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朝倉未来の「路上の伝説」

 朝倉未来がキックボクシングでYA-MANと戦うらしい。私はそれを聞いて(なんじゃそりゃ)と思った。
 
 とはいえ、格闘技に興味のない人はちんぷんかんぷんだと思うので、説明する。朝倉未来というのは、今の格闘技界で一番人気がある。その人気はユーチューバーとしての活動が主になっていて、「元不良が最強」みたいなストーリーが主となっている。
 
 格闘技を最近よく見ているのだが、不良系の格闘家が人気だ。体に入れ墨が入っている格闘家とか、過激な発言や言動をする選手が特に人気だ。
 
 格闘家に限らず、不良系ユーチューバーも人気で、不良同士の戦いがメインとなっている、朝倉未来が主催の「ブレイキングダウン」という一分間の試合も人気だ。
 
 とはいえ、実際のプロの格闘家界においては、不良が勝つかというと、そんな甘い世界でもなく、プロフェッショナルなアスリートが勝つのが普通だ。このあたり、朝倉未来は実際には、そこそこ強い格闘家であり、真面目に練習もしているはずだが、同時に「元不良の朝倉未来」というイメージも背負っており、矛盾がある。そのあたりは朝倉未来本人も結構大変だろうと思う。
 
 ※
 このエッセイで言及したいのは「朝倉未来人気」についてだ。朝倉未来は「路上の伝説」と言われている。「路上の伝説」と朝倉が言われるのは、彼がストリートファイトで鳴らした事から来ている。
 
 私は、朝倉未来に限らず、最近の日本の視聴者、観客の質の低さというものを強く感じている。はっきり言えばバカの支配した社会という感じだが、これは日本に限っておらず、世界でも、くだらないユーチューバーが大人気だったりする。日本のみではなく、「大衆」「群衆」が勝利した時代だ。
 
 朝倉未来の「路上の伝説」で私が指摘したいのは、「暴力性」というものに捉え方についてだ。
 
 これに関しては細川バレンタインという元ボクサーが適切な指摘をしているが、細川バレンタインが言っている事を私は自分の言葉で言い直そうと思う。
 
 まず、「不良が喧嘩に強い」といった時に、視聴者がイメージしている暴力性というのはあたかもクリーンなスポーツのようなものであって、現実の暴力ではない。
 
 現実の暴力とは、体に障害が残ったり、相手に一生治らない障害を負わせたり、あるいは殺してしまったり、殺されたりしてしまう事である。もちろん、そこまで深刻なものにならない可能性もあるが、暴力を続けていけば必ずそうなっていく。
 
 しかし、そういう現実の酷薄さについてはまるで考えず、まるでテレビゲームで銃を撃って人を殺す事と同じように「喧嘩」について考えて、現実の暴力性についてまるで考えない事、ここにその手の視聴者、観客の視点の幼稚さがある。
 
 さっき私は「クリーンなスポーツのようなものであって」と言ったが、現実の格闘技でも、選手はかなり深刻な怪我を負っている。それが障害になったり、寿命を縮める結果になっても、選手本人は覚悟の上でやっているから仕方ないと言えるかもしれないが、それを見ている観客にはそこまでは考えない。
 
 現実の暴力性の深刻さを意識せず、あたかも画面の上で演じられた暴力を見るように暴力を見る事、その問題点は映画評論をしている宇多丸が「ドロップ」という映画についても指摘していた。ここでも「不良の暴力」は、暴力の深刻性を薄められ、表面的で「かっこいい」だけのものになっていた。
 
 こうした上っ面の暴力、「かっこいい」だけで、誰も殺されず、障害も負わず、殴られる痛みの恐ろしさも深刻に体験しない、そうした経験性の薄さというのは、そもそもで言えば、戦後の日本の平穏が可能にした趣味的な視点に他ならない。
 
 「ドロップ」のような表面的な暴力性の対極に位置するのが、岡本喜八の映画であると思う。「沖縄決戦」のような傑作は、暴力の残酷を全面的にスクリーンに映し出している。
 
 映画作品を単に画面上の出来事と捉えている場合、そこに映し出されている暴力性の深刻さというものは決して捉えられない。そうした趣味的な視点ではなく、ある映画や小説を捉える場合にも自己という存在を全面的に移入しない限り、その意味は捉えられない。全てを趣味的に見るのであれば、芸術としての傑作も、エンターテイメントとしての佳作も同じようなものに見えてくるだろう。
 
 岡本喜八が深刻な暴力性を捉えられたのは、彼が現実の「戦争」を経験したからだ。彼はそれによって、本物の暴力性という、現実の恐ろしさを痛切に体験したので、その本質を描き出すのを映画監督としての彼の生涯とした。
 
 現実の暴力とは、人が障害を負ったり、負わせたり、また殺したり、殺されたりする事だ。暴力の頂点とはもちろん「死」であり、自分の存在が消滅する事だ。しかし現代の人々は「死」について深くは考えない。考えないという愚かさーー「推しを推すのがいい」といった、愚かさに集団的に流れ込む事によって、その本質的な問題を紛らわせようとしているのが現在だ。
 
 朝倉未来の「路上の伝説」は人気だが、それはゲーム的に、あるいは漫画的に捉えられている限りの話だ。実際の現実の深刻な暴力性がそこでは想起されていない。それはこの社会そのものが、自分達の深刻な現実に出会わず、趣味的に世界を見ている事から起こってくる。
 しかし、そのような個人にもまた「死」はやってくる。「路上の伝説」という仮りそめの暴力性は、現実の過酷な暴力そのものによってやがては敗北する運命にある。
 
 そもそもで言えば、不良は喧嘩したところで、殺されるわけでもなし、病院で治療してもらい、日常に復帰し、学校に行けば、教師に反抗してみるが、退学になるわけでもないのだから、結局社会から許された上で多少拗ねているという程度の話でしかない。
 
 暴力性の深刻さを考えず、その表面的なかっこよさだけを強調する事。それは平和な社会においてのみ可能な趣味なわけだが、まさにこうした心性そのものが、その社会を「戦争」という暴力へと導くのかもしれないな、と私は思う。
 暴力の深刻性がわからないので、その浮薄さは、実際に殺したり、殺されたり、障害が残ったり、障害を負わせたり、といった現実の経験を招く。こうして一つの社会は平和から戦争へと流れ込んでいく。
 
 現実は漫画ではないし、ゲームでもない、と人に言ってもわからない。自らの中に深さを持ち、他人の体験に共感できるのであれば、他人の深刻さをあたかも自分の事のように体感する事ができるだろうが、それが無理であれば、実際に自分で経験してみるしかない。愚人にとっては、作品や知識ではなく、運命の過酷が教師とならざるを得ない。
 
 あるいは、それは人間の「限界」であって、賢者ですらも運命の過酷がなければ「賢く」はなれないのかもしれない。
 
 いずれにしても、朝倉未来が大人気、不良が大人気、「路上の伝説」が人気であるような社会においては、現実の暴力性はバーチャルなかっこよさとしてしか捉えられおらず、それ故に、彼らは現実の暴力性の悲惨さについては対処する事ができないだろう。
 
 そのような現実に対応するのは、「路上の伝説」のようなエンターテイメントではなく、芸術として現実を捉える岡本喜八のような作品だ。とはいえ、そうした作品が生まれて、人々に見られる時期がこの先来たとしても、その時には朝倉未来信者のような人々は決してそのような作品を見ないだろう。彼らは自らの幻想を入れる容器を探し求めて、また新たに旅立つだろう。
 
 しかしその彼らの背中には現実の過酷さがぴったりと張り付いて、離れないだろう。彼らもまたいつかは死ななければならない。そして「それ」がやってきた時、彼らは語る言葉を持たないだろう。「それ」から逃げ出すという事を暗黙の了解として、彼らが好む人気のコンテンツは成り立っていたからだ。

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