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「かつてあった」もの (フォークナー「アブサロム、アブサロム!」より)

 フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」を読んでいたら、次のような箇所に出会った。

 「ですから、もし誰かのところに行き、それも他人の方が好都合なのですけれど、その人になにかをーー一枚の紙きれでもーー何でもいいから何かを手渡すことができれば、たとえそのもの自体は何の意味もなく、それを預かった人が読みもしなければ、しまってもおかず、わざわざ捨てたり破ったりさえしなくても、手渡すという行為があったというだけで、少なくともそれには何かの意味があるのです、と申しますのは、一つの手から別の手へ、一つの心から別の心へと渡されるだけでも、それは一つの出来事して記憶されるでしょうし、それは少なくとも一つのひっかき傷に、何がしかのものに、それがいつかは死ぬことができるという理由から、『かつてあった』という印をどこかに刻みつけるかもしれない、何がしかのものになるでしょう(略)」

 (フォークナー「アブサロム、アブサロム!」藤平訳 『』内は太文字)

 ここでフォークナーが語っているのは、自らの文学そのものについてだろう。彼は、過去をいかに取り扱うかという事について、作中でこのように語っている。

 フォークナーが強調しているのは「かつてあった」という事だ。「かつてあった」という事、それを証明する為には、それがなんであったかを示す証拠を誰か、「他人」に渡さなければならない。「かつてあった」という過去の事実を未来に繋ぐ為には、存在しなくなったもの、消えてしまったもの、死んでしまったものが残した何かを誰かに渡さなければならない。それこそがフォークナーがイメージしていた事だった。

 ここで言われているのはフォークナーの文学観そのものだと私は思う。フォークナーは文学というものをそんな風に考えていた…。というのは、アメリカの南部は今や死にかけており、彼自身が憎愛するその対象は何らかの形で残されなければならなかったからだ。

 あるものが死に、それが他者に、何らかの形で伝えられる為には、何よりそれが死んでいなければならない。死ぬという事、それは存在が消滅するという事であるが、そこから発する寂寥や悲しみの感情が残る限りにおいて、それは最初からなかった事には決してならない。おそらくは、人類が消滅した後も、何がしかの涙が残るであろう。

 死ぬという事は、それが生きていたという事だ。死んだからこそ、人はその存在を懐かしむ事ができる。悲しむ事ができる。しかし、かつて存在し、今も存在し、そうして未来も永劫に存在し続けるものは、最初から存在しないものと同じく、我々はその輪郭を辿る事ができない。我々はその死を発見し、その存在の消滅に涙を流す事はできない。要するに、文学は生まれないのだ。

 フォークナーがこの「涙」に自分の生涯を充てていた事は明白だろう。失われていくものは、失われていく事によって始まるものがあって、そのはじまりを、フォークナーは自らの文学によって実践したのだった。私にはそんな風に思われる。

 ※
 先日、私はテレビを見ていた。「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」という旅番組をやっていた。芸人の出川が、電動バイクに乗って、各地で「充電」をしながら色々な場所を旅するという番組だ。

 私の記憶では、番組には芸人の上島竜兵もよく出ていた。上島竜兵という芸人は、先日、亡くなった。死因は自殺だったようだ。

 私がその番組を見ていて奇異に感じたのは、上島竜兵が何度も番組に出ていたにも関わらず、しかも上島は自殺したにも関わらず、相変わらず、出川がいつもの感じで番組に出ていて、いつもの感じで番組が流されていた事だった。

 出川哲朗といえば「ポンコツ芸人」の代表格で、出川が画面に出ると、必ず出川を茶化すような演出が入る。上島竜兵も扱いとしては同じような枠組みで、要するに「ポンコツ芸人」同士、番組的には使いやすかったので、上島は度々ゲストで出ていたのだろう。

 番組はそんな風な構成になっていて、出川哲朗の行動を絶えず茶化したり、小馬鹿にしたりする態度で進む。これは日本のテレビバラエティではおなじみの態度だ。視聴者はそういう演者を見て、自分よりも「下」の存在がいると確認して安堵するのだろう。

 ところで、そういう番組構成と、上島竜兵の自殺という現象は全くそりが合わない。上島竜兵はポンコツ芸人で、みんなから「いじられ」ているが、「愛され」てもいるというのが、上島が社会に割り振られた役割だったから、上島の自殺は、その役割からはみ出すものだった。「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」という軽い番組のノリと、上島の自殺は全く噛み合わない。

 私は番組を見ていて、気味悪く感じたのだった。「一緒に旅していた相方が自殺したのに、以前と全く同じノリ、同じテンションでボケた事を言い、それを茶化した演出をして、それを世間に向けて流している。これは異常な事ではないか」。

 だが、実際には…つまり、この社会においては、異常なのは、私の感慨の方なのだろう。出川がボケた感じでテレビに出て、それを茶化した番組が流れ続け、それを視聴者が軽い気持ちで、小馬鹿にしながら見る。そちらの方が、日本社会においては「正常」であり「平和」であり「ポジティブ」であるのだから、上島竜兵の自殺に着目する私の方が異常なのだろう。それがこの社会なのだろう。

 同じように感じたのは、他のテレビでもあった。トキオの番組を見ていたら、トキオの、不祥事を起こして、テレビに出なくなったメンバーの名前が番組の中で全く出てこない。番組ではみんなが和気あいあいと、楽しそうにやっているのに、つい先日まで一緒に仲良くやっていたメンバーの話は全くできない。彼はまるで最初からいなかったかのように振る舞われている。私は、こうした現象に気味悪さを感じた。それは出川哲朗が、上島竜兵が自殺した後でも、彼の「ノリ」を崩さず、まるで上島の自殺という暗い事実など最初から存在しなかったかのように振る舞っているのと同種の事柄に感じた。

 …ここまで書けば、私の言いたい事もある程度は伝わるのではないかと思う。つまり、この社会においては「死ぬ」事は許されていない。フォークナー的に言えば「かつてあった」事にはならない。「かつてあった」事は、正しい、今の事柄によって上書きされてしまう。

 上島竜兵はテレビやCMによく出ていたが、死んだ途端、パタリとその存在が消えたかのような扱われ方をしている。私が見た記事では、上島竜兵は「愛され芸人」だったそうだが、それではその「愛」は何故、彼を自殺から救わなかったのだろうか? …もちろん、そんな事に踏み込んで考えようとする人間はいない。彼らは、適当に死者を埋葬する。彼らは面倒な死に方をした人間をいい加減に片付ける。

 上島竜兵は、「ポンコツ芸人」であり、「いじられキャラ」であるにも関わらず、そのキャラクターに見合わない死に方をした。彼は暗い、悲しい死に方をした。それは彼のキャラクターに反していた。だから、キャラクターとしての人間を過大に扱うこの社会は、この死者に罰を与えているのだ。「君はキャラクターに反する事をした。だから、最初からいなかった事にしてもらうよ」と。

 この社会において、人は死ぬ事はできない。ただ消滅するだけだ。死んだ人間は、最初からいなかった事にされる。

 本屋に行くと、「80才、人生これから」というような本がよく置いてある。どうやら、この社会では、人はいつまでも元気であり、いつまでも人生は楽しく、明るい、そういう幻想は堅持されなければならないらしい。そこで元気な80才や90才が借り出されてくるが、彼らが死んだらどうするのだろうか。彼らが病に苦しむ時が来たらどうするのだろう。「人生これから」はどうなるのだろうか。多分、どうにもならない。

 おそらく、それらの老人については見て見ぬふりをして、うっちゃっておき、また「人生これから」と言っている新しい人物を連れ出してきて、本の一冊二冊を書かせるのだろう。見えない所で老人は死んでいく。我々はずっと書店の玄関口で、「人生これから」とつぶやき続ける元気な老人を目にし続ける。

 人が死ぬ事ができないという事、「かつてあった」事にならない事、それは「正しさ」というものと関係しているのだろう。正論だとか、論破だとかいうものは現在では大流行だ。だとすると、過ちのある過去、歪んだ過去についてはなかった事にするというのは当たり前だ。彼らは常に正しさを誇示しようとする。だから、過去は既に精算済みと考え、正しい「今」に固執する。

 もし「今」が間違っていたら、それは未来のある時、その「今」の地点から、最初からなかった事にされる。人が過ちを認めながら、紆余曲折を経て成長するという物語は現在では不可能になっている。それよりも最初から正解を握っている人物の方がよりいい、という事らしい。彼らの生は時間というものを欠いている。

 彼はかつて存在した事を認めず、今存在する事だけを世界に認めさせようとするが、それ故に、彼らは未来のある時から、同種の存在によってその存在を否定される。フォークナーはこんな風に書いている。

 「それに比べますと、一塊の石ころは死んだり消えたりできませんから、『かつてあった』ことにはなれません(略)」
 (『』内は太文字)

 石ころは死んだり消えたりする事はできない。それは、時間というものを自らの中に持たないからだ。それは永遠に存在しているゆえに、現象としては不在と同じになってしまう。

 現代における正しく、賢い人々は絶えず自分をメタの場所において、世界を俯瞰し、正しい事を言い、正しい行いをするのかもしれないが、彼らはそれ故に世界の内に全く存在しないし、存在し得ない。彼らは死ぬ事ができないから、生きる事も決してできない。

 出川哲朗が死んだら、まるでテレビのスイッチをひねるのと同じように、その存在が消滅してしまうに違いない。しかしそれを見ている人々だって、いや、これを書いている私だって、同じように、その存在が最初からなかった事にされるだろう。アルバイトのシフト表みたいなもので、一人抜ければ、また誰かの名前が書き込まれるだけだ。

 彼らは本質的に匿名であり、代替可能な存在であり、決して「存在」に到達できない。存在する為には死ななければならない。死ぬ為には生きなければならない。生きる為には、苦しまなければならない。だが現在、そんな場所はこの世界のどこにあるのか。この世界に絶望した人は世界の裏でこっそりと首を吊らなければならない。だが、世界はそんな風に消えた人間の事に興味を抱きはしない。

 世界は絶えず運動し続け、光輝ある「今」を維持し続ける。「今」からこぼれた者はその存在がなかった事にされる。今の人がやたら年齢を気にするのはその為だ。彼らは「今」というテーブルからこぼれ落ちる事を恐れている。そうして「今」の最高点に到達するのは無数の照明や視線を浴びたアイドルやスポーツ選手といった人達だ。彼らは光線が作り上げた怪物であり、光線が消えると、存在が消えてしまう。

 生きた存在、肉のある存在は、その悲嘆や苦しみ、悲しみが全て、現代の「光」によって暴力的に解体されるので、その後にはもはや何も残らない。我々はそんな世界を生きている。

 このような世界にあっては全ては「かつてあった」事にはならない。全ては「今あり、これからもあり続けるもの」となる。「かつてあった」ものはもはや取るに足らないし、いちいち言及する意味もない。例えば、古典は、現在の従属物としてしか理解されない。源氏物語に恋愛小説の要素を見つけてみたり、ドストエフスキーにエンターテイメント的な面白さを発見する。過去の古典は、作り上げられた「今」を補強するものとして消費されるだけだ。古典は、今隆盛のエンターテイメントに権威を与える為に利用されているに過ぎない。

 「かつてあった」ものなど存在しない。全ては、時間を消去されている。あるのは「今」だけだ。だから物語る事もできない。かつてあったもの、死んだものが存在しないので、全体像を描く事はできない。あるのはただ「今」の連続だ。だから、我々はフォークナーを読んで、過去の迷宮に迷い込んだような感覚を味わう。「どうしてこの人はこんな事を気にしているんだろう?」 現代の慧眼な読者はそう思うだろう。彼らは「今」と癒着した存在であり、失われてはじめて見えるものの意味がわからない。

 彼らはフォークナーのような作家よりも上に立っており、丘の上で世界を見つめているだけで、世界そのものに参与したりしない。世界というのは最初から奪われており、絶えず上書きされる水平な空間となってしまった。この水平な空間の中で生き、死ぬ意味というのは、現在、全くわからなくなっている。

 この意味をこの空間の内部で発見するのは不可能だろう。その仕事はこの世界に属していない人々に委ねられるだろう。あたかも人類が消滅した後に地球にやってきた宇宙人が、様々な残骸から地球人がなんであったかを、調査、記録、そして他の「誰か」に向かって、地球人とは何であったかを物語る、そういう事が我々の「時間」の外側では可能であるように。

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