中庸について(+お知らせ)

 
 孔子は、狂狷よりも中庸の方が大切だと考えていた。狂狷とは情熱に憑かれて、一途に努力したり、何らかの理想に向かっていく人物の事だ。中庸はそうした「狂」に囚われず、極端に走らずに自己を治めているような人物の事だ。
 
 ネットで見つけたその部分の訳を下に引用しておく。「論語普及会」というサイトのものだ。
 
 「中庸の道を歩む者と行動を共にしたいと思うが、それができないのであれば、せめて狂狷の者と行動を共にしたい。狂者は高い目標に向かってまっしぐらに進もうとする者であり、狷者は節操が固く悪いことは断じて行わない者だからである」

私は何故、狂狷よりも中庸の方が大切なのか、ずっと心に引っかかっていた。私自身はどちらかと言えば狂狷が好きだし、狂狷としての天才に憧れを持っていたからだ、
 
 狂狷をどう取るかは人によるが、近代のロマン主義などは狂狷に近いと感じるし、最近ではロックミュージックも狂狷に近いと考えている。ただ、資本主義に完全に首根っこを抑えられたロックもどきの音楽に関しては、狂狷が足りないと言った方がいいだろう。
 
 そうした私だったから、バンド「神聖かまってちゃん」が好きだったし、評価もしていた。あるいは、ぜんぜん違うと思われるかもしれないが、ウィトゲンシュタインのようなエキセントリックな天才が私は好きで、彼の伝記などは興味深く読んだ。
 
 それと比べると「中庸」はあまりおもしろくない。それに、私が批判している現代の「大衆」は知らず知らず、中庸の位置にいるような気がしていた。大衆は過激さを嫌い、温和な市民生活を好むからだ。
 
 そうした事もあって、どうして中庸というものが狂狷の上に来るのか、不思議だった。ただ私は、強いて結論を出そうとはしなかった。(孔子が言っているのだからそこには何かあるだろう)と放っておいた。
 
 「中庸」についてはそうした放置状態だったのだが、何ヶ月か前に福田恆存の「シェイクスピアの魅力」という文章を読んでいて、やっと中庸というものについてのイメージが湧いた気がした。このエッセイで書こうと思うのはその時の感覚についてだ。
 
 福田はまず、パッションという言葉に注意を向ける。パッションは「情熱」という意味があるが同時に「受難」という意味もある。キリストの受難は英語では「パッション」と言われる。そうした前置きの後に、福田は次のように述べている。
 
 「そして情熱とは、そういうもの、すなわち病気のように、それにかかり悩んでいる肉体的な状態を意味します。」
 (「シェイクスピアの魅力」福田恆存 原文は旧仮名遣い)
 
 私にはこの言葉は決定的なものに感じられた。様々なものが繋がった感じがした。
 
 福田は、シェイクスピア劇における「パッション」について、次のように書いている。
 
 「その意味からいって、リアの愛情も、オセローの嫉妬も、ハムレットの復讐心や懐疑も、すべて受動的な情熱であり、それに身をゆだねきることが悪しきことなのであります。」
 
 …これもまた決定的な言葉である。ちなみに福田は情熱というのは受動的な状態であり、それに対するのが「精神」であると述べている。情熱の反対物は「精神」なのだ。
 
 おそらくニーチェにおいては、また、現代人においては情熱は能動的であり、情熱を抑える精神は受動的と見られるだろうが、福田はそれをひっくり返している。そしてまた、シェイクスピアにおいても、情熱は「受動的」なものだったのだろう。
 
 福田の文章を読んで私はやっと「中庸」がおぼろげにわかった気がした。つまり中庸とは、単に極端を取らない、温和な市民生活を楽しむ普通人を指すのではなく、自らの激情と戦い、平静を勝ち取る為の心の戦いを繰り広げている、そのような人物の事だ。
 
 そう考えると、孔子の言った「七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」という意味も自分なりに理解できるようになる。心の平静を勝ち取る戦いは、七十の年までくれば、もはや自らの無意識が自動的に行なってくれていて、意識せずとも心は安らぎ、平明で、道を外れる事はなくなる。
 
 この事は、パスカルが残していた、私にとって謎だった言葉とも繋がる。パンセの中にある次の言葉は、孔子の言葉と同様に、その時の私には理解できず、ずっと放置していたのだった。
 
 「プラトンやアリストテレスと言えば、長い学者服を着た人としか想像しない。彼らだって人並みの人間で、ほかの人たちと同様に、友だちと談笑していたのだ。そして彼らが『法律』や『政治学』の著作に興じていたときには、遊び半分にやっていたのだ。それは、彼らの生活の最も哲学者らしくなく、最も真剣でない部分であった。最も哲学者らしい部分は、単純に静かに生きることであった。」
 (「パンセ」パスカル 前田・由木訳より)
 
 私には何故パスカルがこんな風に言い切れるのか謎だった。我々に残されているのはやはり、プラトンやアリストテレスが残した書物である。彼らが天才である所以は、彼らの優れた理性が世界を解明しているから…ざっくり言えばそういう事になるだろう。
 
 しかしパスカルはそれを「最も真剣でない部分」と言っている。それでは真剣な部分とは何だったのか。それは「単純に静かに生きること」だった。
 
 これは現代においては、理解するのがかえって著しく困難ではないか、と思う。現代を生きる我々は、社会が与える規則を守り、小市民的に娯楽に興じたりして生きる事を「単純に静かに生きること」だと想像してしまうからだ。
 
 だから、私には上記の文章は謎だった。どうしてそういう事になるのか。
 
 しかし「中庸」という考えをここに応用すれば、ある程度は理解できる。中庸とは、精神によって自らの激情と戦い、その果てに勝ち取られる平静なのである。哲学者としての本分は、理性で世界を解析するのではなく、精神によって自己の情念を抑え、自己を治める事にある。
 
 (おそらく、精神と理性はある程度重なり合う領域だろう。というのは、道徳に従う為には、何が正しいかという問いに理性で答えを導き出す必要があるからだ。理性で答えを出す過程においては、自らの情念をも視野の範囲内に収めなければならない。情念もまた、道徳という答えを導き出す為の要素の一つなのだ)
 
 おそらく孔子が中庸を言い、アリストテレスも同じ事を言ったのは、偶然ではないのだろう。もちろん、その偶然は両者が相知っていたというような偶然ではない。ただ、古代の生活の中で、人間の激情というのが世界に何を引き起こすかという事、それが十分観察された上に出された結論だったのだろう。
 
 現代では、人はスタジアムに行って叫んでみたり、車の中で怒鳴ったり、カラオケボックスで大声を張り上げて、情念の鬱積を晴らそうとする。そうした情念の発散を、メディアの上のタレントの誰彼に代用してもらい、その姿に「共感」して、自己の隠された情念を肯定しようとしたりする。
 
 これは定義から言えば中庸ではないのだろう。というのはそこに情念を抑える「精神」の作用がないからだ。また、単に勇気が欠けている為に、小市民的生活に甘んじるというのは、私は中庸ではないと思う。中庸は激情を伴わないが、しかし死ぬべき時には死を選ぶ勇気がなければならない。それは自らの生存意欲を抑える精神の働きだ。
 
 その一つの模範がソクラテスであり、また、情念に揺り動かされながらも、自己を死なしめたキリストであったりするのだろう。ソクラテスが自らの死を選ぶその姿には激情は感じられない。そこにあるのは静かな諦念であるが、これは現代の人が考えるような敗北ではなく、自らの欲動に対する静かな勝利である。
 
 私は「中庸」というものをそういうものだと考える。シェイクスピアの作品においては、激しい情熱が主人公となっている。それらが災厄を招き、自滅する姿が丁寧に描かれている。そこに我々は我々自身の姿を認めるのだが、その死によって静まった平静な世界の「意味」については現代の我々には捉えがたい。
 
 その意味とは、人間の激情が一体どのような悲劇を生むのかという事が散々に目撃され、経験され、その最後の結論として横たわる、賢者の静かな諦念ではないのか。そういうものが「中庸」という言葉と連結しているのではないか。私はそんな風に考えてみる。

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いつも、私の文章読んでくださっている方、ありがとうございます。ヤマダヒフミです。

ここ最近、一ヶ月ほど全く文章を書いていません。文学書も哲学書もほとんど読んでいません。掲載の文章も一ヶ月以上前に書いたものです。

最近は違う事に注力しています。しばらく投稿が途切れるかと思います。

文学には必ず戻ってくるつもりですが、しばらく投稿されないかもしれません。その事をここでお知らせしておきます。

健康を害したというような事はありませんので、もし心配な方がいれば大丈夫です。これまで自分の書いたものを読んでいただきありがとうございました。そのうち戻るとは思いますが、しばし休養になるかと思います。よろしくお願いします。

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