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【文芸センス】梶井基次郎『檸檬』②ひきかえの憂鬱
前回の記事で、梶井基次郎が『檸檬』で見せた詩才あふれる文章を紹介しました。
しかし、その感性は鋭敏すぎるがゆえ、やがて作者の神経をすり減らすこととなります。それにより生まれた苦しみを、梶井基次郎は作中で「不吉な塊」と名づけているのですが、それはまるで、強い光につきまとう濃い影のようなものです。
この記事では、作者が不吉な塊に苛まれる様子と、その先に求めた新たな美しさを探ります。
梶井基次郎『檸檬』
②ひきかえの憂鬱
不吉な塊と神経過敏
作品の冒頭から、作者は精神の不安を吐露しています。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
不吉な塊の正体は鋭敏すぎる感性だと、私は解釈しています。別の言い方をすれば、なにごとにも美や醜を感じすぎてしまう繊細さです。しかもそれは、芸術品だけでなく、周囲にあるあらゆるものにたいして向けられ、心休まるときがないのです。
そんな苦痛に苛まれたとき、作者は町中をでたらめに浮浪します。
何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。
「居堪らずさせる」「何かが私を追いたてる」と、彼は常に何かに追われているように感じています。もちろん、彼を追いつめているのは自らの感性であり、心の外のなにものでもありません。とうぜんどこにも逃げ場はないのですが、だからこそ、あてもなく彷徨うのです。
みすぼらしいもの
そんな浮浪の最中、彼が追い求めたものは、「見すぼらしくて美しいもの」でした。
何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。
華やかな人々でも賑やかな表通りでもなく、廃墟のような街角や質素で清浄な生活に、作者はひかれます。
雨や風が蝕むしばんでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀どべいが崩れていたり家並が傾きかかっていたり
第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。
これらの文章で描かれた町並みや生活には、けっして我々の神経を逆撫ですることのない、ここちよい寂しさが漂っています。
グロテスクなもの
いっぽうで、人間が他人の気を引こうと作ったものは派手でけばけばししく、鋭敏な感性には刺激が強すぎるのかもしれません。そんな人工的な美は、作者の心をざわつかせます。
以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。
赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩いろどっている京極を下って行った。
これらはすべて、派手で華やかな享楽です。大衆の気を引き、楽しませようとして作られた人工的な美しさです。
商品の陳列や映画の看板などは、狭い場所にたくさんの要素を詰めこみ、いかにも栄えているように見せることで、消費者の購買意欲を掻き立てます。それは現代の店舗や広告も同じです。
しかし、それらは捉えようによってはグロテスクですらあります。不透明で平面的。そして、しつこく訴えかけてくるような煩わしさがあり、人によってはそのような都市的なビジョンに嫌悪感を抱くのです。
おわりに
感性の豊かな人は、外からの強い刺激はなくとも、そこはかとないものの中にも十分に、美しさや面白さを見いだすことができます。それはまるで、自然の簡素な食事に、滋味や旨味を感じとるようなものかもしれません。
しかし一方で、そんな鋭敏な感性は、あらゆるものの「声」を聞き取ってしまい、その声にみずからの心は休みなく反応してしまいます。これは豊かな感性の持ち主特有の苦しみであり、芸術の病とでもいうべきものなのかもしれません。
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