異なるキャラクターが同じ話し方をする事について

 フォークナーの「アブサロム! アブサロム!」は全て、同じ文体で貫かれている。「アブサロム! アブサロム!」は、各章で異なったキャラクターが、サトペンという男について、また、彼の周辺のエピソードを語るという構成になっているので、本来的に言えば、異なったキャラクターが同じ話し方をするというのは変に思える。

 私の記憶では、トルストイがドストエフスキーの小説に対して「彼の小説ではみんなが同じ話し方をする」と言っていた。確かに、ドストエフスキーの小説においても、キャラクターの口調は、みんな似ている。みんな熱情的で、ドストエフスキー的な精神を吹き込まれた存在だ。

 こうした方法論、つまり、異なったキャラクターが同じ口調で語ってしまうというのは、冷静なリアリズムを基礎として考えるなら、作家のミステイクであるように思われるだろう。

 というのは、現実であれば、それぞれの人は、それぞれに語り方が違うのであって、それ故に「多様性」があるように思えるからだ。おとなしいひと、うるさい人、男と女、若者と老人。また様々な性格や生まれなどによって、語り方は違ってくる。現実ではそんな風にそれぞれに異なっている語り口、それぞれの人物を作家が、作品の中で勝手に一つの方法論で統一してしまうのは、作家の傲慢ではないだろうか? 

 作家が、故意に自分の主観の中に、世界の様々な様相を落とし込めているのではないだろうか? 彼らは、世界の多様性というリアリズムを貫徹できない為に、そのように統一してしまったのではないか? …こんな疑問が湧き上がる。

 結論から言えば、その疑問は間違っている。確かに、作家は世界を一つの方法論に落とし込む。だが、それは作家が世界を眺めたその様相を語るものであって、それは、偉大な作家の場合、世界を冷静に見つめるリアリズムよりも優れた視点である。冷静なリアリズムが描く世界の方がより現実に近いと考えられても、ドストエフスキーの作品にはより強烈な真実がある。

 そもそも、現実を眺めた時に、人々の話しぶりは確かに、多様な様相を呈するだろうが、彼らの語る言葉の多くは彼らの奥底に存在する真実を決して語りはしない。彼らは確かに、自分の言葉で語るが、自分の真実を露呈するような言葉は決して吐かないのである。

 そこで、シェイクスピアやドストエフスキーのような偉大な作家は、彼らに口を割らせるのである。彼らの語り口では決して到達できない、彼ら自身の真実を無理やり語らせるのである。


 彼らの手にかかれば、どんな小人物も自分の内奥にある真理について語らざるを得ない。確かに、その語り方は、「不自然」なものだろう。しかし、それは我々が現実世界における平凡な語りを自然だと感じている限りに感じられる「不自然」でしかない。実際に、これら不自然な語り方によって、語られた真実は、現実に我々が語る言葉よりもより一層、生々しく、我々の深奥に響く言葉となっている。すなわち、視点を変えれば、彼らが紡ぎ出した言葉は、現実の語りよりもより一層「自然」なのだ。

 フォークナーは、シェイクスピアやドストエフスキーほど優れた作家ではないが、しかし偉大な作家ではある。フォークナーもまた、優れた作家の方法として、各キャラクターに、フォークナー的な語り口を強制している。しかし、それはフォークナーが見た世界の様相、真理をえぐり出す為に必要な技法だったのであって、各キャラクターがみな同じ語り口をするのは、その語り口の中での多様性で、十分、彼の追求する真実をえぐり出せるとわかっての事だった。

 そもそも、作家の文体とは、作家の哲学であり、作家の世界に対する態度である。読者はこの態度に参入する事によって、自らの世界認識を新たにしようとするのである。だから、作家の語り口に違和感を覚えたとしても、まずは彼らを信じてそこに入っていかなければならない。そこでは、冷静なリアリズムによって得られない、世界の真の様相が見られる事だろう。

 …というより、そもそも「冷静なリアリズム」という視点そのものが、それが我々にごく自然に強制されている為に、当たり前だと感じられるようになった一つの視点にすぎないのである。そのような常識的な視点を相対化する為にも、我々は文豪の作品に入っていって、自分の見る目を磨く必要があるのだ。

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