一流を目指さない (立川談志より)

 私は志村けんを面白いと思った事がない。子供の頃でも、志村けんでは笑っていないと思う。その記憶がない。大人になっても、志村けんを凄いとか、いいと思った事がない。

 しかし、ネットのコメントを見ると志村けんは「凄い人」という扱いをされている。彼らは志村けんのバカ殿様なんかでしこたま笑った経験があるのだろう。

 この文章は志村けんを貶す為に書いているわけではない。志村けんが好きな人は嫌な気がしたかもしれないが、私は志村けんが嫌いなわけではない。ただ「どうしてみんなは志村けんをそんなに評価するんだろう?」と素朴に疑問に感じていたという話だ。

 それで、思い出したのは立川談志がいかりや長介(ザ・ドリフターズ)と話していた動画だ。立川談志といかりや長介は年が近いので、お互いが成り上がっていく様を見ている。
 
 件の動画では、いかりや長介が、立川談志に言われた悪口について語っている。いかりや長介はこう言っている。

 「お前ら(ザ・ドリフターズ)一流になりやがって、バカ。頭のいい奴は二流なんだよ」

 いかりや長介は当時、こんな風に談志に言われたそうだ。談志も(そうそう)とうなずいている。私は談志の言う一流と二流の違いがずっと心に引っかかっていた。

 ※
 志村けんは、ザ・ドリフターズの一員である。だから、彼は「一流」の一員という事になるだろう。

 私は先日、ふと、(談志の言う一流と二流の違いはこういう事じゃないか)と思いついた。以下に書くのはその思いつきだ。

 私が志村けんに全然ピンと来なかったのは、志村けんが「一流」だったからではなかったか。思いついたのは、「人形」というキーワードだ。

 立川談志の言わんとする「一流」というのは「人形」の事ではないか。だから「一流になりやがって、バカ」と談志は言ったのではないか。

 それでは「一流」=「人形」とは何か。それは、「視聴者が望む役割をそのままこなす」という意味だ。そこでは、客の要請にそのまま答えるので、表現者の内面の逡巡とか、苦しみとか、そういったものが排除される。つまり、一流とは人形のように内面を剥奪されており、その為に完璧な見世物に見える。「仮面」と言い換えてもいい。身につけた仮面が、そのまま自分の素顔になってしまう事。仮面と素顔の間のズレがない状態。それこそが、立川談志の言う「一流」ではないか。

 そういう意味では、木村拓哉は一流だろう。彼はいつでも「木村拓哉」だ。アーティストであれば、サザンオールスターズなんかは紛れもなく一流だろう。芸人のダウンタウンも一流だろうし、女優の綾瀬はるかも一流だろう。

 こうした人達は、テレビのCMなどにも起用しやすいし、大衆人気が高い。一方で、立川談志のような人は、外面と内面がずれていて、面倒そうな物言いをするし、何を考えているかわからない、不穏な空気をいつも漂わせている。そういうものを大衆は好まない。大衆が好むのは一流、つまり、内面に複雑な状態を持っている人間ではなく、彼らが心の底から愛せる、人形的、仮面的偶像である。

 立川談志は一流よりも二流の方が上だとはっきり言っている。一流の落ち行く先は、三流か、三流以下だとも言っている。一流は人形なので、彼らがその外形を剥奪されると、もう何も残らない。内面と外面の差異に表現がつくられるのではなく、目に見えているものが価値の全てなので、一旦、飽きられ、捨てられると、どうにもならない。彼らは別の仮面を被るしかない。

 一方で二流はどうだろうか。立川談志は「俺の芸は下手なんだ」と言っている。また、いかりや長介にも「チョウさん、もうちょっと下手に芝居できねえか」と絡んでいる。何故、下手な芝居の方がいいのだろうか。何故、一流よりも二流の方がいいのだろうか。

 これは難しい問題だが、以下に私の考えを書く。二流とか、下手とかいうのは、表現されたものと、表現している自分との間に「ズレ」を感じている状態の事だ。その状態が観客にも伝わるので、何かもどかしい、完成された芸とは違うものを見せられている気がする。つまり、ここでは表現者の葛藤それ自体が、舞台の上にあげるかどうかが問われている。

 私は立川談志の普段の姿を追った、『情熱大陸』というドキュメンタリー番組を見た事がある。感銘を受けたのは、立川談志が悩みに悩み抜いている姿だった。まわりが「良かった」「みんな褒めていた」と言っても、立川談志一人だけ「いや、良くない」と言い切り「俺の何が悪かったのか…」と自問自答をやめない。

 その時、談志はあえて観客に受けない芸を選択して、演じたのだった。結果、あまり受けなかった。受けない芸を選択して、実際に受けなかったならば、悩む事もないはずだが、談志はそこでまた悩む。天才と言われた老齢の芸人が、いつまでもくよくよと悩んでいる姿に、私は「ここに人あり」とでも言いたい気持ちになった。

 同じような印象を受けた、別のドキュメンタリー番組がある。それはニコラス・ウィンディング・レフンという、私の好きな映画監督を写したドキュメンタリー作品だった。詳細は省くが、レフンはずっと悩んでいる。これでいいのか、あれでいいのかと悩み、とうとう子供に「ただの『映画』じゃないの」と慰められている。

 立川談志もレフンも、二人共私は好きだが、彼らはうんうんと子供のように悩んでいる。何故か、彼らの姿勢は子供っぽいのである。それは彼らが大人の忘れた情熱を持っているからだが、同時に、自分の世界に極度に没入している為だ。彼らは自分の世界に入り込み、ああでもないこうでもないとくよくよ悩む。だが、外側の観客に対しては尊大な、傲慢とも言える態度を見せる。

 観客はその態度に腹を立てるかもしれないが、私はそんな事はどうでもいい。作品を作り上げるのに必要な葛藤は、彼らは自己の中で十二分に体験している。今更、観客に受ける為に、観客との間に駆け引きを始める気はない。葛藤は観客と行うものではなく、表現者たる自分の内部で行うべきものだ。

 彼らは外側には尊大な態度を見せつけるが、それは内なる世界で、自分を徹底的に、客観的な基準で裁き、その基準を越えようと努力してきた為に、外側の基準はどうでも良くなっている。こうして彼らの作品は、それぞれの内的奮闘が刻印された物になる。

 立川談志の言う「二流」とはそのように、くよくよとしており、表現されたものと、表現者との間に差異があって、その間が埋まらない事を意味しているのだろう。彼らの表現はぎこちない。そこには、澄み切った、達観しきった人間の簡潔さが見られない。むしろ、内部はドロドロとして、はっきり形になりきらないものが渦巻いている。

 一方で一流は、内面と形式が完全に一致しており、いわば銭湯に描かれているペンキ画の富士山のような見事さがある。だが、内面は空白であり、深みというものがない。シェイクスピアが始めてフランスに紹介された時、シェイクスピアはフランス劇のような簡潔さ、形式的な美しさがなく、荒削りな才能だと評されたそうだ。私は、立川談志的に言えばシェイクスピアもドストエフスキーも「二流」だと思う。

 だが、表現というものが面白いのはなんと言っても「二流」の人達であり、超一流への道は、二流のごわごわした道を経過していくのだろう。そういう意味で、私は一流には興味がない。私は永遠に一流にはなれないだろう。一流はそもそも目指すべきものではないのだ。

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