのだろうと推察はできたが、追加の酒瓶が運ばれてきた辺りから記憶が茫洋としていて、実際のところは思い出せない。
 飲み過ぎたのだろうか、と絵真は思う。普段あまり酒を飲まないため、絵真は自分にとって適切な酒量が分からなかった。とはいえ、二日酔いを思わせる症状はなく、むしろすっきりと清々しい気分ではあった。
 絵真は窓のある広縁の方へ歩いていった。窓際に立ち、勢いよくカーテンを横に滑らせると、まばゆい朝日が部屋の中を照らすように差し込んでくる。
 目を軽く細めながら、絵真は窓の外に視線を向けた。ガラス越しに見える空は、淡い青色で満たされている。旅館の入口前に立つ柳は静かに佇み、風に枝葉を揺らす気配はなかった。
 穏やかな朝の風景を一通り眺めてから、絵真は広縁の中央に置かれた机に目を向けた。
 机の上には天狗の絵が刷られた白いポリ袋が置かれ、袋の口からラベルのない透明のガラス瓶が見えていた。取り出してみると、無色に透き通った液体が、瓶の中の半分ほどを満たしている。昨晩使った椪天の残りを、陽子は置いていったようだった。
 ポリ袋の方は、くしゃくしゃにシワがついているところを見るに、絵真が上着のポケットに丸めて入れておいた袋のようだった。自分で取り出したのか、陽子が勝手に上着を探ったのか、記憶がなく判然としない。いずれと決める根拠はないが、何となく絵真は後者であるような気がして、ふっと苦笑を浮かべた。
 ガラス瓶を袋に入れ直し、畳敷きの方へ戻ろうとして、絵真は「あれ?」と足を止めた。
 広縁の机の下に、大きな鳥の羽根のようなものが落ちていた。絵真は中腰になって手を伸ばし、ほっそりとした根本を指先でつまんで拾い上げた。姿勢を戻しながら羽根を顔の方へ近づけてみると、柚子に似た柑橘の香りが微かに薫ってくる。
 形は鷲の羽根に似ているようだった。烏を思わせる艶やかな黒を基調として、先端へ向かうにつれて朱色が混じっていく。
 ひらひらと向きを変えながら、絵真は魅入られたように羽根を眺めた。頭の中で小さな記憶の欠片が、この羽根に見覚えがあると囁くように訴えかけていた。
「あっ」
 絵真は目と顎を大きく開き、叫ぶように声を上げた。
 机の上に置かれた白い袋に向かって、絵真は矢を射るように視線を飛ばした。放たれた視線は、袋の表面に印刷された、陽気に踊る烏天狗へと的中する。愉快げに笑う天狗の背中には、朱色の入り混じる黒々とした翼が生えていた。
「……まさかね」
 手に持った羽根と天狗の翼を見比べながら、絵真はぽつりと言った。
 広縁の机の傍に置かれた椅子に、絵真は倒れ込むように腰を下ろした。指先で羽根を小さく揺らしながら、ぼんやりと窓越しの空を眺める。
 ふと、薄く伸びた雲の間をくぐって、大きな鳥のような、人影のような何かが、翼をはためかせ飛び去っていく姿が見えたように思えた。
「また、会いに来ます」
 幻視とも錯視ともつかないその背中へ向けて、絵真は話しかけるように呟いた。
 誰に聞こえるはずもないが、どこかの空の下、あるいは空の上で、誰かが嬉しげに笑ってくれた気がした。

サポートありがたいです。嬉しくて破顔します。