【モジャ毛語り⑦】1年前に散ったLUNCH-Ki-RATTのこと、今日くらい思い出してやろう
LUNCH-Ki-RATTというバンドをしていた。
2020年の11月28日に解散するまでの13年間、
ヤマダヒロミチは一日も欠かさずLUNCH-Ki-RATTのヤマダヒロミチだった。
そう、
今日はヤマダヒロミチが青春の全てをかけて愛し続けたバンドの“一周忌”なのだ。
早いなぁという感覚もあるが、
むしろまだ1年も経ってなかったのかという驚きの方が強いかもしれない。
それに、
正直、当日のことはあまり覚えていない。
池袋に着いてリハをして、
あっという間に昼の部の配信ワンマンが始まって、
汗を乾かす間もなく、夜の有観客ワンマンがやって来て、
駆けつけてくれたお客さんや友人たちと目まぐるしく会話して、
打ち上げになった途端にMyベストテープVo.コウヂに酒を飲まされまくって記憶がぶっ飛んだだけの、
嵐のような1日。
ただ、
その日を境に、
毎日連絡を取り合っていた井上ゆかりやスタッフあーやんと会う機会はめっきりと減ってしまったし、
その日を境に、
「ノーヒットノーランの人の乱」や「おもちゃ箱クルーズ」、「ネズミストらのラッタッタ」が演奏される機会は全く無くなったし、
その日を境に、
19歳のヤマダヒロミチが頭を捻って生み出したLUNCH-Ki-RATTという単語の前には必ず
”元”とか“ex.”なんていう枕詞が付くようになった。
たなか胡桃との、
後に“サーカス船のプッケ”になる名無しの新バンドはもうその時には既に水面下で動き出していたが、
帰り道の小田急線の中で、
ついさっきまでくるみパンだった彼女は静かに泣いていた。
間違いなく、
大きな、大きな、節目の日だった。
1年経って、
ご存知の通りヤマダヒロミチは
まだしつこくライブハウスに立っている。
サーカス船のプッケ
ヤマダヒロミチのテラリウム
2つのプロジェクトを主宰し、
大好きな仲間に支えられて、
日々楽曲を作り続けている。
あの時解散してしまったからこそ、
得られたものも沢山ある。
たなか胡桃との新たな船出も、
スズキアイミとの一からの世界作りも、
とーたく・テツくんを迎えての賑やかな活動も、
LUNCH-Ki-RATTが終わってしまったからこそ得られた幸せだと思う。
ただ、
ヤマダヒロミチが今こうやって性懲りも無く音楽家を続けられているのは、
13年間、LUNCH-Ki-RATTであり続けたからこそなのだ。
ランチキの音楽や思い出は、
しっかりと俺の中に息づいている。
ランチキがあったからこそ出会えた人々に、
ヤマダヒロミチは今でも助けられている。
叶え損ねた夢が沢山あるからこそ、
ヤマダヒロミチはまだまだ、
やめ損なっていきたい。
こないだ、
プッケでスタジオに入っている時に、
話の流れでこんなことを言った。
「船にちなんだバンド名だから、いつか『おもちゃ箱クルーズ』をセルフカバーしてみても面白いかもね」
たなか胡桃の顔が一瞬曇った。
しまった。
まずかったか。
解散して区切りを付けたバンドの曲をわざわざ持ち出すなんて、
未練がましい失礼な所業だったかもしれない。
慌てて謝ろうとした矢先、
たなか胡桃が重たい口を開いた。
「・・・ごめんなさい、もうコード忘れちゃいました。。。サビ頭Fだっけ?」
過ぎたことは振り返らず、前だけを見据えている。
頼もしい船長だ。
あとサビ頭はF#な。
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