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時間の切り取り方が短すぎる

 さっきネットを見ていたら、ヤクルトの村上が最年少で国民栄誉賞を取ったというニュースが出ていた。
 
 村上の活躍自体は大したものだし、そういう点では異存はないが、しかしあまりにも早すぎる判断だ、と私は思った。栄誉賞なのだから、村上が引退してから、キャリア、貢献度などをじっくり見てから判断すればいいのに、と思った。
 
 しかしまあ、今の風潮的に、村上が最高の成績を残した時に栄誉賞をあげたら話題になるからいい、という判断だったのかもしれない。
 
 今、私があげた例は一つの例に過ぎないが、現代の風潮で私が嫌なのが、「時間の切り取り方が短すぎる」という事だ。何かを取り上げるにしても、刹那的な盛り上がりを過大に騒いで、それで一儲け、大騒ぎしようとする人々があまりに多すぎる。
 
 だが、彼らにそういう説教をしても無駄だというのがわかっているし、間違っているのは私の方だというのも私は知っている。
 
 少し突っ込んだ話をするが、こういう場合、私が、私の苦言を「正しい」とするには何らかの基準が必要だ。
 
 私は自分なりの基準を持っているが、それはひろゆき風に言えば「それはあなたの主観ですよね」という事で排除される。つまり、正しさを判定する基準は、今の社会ではどこにあるかと言えば、社会全体の動向から導き出される一種の気風、風潮、雰囲気などである。
 
 そうした気風が過去の伝統と葛藤しつつ、現在の「正しさ」が作り上げられる。例えば、法律のようなものは長い歴史の中で作られてきたものだから、現代の人々が「厳罰化しろ!」と一斉に口にしたからすぐ変わるわけではない。ただ、法律というのも完全に確固たるものではないから、現在の人々の圧力にさらされて、少しずつ変形していく。
 
 私は現代社会への苦言を言うが、しかしその言論の正しさを、人々がどこで判定するかと言えば、それは今の社会の在り方においてである。
 
 私が何を言いたいかと言えば、私がこんな風に「現代の人は時間の取り方が短すぎる」と苦言を言った所で、その言葉の正しさはあくまでも現代社会の風潮で決定されるという事だ。
 
 その正しさはどこへ向いているかと言えば、「時間の取り方が短いのは正しい。別に間違っていない」という事だ。何故かと言えば、彼らは現代の資本主義社会の要請に従っているだけであり、社会の風潮に従うなら、嫌でも何でも、自分達の商品や、タレントをバズるように努力しなければならないし、そうでないとこの社会では生き残れない。
 
 だから私のこのような苦言を現代社会のエリートが見るとしたら「偉そうな事を言っているけど、自分達は社会の最前線で働いている。それに比べてお前は何もしていないじゃないか。実際、自分達の身分になれば、この社会の競争で勝つ為に、短期的に盛り上がって、消費されるようなものを作って宣伝しなければならないんだ。お前は何もわかっていない」と、言うだろう。
 
 そしてそれは正しい。それ故、私は自らの正しさを違う基準に置きたいと思っている。だが、それがこの社会の中で、この社会の在り方を絶対視している人々とは違う正しさになるのは必定だ。それ故に、私はこのように社会に対する苦言を呈してみるが、それに関しては現実的影響力を持つ事をほとんど諦めている。単に自分の哲学を外に出す為に、言っているという側面が強い。
 
 …昔の中国人であれば、もっと簡単な言葉で言っただろう。「私の言は社会で受け入れられなかったが、天道に則っている」とか何とか。私としては、自分の中の天道に則っていると言いたい所だがそこまでの普遍性をも信じられない為に、このようにくどくどと書かざるを得ないわけだ。
 
 ※
 話を戻す。「時間の取り方が短すぎる」という事に関してだ。
 
 先日、精神科医の春日武彦の「天才だもの。」というエッセイを読んで、非常に面白かった。
 
 春日武彦は教養のある人だ。春日のエッセイは面白い。「天才だもの。」というエッセイは色々な天才を扱ったもので、春日なりの見解がそこに付け加わっている。
 
 春日武彦の見解には納得できないものもあったが、とても楽しく読めた。ここで、春日武彦のエッセイを取り上げたのは、春日武彦の評価軸というのは、現代のような刹那的な価値観ではなく、もう少し長いものに感じたからだ。
 
 天才の人生というのも色々な波乱がある。栄光に輝いだ時期から、天才性を失い、狂人に至る人もいる。アインシュタインのように、狂人にはならなくても、天才としての創造性を中途で失う人もいる。要するに、天才というのを、春日武彦はトータルで見ていると感じた。だから天才の悲喜こもごも、色々に想像が巡らされて、非常に面白かった。
 
 春日武彦の取り上げる天才のエピソードが面白かったのは、そこに一人の人間としての姿が浮かんできたからだ。一人の人間としての姿に、春日があれこれ注釈をつけるのが面白かった。
 
 今、一人の人間としての姿が浮かぶ、と私は言った。これは至極当たり前の事に思われるかもしれないが、そうではない。例えば、「いかにして天才になれるか?」「どうやったら天才を生み出せるか?」といった自己啓発的な発想をする場合、「天才」というものが固定的に捉えられている。
 
 天才を一人の人間として捉えると、天才の神秘性が失われる。「どうやったらアインシュタインを生み出せるか?」という問いを考えてみよう。この問いを提出して、答えを考えている間、アインシュタインは一人の人間としては見られていない。量子論において、アインシュタインは議論に敗北したわけだが(EPRパラドックス)、「議論に敗北したアインシュタイン」というのを、こうした問いー答えの関係では全然考えたりしない。
 
 「どうやったらAKBのようなアイドルを生み出せるのか?」と考えても同じ事で、そのように考えている間、華々しく活躍しているAKBのイメージだけが浮かび、脱退したり、引退したりしたアイドルの、一人の個人としての姿は浮かんでこない。
 
 こうした現象を「概念の固定化」と言ってみてもいいかもしれない。概念の固定化は、大衆社会では必須である。というのも、それが行われるからこそ、景気のいい話題ができるからだ。
 
 タレントは「概念の固定化」の為に作られた役者だと考えた方がわかりやすい。木村拓哉はいつまで経っても木村拓哉的なキャラクターであり続ける。彼が加齢と共に衰えて、一人の人間として、悲しんだり、苦しんだりする姿、一人の人間として死に近づいていく姿…そういうものを受け入れる知的余地は大衆の中にはない。人々は、浅い認識作用を時折、テレビやネットにちらと向けるだけだ。しかしそういう人々に、固定化されたキャラクターは供給され続けなければならない。それが人々が望んでいる事だからだ。
 
 概念の固定化は、言ってみれば時を止める作用を持つ。キムタクがいつまでもキムタクであるように。一人の人間の全体像が、大きな時間と共に認識される事は稀だ。それよりも、瞬間を切り取り、そこにあたかも絶対的な意味があるかのように内外に喧伝する。
 
 人々は瞬間を永遠にしようとしている。その為に、時間を薄く切り取り、それを大きく引き伸ばす。だが、引き伸ばされた時間は、次にやってきた時間によって上書きされていく。人々はすぐに忘れる。
 
 例えば映画「すずめの戸締まり」の感想はネットに沢山並んでいるが、それらの全体的な雰囲気は「今だけのイベント感に乗っていく」というもので、絶賛している人も、十年後にそれをしみじみと見返す事はおそらくしないだろう。その時にはまた別の流行り物が出ているから、一々、過去の流行り物を棚の奥から引っ張り出す意味もない。
 
 現代はこのように時間の切り取り方があまりに短すぎるし、それ故に様々なコンテンツや、出来事、批評など、色々なものがじっくりと読んだり考えたりするに値しないものになっている。また、この社会は大きな時間軸で何かしようとする人間を疎外しているので、ますます刹那的な人間が瞬間的に消費されていくだけになる。
 
 こうした世界においては、一人の人間の人生が、まとまりのある人生を構成できない。一人の人間の全体性を描くのが文学だとするならば、文学は今は難しい。…この場合には、ドストエフスキーのような、短い時間の中に多数の出来事を詰め込んだ、そういうタイプの作家も、私は自分の理論の中に組み込んでいる。というのは、ドストエフスキーのような作家は本来は長大な時間軸によって現れるような変化を、作品内では短い時間の中に詰め込んだからだ。ドストエフスキーが「罪と罰」を書けるようになるまで四十年以上の月日が掛かっている。
 
 そういうわけで、現代においては時間の取り方が何もかも短すぎると感じる。ネットに上がるエッセイなんかを、いわば私からすると「同僚」なので親近感を持ってちらほら読んだりするが、読んでいてなんとなく虚しい気持ちになる事が多い。
 
 それが妙に陽気な調子で、また、コメントを打つ人も同じような調子で明るく、お互いに同じ気分でいるのを目撃するとかえって私は悲しいような、空虚な気持ちになる。それは、そうした情緒が浮かんでいる時間的地平線があまりに薄く切り取られたもので、それが早晩にもひっくり返る類のものだから、私としてはなんとなく虚しさを感じるのだ。私としては現代の刹那性に対抗する人を希望したい。
 



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