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ポリコレと芸術が相性が悪い理由

 最近、「ポリコレ」という言葉がよく使われる。これは「ポリティカル・コレクトネス」を省略したもので、ウィキペディアには「人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用すること」と説明されている。
 
 要するにグローバル社会に対応した、誰も傷つかないような表現を目指すというものだろう。化粧品のCMで、意図的に白人、アジア系、黒人といったいくつかの人種が入っているのをよく見る。
 
 一方で過剰なポリコレを気にしすぎて、表現が不自由になっているという指摘もあり、そのあたりは世界的にも揉めている。
 
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 私自身はポリコレに関しては(どうでもいい)という感じで見ていた。というのは、ポリコレが問題になるのはまず売れている作品、有名な作品であって、無名の作品がポリコレを破っていようと全く問題にならないからだ。
 
 要するに、ポリコレを気にしようが、気にしまいが、そこでは「売れている作品は良い作品」という資本主義の価値観に沿ったものでしかなく、そうした作品がポリコレに反しているか、そうでないかと議論し続ける事は、単に、大衆がもてはやすもの、売れているものは素晴らしい、という価値観を強化する事にしか繋がらないだろう、と私は見ていた。
 
 だから私はポリコレに関しては距離を取りたい気持ちが大きい。…もっとも、このエッセイでは主題に取り上げたので、そういうわけにはいかない。
 
 私が思うのは、ポリコレというのは、その定義からして、それはあくまでも一般的かつ政治的なものであるという事だ。要するにマスに関わる事であって、個人の真実というものとは離れている。
 
 一つ、例をあげたいが、イ・チャンドン監督に「オアシス」という名作映画がある。
 
 この映画には、脳性麻痺で重い障害を患った女性・コンジュが出てくる。彼女はずっと体が痙攣していて、普通の人間のような動きができない。
 
 コンジュはある時、主人公のクズ男ジョンドゥに強姦されそうになる。強姦は未遂に終わるのだが、ここでコンジュは生まれてはじめて、自分が「女」として見られたという事に気づき、ジョンドゥが気になる。
 
 やがて、二人は恋人関係になるのだが、とんでもないクズのジョンドゥと、重い障害を持ったコンジュの恋愛は社会から疎外される、破滅的な方向へと向かう。
 
 私がこの作品で感動したのは、重い障害を持つコンジュという女性もまた「一人の人間である」という事を徹底して描ききっている、という事だ。
 
 しかし、この徹底して描いたという事は、「ポリコレ的に正しい人間を描いた」という事実とは全然違う。
 
 そもそも、重い障害を持つ女性がレイプされかかり、それがきっかけで、レイプしようとした男を好きになる、というストーリーはフェミニストからも、障害者団体からも袋叩きにされそうなものだ。
 
 しかし、ここでイ・チャンドンが描ききっているのはコンジュという一人の女性についてである。彼女は重い麻痺を患っており、面倒を見ている家族からは、遠ざけられ、人間扱いされていない。
 
 イ・チャンドンが描いているのは、一般市民としては清く正しく生きているコンジュの家族は、障害者のコンジュに対して、気を遣い、優しい姿を見せているようであって、実はコンジュを遠ざけ、彼女を一人の人間として扱っていないという事である。(この家族はコンジュが重い障害があるのを利用して、障害者向けの良い部屋を借りている。しかし普段はコンジュを隣の家に入れて、監査の時だけ一緒に住んでいるように装う)
 
 こうした無関心、無感動の世界に閉じ込められているが故に、コンジュは、レイプされかけるという、最低の行為の中にはじめて自分に対する「関心」というものを発見する。
 
 私はここにはコンプラを越えた人間的真実が刻印されていると思う。
 
 もちろん、コンジュのような境遇の女性がレイプされかかればすぐに恋に落ちる、などと一般化して語るのは間違いであるし、レイプが良い事だ、と言う気もない。私は、ここで描かれているのはあくまでも「個別的な真実」なのだと思う。
 
 コンジュという一人の人間の真実に目を注いで、そういう感情、行為はありうるし、そうした感情、行動を取る人間もやはり人間の一人なのだというイ・チャンドンの視線が、「オアシス」という作品の背後には強く感じられる。
 
 私はこの作品はコンプラを破り、同時に、コンプラを越えた作品として模範的だと思う。そしてコンプラを守り、自分達は政治的に正しい人間だと信じ切っている人は、作中で描かれた、障害者に対して優しく丁寧に取り扱いながらも、心の中で軽蔑し、徹底した無関心で相手に接するコンジュの家族とよく似ているのではないか、と思う。
 
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 コンプラと芸術・文学との一般的な話に戻るなら、個別的な真実性の表現としての芸術を、一般的な政治や道徳で吸収しようとする動きは以前からあった。ただ忘れられているだけだ。
 
 エミリー・ブロンテ「嵐が丘」という名作文学があるが、これは発表当初、「道徳的に問題がある」という事でバッシングされた。この作品が評価されたのは時間が経ってからだった。
 
 文学とか芸術というのは、道徳的な模範を示すものではなく、それが悪であろうと善であろうと、人間の真実を照らし出すものだという近代的な芸術観が浸透する事によって「嵐が丘」は再評価されたのだった。
 
 過去を振り返れば、文学とか芸術とは既存社会の道徳や、政府の意向、権力の検閲といったものと闘ったり癒着しながら生き延びてきた。「ポリコレ」とか、それに類する大衆の好みに合うものを表現しなければならないという現代的な圧力も、昔の権力者の検閲とそう変わるものではないだろう。
 
 過去には皇帝によって禁止された文学的表現が、現代によっては多数者の政治的圧力によって禁止される。権力の位置は変わったが、芸術や文学がすべき事は私はそれほど変わっていないと思う。
 
 そういうわけで、ポリコレが話題になる昨今でも、別に文学や芸術が「終わりだ」と私は思っていない。色々なものに忖度する事で、多数者の賛同を得る作品もあるだろうが、そうした作品は個別的な、個人の真実を表現するものにはならないだろう。
 
 そして社会が均一に馴らしていく圧力を越えていくのは、個人という小さなものの中にある真実性、その情念や行為であるので、「オアシス」のような力強い作品が新たに現れれば、それは社会が強いる模範的道徳を打ち破っていくだろうと自分は思う。過去はいつもそうだった。そういうわけで、それほど私は最近の動向に対してそれほど悲観しているわけではない。

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