チェーホフ 「退屈な話」 松下裕訳

 チェーホフと言えば「三人姉妹」「桜の園」といった作品が有名だが、私が一番好きなのは「退屈な話」だ。

 「退屈な話」はチェーホフ二十九才の時の作品だ。処女作には、その作家の全てが含まれると通例言われるが、「退屈な話」はそういう意味においてチェーホフの処女作だと思う。

 主人公はニコライ・ステパーノヴィチという老教授だ。この老教授は、ロシア全土から尊敬される立派な教授だが、彼の内面では老いと、人生に対する疲れを感じており、広漠たるロシアの大地の中で孤独を感じている。彼は外から見れば立派な社会的地位と、温かい家族を持っているが、その内側は腐敗しており、老教授はもはや外界の全てに疲れと死の予兆しか見出さない。

 二十九歳の新進作家が、死にかけている老教授を主人公にするという点から既にチェーホフという作家の特異性が現れている。しかし、二十九歳はやはり二十九歳であって、この死にかけた老教授の苦しい語りの中にも、どこか溌溂たるもの、人生に対するチェーホフの願望が垣間見えている。というより、そのような希望が現実に裏切られるからこそ、彼はニヒリズムに陥るのであって、希望を持たない人間は決して絶望する事はできない。

 「退屈な話」は二つの世界で成り立っている。ごく短い作品だが、そこには二つの世界がある。

 一つは、主人公である老教授、親戚の女性カーチャ、大学の同僚ミハイール・フョードロヴィチの三人で構成されている世界だ。三人は夜な夜な集まって、世の中のありとあらゆる俗物に対して罵りを加える。老教授はそんな批判に、自己反省をしてみせる。彼はそんな罵りをやめるべきだと思っている。だがそれは「立派な老教授」という外貌が彼に強いている反省に過ぎず、内心では二人の批判に完全に賛成している。

 もう一つの世界は、上記の一つ目の世界が痛烈に批判している世界、つまり「俗物」達の世界だ。老教授は自分を取り巻く同僚、生徒、家族らを嫌悪の目で見る事をやめられない。

 老教授は娘の恋愛問題にも悩んでおり、娘が、上っ面だけの調子のいい芸術家もどきに惚れ込んでいるのを苦々しく感じている。作品のラストでは、娘は芸術家もどきと駆け落ちしてしまう。

 この駆け落ちは本来の小説・ドラマにおいては重要なポジションを占める行為であるが、それが起こった時、老教授はこんな風にしか述懐できない。

 (娘と芸術家もどきが密かに結婚した知らせの電報を読んで)

 「この電文を読んで、驚いたのも束の間のことだった。驚いたのは、リーザとグネッケルのふるまいにではなくて、二人の挙式の知らせを受けたときの自分の無関心についてだった。」

 本来ならドラマの重要部分を占める行為に対してもはや老教授は、何も感じない。自分の娘の駆け落ちという本来なら重大である事実に何も感じる事はできない。

 だから、このドラマは通常のドラマとは違う次元で行われていると言える。老教授は世界の無意味さ、己の小ささに苛立っているが、何よりも彼が辛い思いをしているのは彼のその思いが決して「他人」には伝わらないからだ。俗物である娘と妻との間には、分厚い壁がある。

 いや、老教授はわかりあえる他者がいる、と言えるかもしれない。それがカーチャとミハイールだ。しかし、この三人はそれぞれに袋小路に向かっている。カーチャはかつて女優だった。劇団とか芝居に希望を持って旅に出たが、夢は破れて、彼女が思い描いていた芸術はこの世に存在していない事を知った。恋にも破れ、今は失意の人になっている。ミハイールはカーチャに恋をしているが、この恋にも何の未来もない事が間接的に示されている。

 老教授の俗物への愚痴を引用してみよう。例えば、こんな調子だ。

 (昨今の学生についての愚痴)

 「気に入らないのは、タバコを吸うこと、アルコール飲料をたしなむこと、なかなか結婚したがらないことだ。仲間に食うや食わずの学生がいようといっこう平気だし、学生援助会から金を借りてもろくに返そうとしないほどのんきで、しばしば無頓着なことだ。彼らは新しい言語を知らず、ロシア語の表現もあやふやだ。ついきのうも、同僚の衛生学者がこぼすには、講義に二倍も手数がかかる、なにしろ物理学もろくに知らないし、気象学なんぞは全く知らないのだから、という。彼らは新しい作家だと、どれもあまりかんばしからぬ作家だろうと、すぐにその影響を受けやすいのに、たとえばシェイクスピア、マルクス・アウレリウス、エピクテートス、パスカルといった古典作家にはほとんど無関心で、こういう大きいものと小さいものとを見分けることができない点にこそ、彼らの世事に疎いのが何よりはっきり現れている。」

 愚痴はこんな感じで、現代にも当てはまりそうな愚痴だ。特に最後の作家の評価については私も思うところがある。私はつい最近、あるベストセラー作家が「ドストエフスキーは当時のロシアのエンタメだ」と言っていたのを知った。こうした人々には、大きなものと小さなものとの見分けがつかない。要するに俗物なのだ。

 俗物に対する罵りは例えばトーマス・ベルンハルトのような作家にも見られる。大衆社会がやってくると共に、天才はその姿を消していく。ベルンハルトのような人は、孤独な独白の内に自らの居場所を見出そうとしたが、「退屈な話」における三人の俗物への嫌悪と罵りはその前身と言っても良いだろう。時代を、社会を何かが飲み込もうとしていた。ロシア文学最後の天才であるチェーホフは、崖の上に一人で立っていて、大きな波に自分が飲まれるのを感じていた。プーシキンから始まったロシア近代文学の天才の系列はチェーホフにおいてとりあえず終わったと言っていいだろう。

 居場所のない孤独な精神を描いた作品は、それでは、どのような終わり方を迎えるのだろうか? 娘の駆け落ちも、老教授自身の死への接近も、作品の最後を飾るにはふさわしくない。チェーホフは、作品の最後に、カーチャの旅立ちを置いている。カーチャは俗物ではない。彼女は老教授と同じように、世界に苛立ちを抱えている。カーチャは、老教授のように年老いてはいない為、再出発が可能とされている…。

 カーチャは、今のような生活に耐えられず、旅に出る。カーチャ自身も、三人で俗物を罵っている生活にうんざりしていたのだ。

 

 彼女はどこかに出かけなければならないのを知っている。だが、どこに出かけても、決して問題は解決しない事も知っている。彼女はそれほどに聡明であり、「希望」を持つほどに愚かではない。それでも…「それでも」…というただその言葉を辿るためだけに彼女は旅に出る。旅に出る際、カーチャは老教授に挨拶しにくる。

「「こんにちは」と言いながら、階段を昇って来たので彼女は肩で息をついている。「思いがけなかった? わたしも……わたしも来たのよ」」

 カーチャは、感情を乱して、老教授に次のように叫ぶ。

「「ニコライ・ステパーヌイチ!と言いながら、青ざめて、両手を胸に押し当てる。

 「ニコライ・ステーパヌイチ! わたしはもうこれ以上こんなふうにしては生きて行けないわ! 行けないわ! どうかお願いですから、すぐにおっしゃってください、たった今ーーわたしはどうすればいいの。おっしゃって、どうすればいいの」

 「どう言えばいいのかね」とわたしは途方に暮れる。「わたしに何が言えるだろう」

 「どうかおっしゃって、お願い!」と彼女は言いながら、息を切らして全身をわななかせる。「ほんとなの、もうこれ以上こんなふうにしては生きて行けないわ! 気力がないのよ!」」

 

 カーチャは崩れ落ち、泣き出してしまう。カーチャは人生の謎を、ロシア中から尊敬されている大教授に解いてもらおうとする。だが、老教授は何の答えも出せない。

 カーチャもまた、それを予期していただろう。おそらく、カーチャは本当に老教授に問題を解いてもらえると思っていたわけではない。また、老教授も、偽の解答を出すような偽善者ではない。老教授は何の答えも出せない。ここで提出されている問いはそもそも答えが出ない問いであり、それでも問う事をやめる事を、許されてもいない事だ。

 やがてカーチャは冷静になり、部屋を出ていく。老教授は彼女の姿を見送る。そうして娘の駆け落ちにも何も感じなかった老教授は、カーチャの後ろ姿に次のような言葉を送る。

 「いや、彼女は振り返りはしなかった。黒い服が最後にちらりとして、足音も消えて行く……。さようなら、わたしの宝よ!」

 この最後の言葉を、優れた批評家のJ・M・マリは「魔法」と呼んでいた。

 「「さようなら、わたしの宝よ!」ここに人間のあらゆる希望の涸れ果てた砂漠を天国に化する魔法がある。我々は見直し、また聴き入るーーそうここには調和がある。そしてもしチェーホフの見出したところに調和があるとすれば、それはいたるところにあるのだ。彼は天才の大いなる仲間のうちの最後の者だった。末子として彼は来て、もはや彼には後つぎはない。人間生活の大きな領域は分けられてしまった。そこで彼はひとり荒れはてた孤独の野に、退屈で平凡な精神の荒地に立ち去っていく。」

 (「ロシア文学の意義」 J・M・マリ)

 マリの言おうとしている事は明瞭だろう。去っていくのはカーチャであり、チェーホフ自身でもある。去っていくものを見守るのは老教授であり、チェーホフ自身でもある。

 私は老教授の別れの言葉を「魔法」だとは思えない。それが調和を刻印しているとも思えない。ただ、カーチャの嘆きは私の心にひどく突き刺さる。そしてその事は、私が、老教授が娘の駆け落ちに無関心であるのと同様に、世のドラマに対して無関心である、それ故に起こる感傷なのだろう。

 カーチャ、老教授、ミハイールに起こっているドラマは形而上的なものである。それは普通のドラマではない。今を生きる人々が遭遇するドラマ、つまりこの世界の内部で希望を持ち、夢を持ち、挫折したり、成功したり失敗したりするドラマではない。そうではなく、彼らが捨て去るのは世界そのものであり、彼らが向かおうとするのは世界ではないどこか別の世界なのだ。カーチャは世界のある部分に絶望したのではない。世界そのものに絶望したのだ。

 だが全てに絶望したとしても人は生きねばならないし、どこかへ行かなければならない。「罪と罰」にあるように「人はどこにも行く所がなくてもどこかに行かねば」ならない。だが、俗物達はそれらを全て、現実の中の「どこか」だと考えようとするだろう。彼らは、驚いた事に、去っていくカーチャに対して明瞭的確な答えさえ与えるかもしれない。彼らは人生の健全な答えを提出してくれるかもしれない。だがそれは彼らの暗愚故であり、老教授はその知性故に答えを出す事を自らに禁じ、ただカーチャの後ろ姿を見送る事にしたのだった。

 「桜の園」や「三人姉妹」を読む限り、チェーホフ自身の思想は最後までほとんど変わらなかったように見える。作品の形式はより洗練されたが、私はチェーホフの生の声が響いている「退屈な話」の方をより愛す。この作品におけるカーチャの慟哭、その問いかけは今、この宇宙のどこかで虚ろに響いているような気がしてならない。そして彼女の旅立ちに際して、「わたしの宝よ!」と呼びかける声もまた世界のどこか外側に存在しているのかもしれない。

 しかし、それらは全て、我々が知っており、感じており、日々、メディアで流れるドラマやニュースとは違う場所で起こっている事柄だろう。チェーホフはマリの言うようにロシア文学最後の天才であり、彼が波に飲まれた後にはもう全てが消えてしまった。それでも彼が残していったこだまがどこか世界の外側で響いていて、それを「今」生きている我々が幻聴する事もあるだろう。私は「退屈な話」という作品をそんな風に読んだ。

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