吉田松陰が罪を進んで告白した理由を考える

 明治維新について勉強して始めて知ったが、吉田松陰は捕まった時、黙っておけばいい暗殺計画についてべらべらと喋って、その結果として処刑されたそうだ。ウィキペディアにも書いてある。間部詮勝を殺す計画を進んで告白したらしい。

 その結果として、吉田松陰は処刑された。黙っておけばいい事について自分から話して処刑されるとは、現代の人間からすれば意味不明だろう。

 私は、維新志士のエートス(社会的性格)というものは、今の我々が考えるのとは違うものだったと思っている。それが吉田松陰の告白にも現れている。

 現代的に考えれば、罪としてバレないような事は黙っておけばいいだろう。現代は功利主義が支配しているのだから、そういう考えが普通だろう。

 もう一歩進んで考えみよう。吉田松陰という人は、自分のしている事を「悪」だと思っていなかった。彼は徹頭徹尾、日本という国の為に行動していたので、彼の過激な思想、行動は全て、公的なものに照らし合わせて、恥ずべき所がないはずだ。つまり、普通の犯罪者と違って、後ろ暗い所はなかったはずだ。

 吉田松陰を全て肯定できるかは疑問にしても、吉田松陰がそんな人物だったからこそ、今では「偉人」として名が残っているのだろう。彼が、昨今の炎上タレントのように、自分の利益ばかり考えてあくせくしている人間だったら、再評価される事はなかった。

 それでは、何故、吉田が自らの罪を告白したのかがなおさら謎になる。彼が自分の思想、行動は正しいと本気で信じていたのだったら、処刑されるのを望まず、生きながらえて、国を良くする行動を続けていた方が良かったはずだ。そう考える事ができる。

 しかし吉田はそんな事はしなかった。彼は自ら進んで告白して、処刑された。では何故、彼はそんな事をしたのだろうか?
 
 ※
 私が思うのは、吉田が、自分の中の倫理と語らって、そうした行為を決定したのだろう、という事だ。

 自分の中の倫理と言っても人には通じないだろう。現代は、「自分自身と対話する」と言っても、ほとんど意味が通じない。

 吉田松陰が自分の罪をわざわざ語ったのは、彼が「語るべき」と考えたからだ。どうして彼は語るべきなのだろうか。彼は間部詮勝を殺すのが正しいと本気で信じていただろうし、それが間違っていると思ったから、語ったのではないだろう。

 彼はただ、捕まった人間が、自白を要求されたら、全てを語るべきだと考えていたのだと思う。つまり、彼は彼の良心に照らし合わせてそうしたわけだ。

 この場合の「良心」の意味は、正しいか否かという思考よりもう一段、違う考えである。例えば、中村隆英の「明治・大正史」には次のような記述がある。西郷隆盛が征韓論を主張していたのだが、岩倉具視が中心になって征韓論がひっくり返された、その時の話だ。
 
 「表へ出ていくときに、一緒に出ていく征韓論のほかの参議に向かって、右大臣は頑張り申したなと岩倉をほめたそうです。そういうところがいかにも西郷らしいと思います。自分の立場と正反対でありながら、主張を貫いた岩倉をほめるわけです。」

 ここで西郷が岩倉を褒める意味は、党派性に囚われた人々には理解できないだろう。西郷は征韓論を押していたのだから、岩倉は敵だったはずである。しかし、岩倉を褒める西郷は一体、どういう位相で褒めたのだろうか。

 西郷が岩倉を褒めた位相は、自分の正しいと思う意見を越えた、さらなる客観的な視点だった。それに従って、西郷は岩倉を褒めたのだった。しかし、西郷が自分の思想を曲げたわけではない。

 吉田松陰にも同じような思想があったのだと私は思う。それは、吉田松陰個人が正しいと思う思想よりもより上位の視点で、その視点に従って吉田は自分の罪を喋ったのだろう。その視点からすると、捕まった時には全ての罪を洗いざらい話し、潔く刑を受けるべし、というような事だったのだろう。

 西欧的に言えば「良心とは神の声である」という事になるだろう。自分の中に垂直な神を持つ者は、神との問答の中で自己を位置づけていく事になる。そうして位置づけられる自己は、動物的な、欲望に捉えられた自己とは違う自己だ。端的に言えば、吉田松陰や西郷隆盛のような人の中には、西欧で言う神=良心に存在するものがあり、それとの対話の末の行為が、彼らをあれほど個性的で、苛烈な存在にしたのだと思う。

 どうしてそうなるかと言えば、より高い良心との対話で行動していく場合は、それが現実の党派性を越えた、より複雑な行動となるからである。現実の党派性だとか、現実の国家、集団に従っている人間の動きはわかりやすい。しかしより一層高い観点で動く人間は、地上的観点から見れば複雑な軌跡を描く。それが彼らの独創=天才として、我々の脳裡には刻まれるのである。

 私はこれが、心の中の倫理であるという点を重要視したい。それはあくまでも、心の中のあるものでなければならない。幕末から明治にかけての国家に対する奉仕概念と、昭和の戦時の国家への奉仕概念には違いが見られる。前者は各々の心の中のある理想に捧げられていたのであり、後者は、天皇ー政府ー国家という、具体的な、現実的な政治勢力に捧げられていた。

 前者の方がより普遍的なものである。この場合、国家に対する奉仕観念が、国家に対する反逆すらも含む。何故なら、その場合の「国家」は、心の中にある理想像であって、現実の国家とは違うものだからだ。理想の一点を巡って、現実の立場は変化する。


 明治維新が、攘夷と開国、倒幕と佐幕といった概念を揺れ動きながら進むのはその為だろう。一見、矛盾しているような対立する概念は、実際にはそれより上位の観念によって統一されていた。それ故に明治維新は一つの統一行動として見える。

 この観念がどこから来たのかと言えば、陽明学や朱子学の影響だろう。西郷隆盛が掲げた「敬天愛人」という言葉、その場合の「天」は、現実の党派的政治ではなく、プラトンの「イデア」のような理想的なものだ。心の中にある理想像に進む過程において、あるいは反逆者になり、あるいは権威を支持する者となり、彼らは錯綜した道を進んで行った。

 明治維新が成されたのは、一見、混乱して動いている人々の心の中にある心的な理想像が生きていたからではないか。それが例えば、吉田松陰の自らの罪の告白のような、不可解とも見える行動につながったのではないかと私は思う。

 

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