聖書を読んで考えた事

 宗教を学ぶ為に犬養道子の「旧約聖書物語」「新約聖書物語」を読んでいる。宗教というのは色々あるが、私はその中でも、キリスト教を選択した。選択肢としては仏教とキリスト教の二つがあったが、仏教はそのほとんどが哲学で構成されていると言ってもいいので、より宗教らしいキリスト教を選んだ。

 犬養道子の本で聖書について学んでいると、色々思い浮かぶ事があった。しかしそれを書いているとキリがないので、テーマを絞らなければならないだろう。

 旧約聖書から新約聖書に至るまで通底しているテーマは「義人の苦しみ」ではないかと思う。義人の苦しみは、ヨブ記からキリストの物語へと、文学的に昇華されていく。より洗練された形になっていく。

 また、歴史的な話も聖書には大きく盛られている。これに関してはまず、ヘブライ人(ユダヤ人)が、神(ヤハウェ)に選ばれた民族であるという選民思想が旧約聖書に展開されている。この思想は新約で大きく羽ばたいて、「信じるものは救われる」という、地域や人種を越えた普遍的な思想へと展開していく事になった。その中心を成すのがキリストという存在である。

 キリスト教というのはそういう宗教なので、大きく広がった普遍的なものであり、したがって、日本人がキリスト教に入ったとしても「日本人だから」と引け目を感じる必要はまったくない。そのあたりの差異を取り払ったのがキリスト本人で、キリストの行為はそうした区別の破壊を明確に意図している。

 逆に言うと、日本人なんかは、日本という地域、日本人という人種にこだわり、小さくまとまる事によって、安堵感を得ているので、キリスト教のような普遍的な思想の偉大さがあまりわかっていないのではないか、と思わないでもない。

 ただ、同時に、キリスト教はその反面、ひどく嫌な側面も持っている。それは、キリストその人が教え伝えるような思想を、卑俗なレベルに矮小化して現れてくる。私が嫌なのが、キリスト教の選民思想的な面で、ある大学教授の本を読んで私は腹を立てた事がある。その著者はキリスト教徒だったのだが、「私達は救われますが、あなた達は救われませんよ。まあ、あなた方の宗派も『信仰の自由』もあるし、認めてあげない事もないですけど」という、傲慢な調子に腹が立った。その傲慢な調子が、一見、謙虚な姿勢によって覆われていたので、余計に腹が立った。

 …しかし、こうして書いていても、虚しい感じが自分の中にあるのもまた確かである。結局の所、キリスト教を理解する事と、キリストを信じる事は全然違うのであって、どこまでも理解した所で、それは信仰の代理にはならないからだ。

 ※
 ただ、問題は、「信じるとは何か?」という事である。また、旧約聖書を読んでいて思った事だが、「神に愛されるとはどういう事か?」というのも、気になる。

 チェスタートンという作家がいる。彼はイギリスの保守派で、推理作家でもあった。チェスタートンはその著書『正統とは何か』でニーチェをこき下ろしている。

 チェスタートンはカトリックに改宗した人物で、敬虔なキリスト教徒だった。ニーチェはキリスト教にたったひとりで立ち向かおうとした男なので、正統キリスト教を背後に背負った知識人のチェスタートンがニーチェをこき下ろすのはわかりやすい。

 しかし、私はチェスタートンのぐうの音の出ない「正論」を読みながら、なんとなく浮かない感じがあった。私としては、ニーチェの思想は間違っていると思っているのだが、それでも「正しい」チェスタートンよりも、間違っているニーチェの方に遥かに魅力を感じたのだった。

 旧約聖書を読んでいると、ヤハウェという神はかなり気まぐれな神様というのが伝わってくる。彼は怒りっぽく、すぐに人間を罰する。それでは、神に絶対の忠誠を誓う人物を愛するのかと言えば、そうでもないという側面もある。

 旧約聖書で私の好きな話は『ヨナ書』で、預言者のヨナが主人公になっている。ヨナはある時、お告げ聞いて、ヤハウェに、「敵国の首都に行って予言を伝えてこい」と命令される。しかしヨナは敵国に行くのが嫌なので、神に逆らい、わざと反対方向の船に乗った。

 すると船はあっという間に巨大な嵐に見舞われた。船員達は、船客の中に誰か、ゲンの悪い人間がいるのだろうと思って、全員にくじを引かせた。するとヨナが当たりくじを引いてしまった。ヨナは観念して、自分が神様のお告げを裏切ったと告白する。ヨナは「自分を海に放り出せ、そうれば嵐は収まる」と言うのだが、船員はそれではあんまりかわいそうだと思って一時は引き止める。しかし嵐は止まないので、やむなくヨナを海の中に放り投げた。

 ヨナは海の中に放り投げられた。自分は死ぬものだと思ったが、何か柔らかく温かいものの中に包まれて、その中に三日三晩いた。それは巨大な鯨であり、ヨナは鯨に飲み込まれ、三日間、腹の中にいたのだった。彼は海岸に吐き出され、命は助かる。

 ヨナは神の力には逆らい得ないのを知り、諦めて、敵国に行って、神の預言を話したーーという話である。

 ※
 このエピソードを見ると、ヨナという人物はそうとう偏屈な、自我の強い人間だというのがわかる。私が気に入っているのが、ヨナが神に逆らう為にわざわざ反対方向の船に乗るという行為である。

 理屈で考えれば、神はもっと敬虔な、真面目な人間を預言者に選んだら良さそうなものである。しかし神が選んだのはヨナという偏屈な人間であり、どうしてそんな偏屈な人間を選んだのか、というのが疑問になってくる。

 しかし、聖書というのは合理的に書かれているわけではないので、そのあたりの問いは自分で考えていかなければならない。私は、その後の西欧思想の展開なども考えて、このあたりから既に、神と人間との争いの前兆が現れているという風に考えている。

 理屈で言えば、神は、自分の思想をただ伝えてくれるロボットのごとき人物を預言者に選べばいいわけである。現実世界でもそんなおべっか使いはわんさかいる。しかし、そのような人物は信頼するに足らない。信仰の問題を考えると、偏屈で自我の強い人間が、後から信仰に目覚めた方が、最初から信じ切っている人間よりも、より強い信仰を持っていると言えるのではないか。私はそんな事を考えた。

 もっとも、こういう事も別に論理的な根拠があるわけではない…。ただ、私は、旧約聖書を読みながら、神と人間との葛藤という西欧の歴史に流れている通奏低音が、旧約聖書の中にもはっきり流れているように感じたのだった。

 ※
 チェスタートンとニーチェの話に戻ると、「神の御心に叶っている」のは、チェスタートンよりもニーチェの方ではないか、とふと思った。

 もっとも、これも別に合理的・論理的に正しい根拠があるわけではない。ただ、神という概念をどこに設定するかによって、神に選ばれる人間というものの質もまた変わってくるように感じただけだ。

 はっきり言えるのは、チェスタートンは「キリスト教徒」としては百点だが、「キリスト的」な人物ではないという事だ。チェスタートンはニーチェを「柔らかい心を持とうとせぬ者は、ついには柔らかい脳を持つことに至りつくのである」とこきおろしている。その前の文章には「孤立した傲慢な思考は白痴に終わる」と書いてある。

 これはニーチェが人生の終わりに狂人になった事を指しているので、かなり辛辣な批評である。しかし、そういう言い方をするのであれば、キリストその人もまた罪人として磔になるという酷い死に方をしている。キリストは旧約聖書の文言を自由に解釈してみせたので、当時の固い宗派から嫌われて、死刑に処された。死に際の無惨さが、その人の思想、人生の間違いを証明しているのであれば、キリスト本人もまた、その糾弾からは免れがたいという事になるだろう。

 ニーチェはたしかに「アンチ・キリスト」だったが、彼は自分の思想を一人で背負い、その責任を引き受けて、孤独に死んでいった。私は彼の言っている事は(間違っているんじゃないか)と思っているが、しかしその姿、生き方はどちらかと言うとキリストその人によく似ていたのではなかったのか。少なくとも、チェスタートンよりはニーチェの方がより「キリスト的」だったとは言えそうだ。

 しかし、この問題は展開していくと大変な事になる。そもそもキリストその人が、当時の形式的な学者を辛辣に批判した人物だったのであり、キリストはかつての宗教の精神を忘れ、些事に拘泥している学者らを徹底的に批判した。という事は、キリストの言った事を体系的に組織し、その精神を忘れ、ただ細部の儀式や典礼、試験などを守って昇進して、それで満足している人間らは、新たなキリストが現れれば、批判されねばならないだろう。

 私はその違いを「キリスト的」と「キリスト教的」という言葉で分けているのだが、これを展開していくと、非常にやっかいな思想問題に巻き込まれていくように感じるので、どこかでポイントを見つけなければいけない、と思っている。

 まあ、私が聖書を読んで考えた事は大体、以上のような話である。神という概念についてはこれからも考える必要があるわけだが、神という概念ほど、多義的な解釈を許すものはないだろう。

 犬養道子は、キリストが神を「天父」と呼んでいる点に着目している。天にある存在は、垂直的な存在である。それは地上的なものとは分別される。人間が定めたものであれば、人間の定義の範囲内で収まるが、神という概念は人間の手には収まらないから、神をめぐって、無限の闘争・葛藤が続いていく。そこに歴史の波が起こってくる。
 
 宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』で、「ほんとうの神さま」を探し求めているのを明らかにしていた。ジョバンニと、キリスト教の青年が列車の中で議論している。青年にとって「神さま」は「たった一人」であるのがはっきりしている。彼はキリスト教なので、キリスト教の神だけが唯一の神なのだ。それに対してジョバンニはこう返している。
 
 「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」

 しかし、青年には理解できない。青年に理解できないのは、彼にとってはキリスト教という一つの党派だけが絶対的な正義だからだ。ジョバンニはそれらの党派を越えた神を探し求めている。が、それは言葉で明確にはできない。

 宮沢賢治はここで偉大な追求をしているのだが、キリスト教の原初の精神を考えるなら、キリスト教という枠組みを越えて「神」や「キリスト」のような概念を模索していってもいいのではないか。もちろん、それはジョバンニの言葉と同じく、言葉として、概念として明瞭にできるものではない。ただ、宗教の形ではなく、本質を考える時、そうした模索を行う事は宗教の規律に反するものであっても、その魂に反するものではないのではないか。私はそういう事を考えた。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?