レフン「ドライヴ」とカント的認識

 

(この文章を書いた後、黒崎政男のカント解説書を読み返しましたが、自分はカントを観念論的に扱いすぎていたと気づきました。もっとも、この文章はこれはこれで興味深いかと思いますので、そのままアップさせていただきます) 

 〈「ドライヴ」のネタバレあり〉


 レフンの「ドライヴ」を改めて見た。素晴らしい映画だった。

 それで、「ドライヴ」の色々な感想・レヴューを見たが、どうも自分の視聴した印象とは違う。ラッパーの宇多丸の批評も聞いたが、どうもしっくりこない。別に批判というわけではないが、自分なりの印象を書いて、もう少し、この映画の印象を大きなものに繋げたいと個人的には考えている。

 軽く紹介する。ストーリー自体は単純なものになっている。好青年であるが、平気で暴力を振るえてしまう寡黙な男が主人公。この青年が、ちょっとした偶然から隣人の人妻を好きになり、そこからトラブルに巻き込まれていく。青年は人妻を守る為に、自分と人妻を殺そうとする敵を順に殺していく。最後には、敵のボスと刺し違えて話が終わる。

 ストーリー自体は、割と普通というか、それはあくまでも枠組みとして機能すればいいというものであって、そこに監督のレフンがどういう哲学を盛り込んだか、主役のゴズリングがどういう主人公の捉え方をしたのか(ゴズリングも制作にかなり参加したらしいので)というのが重要な作品となっている。だから、ただ「ありきたりのストーリー」というだけの作品ではない。

 言いたい事を言いたいので一気に飛ばすが、この作品は認識論としては「カント的」であると思う。

 「カント的」とはどういう事か。カントは、僕の理解では、実在論を廃し、認識ー関係論に場を展開させた。純粋な客体と主体による分離というものをなくし(そういうものは不可能と証明し)、我々は自分達の認識の範疇によって世界を見ているに過ぎない事が明らかになった。つまり、ありのままの世界というのは我々にはついに掴めない事が明らかになった。絶対的な客体的世界は存在しない。我々は主体の認識に従う形での世界を捉える他はない。

 自分なりに言えば、夢が覚めてもまた夢ーー現実とは我々の認識範疇がうまく機能した夢に過ぎない。ただ、それ以上に覚める事ができない、またある種の秩序が備わっている夢であって、その夢を破った真実が何かというのはついにわからない。

 この論はあまりにも決定的なもので、未だに世の中が実在論で色々話している事が自分には疑問なのだが、その事が、この「ドライヴ」という作品にも関わっていると考えたい。

 宇多丸は、こんな事を言っていた。「レフンの世界観の中では、現実はほんの少しした事で、超現実的な空間に変わりうる」 それが演出に現れているとも指摘していた。

 宇多丸の言っている事は極めて妥当でおかしな所はない。ただ、自分としては「ドライヴ」はカント的な認識の作品だと思っている。というのは、後述するが、ラストの極めて印象的な場面があるからだ。

 これに関しては正否の問題ではないので、宇多丸に対する批判ではなく、宇多丸をもってきてコントラストを見せたいという事だがーーー自分はこう考える。

 「現実は超現実的な空間にちょっとした事で変わる」のではない。「現実」という確固たる客体自体が存在しないのだ。言い換えれば、現実は我々の主体的認識と結びついた、そもそもが「超現実的な」ものであって、それを我々が我々の利便の為に、安定した客体と見込んでいるに過ぎない。世界は確固としてあるのではない。世界は存在し、そこから離れた所に、超現実、幻想的な場所があるのではない。そもそも現実自体が幻想的であり、主体の認識とは切り離せないものだ。

 ここにカントの認識論が盛り込める要素があると自分は見る。先に言ったように、世界は客体と主体とで別れているわけではない。主体と客体は常に「関わり」として存在して、我々が実体と呼んでいるのは実はその「関わり」の事に他ならない。
 
 宇多丸が指摘していた他の点で、「カーアクションのシーンではカメラは、運転席に視点があって、外から見ていない。それによって、(要約すると)臨場感が増す」という話をしていた。これもまた正しい意見なのだが、もう少し深く見たい。

 「ドライヴ」という映画では、カメラが主人公の背後から映すパターンが多い。また、カーアクションのシーンでも、車内から外を見た視点が多い。これによって、ド派手な、つまりハリウッド的な、客体的に物凄い爆発、カーアクション、といったものより、より主人公の心理に寄り添った表現になっている。カメラは、主体的に運動していく。それは、客体は主体から眺められた物に他ならないという事、また、「わたモテ」に関して述べた話を繰り返すなら、物語芸術は、外面的な事実を描くよりも内面を深く描く方が高度であるという事だ。主人公は寡黙で、喋らないシーンが多くある。しかし、視聴者は常に、主人公を中心としたキャラクターの内面をイメージする事を要求されている。

 同じ事であるが、この作品では、主人公の「記憶」で処理される場面も多い。記憶、イメージで処理しなくても、時系列順に見せられるのだが、そういう時でもわざと「記憶」で見せたりする。特にラストの、敵ボスとの一対一の対峙の場面では、時間的にはつい今さっきの事なのに、主人公の記憶の中にある事と現実の事柄が交互に写し出される。

 この処理の仕方は用意周到で、それは一番ラストの場面に昇華するようになっている。ここは重要なポイントなので説明する。

 主人公はラスト、敵ボスのオジサンと対峙する。(色々あって)主人公が大金を持っているのだが、これを渡すように要求される。金を出せば、女(人妻)は殺さない。それは約束する、と相手方が言う。主人公は、ボスを金のある所まで連れて行く。金は駐車場の車の中に置いてあった。金を確認するや否や、ボスは主人公をナイフで刺す。それは腹に深く突き刺さるが、主人公は咄嗟にナイフで刺し返す。双方相打ちになって、敵ボスが死ぬ所ははっきりと描かれる。

 ここから先が問題だが、主人公はどう見ても致命傷なほどに腹を刺されている。主人公は運転席にぐったりと座り込んでまったくまばたきする事なく、前方を空虚に眺めている。体はピクリとも動かない。視聴者は「死んだのか?」とハラハラするシーンだ。

 このピクリとも動かないシーンが長く続く。ふと、どこからともなく、爽やかなBGMが、まるで天使の祝福のように響いてきて、主人公は目をパチクリとする。彼は車のキーをひねり、「ドライヴ」を始める。彼は運転する。運転し続ける…。女が主人公を心配している様子が三人称視点で描かれるが、主人公はもう魂を失ったような、泣いているような、なんとも言えない表情で運転する。運転し続ける。彼は「ドライヴ」をし続ける。祝福のように降ってきたBGMはまだ続いていて、そのままエンドロールが流れる…。

 ここで、視聴者は、主人公が死んだのかどうかはわからないようになっている。「シェーン」という映画の影響もあるそうだが、「シェーン」のラストは少年から見て、シェーンが死んだかどうかわからないわけだから、「ドライヴ」よりはわかりやすい。

 「ドライヴ」の場合は、明らかに致命傷を追った主人公が、それでも車の運転をしている。特徴的なのは、主人公がドライヴをしているのは「夜」であって、ボスと戦ったのは夕方くらいだろうから、ある程度時間が経った事が想像される。

 ここで、主人公は黄泉への道を辿っているとも考えられる。あるいは、他の人が言っていたように、魂だけになって女の元に帰ろうとしているとも考えられる。(個人的には女とは決定的な別れをしたので帰らないと思うが) あるいは、主人公が死ぬ前に見た幻覚なのかもしれない。意識が薄れていく過程で、自分が夜道をドライヴしている幻想を見たのかもしれない。

 いずれの解釈でも良いわけだが、大切なのは、あのイメージは、主人公が見た世界として描かれた作品としては、「真実」だという事にある。そもそものスタートから「ドライヴ」という作品は、基本的に主人公の内面に寄り添うように作られていた。途中、エレベーターで、敵を滅茶苦茶に踏みつけて殺し、それによって女との間に決定的な溝ができたシーンがあるが、そこで、エレベーター内にいる男と、そこから逃げた女の立ち位置が、そのまま二人の心理的な距離として現れていた。あそこで、エレベーター内という空間と、外の駐車場という空間の差異はそのまま二人の心理の距離として現れて、どちらかと言えば、主人公の内面に沿うように描かれていた。

 さっき言ったように、この作品は主人公の記憶として処理する部分が多い。そういう事も、視聴者を主人公の内面に入り込ませる誘引となっていく。また、BGMをも含めて、次第に主人公は狂気とも妄想ともつかない世界に入っていく。その一番ラストが、死んでいるのか生きているのかわからない主人公がドライヴするシーンになる。だから、これはかなり用意周到に準備された場面と言えると思う。あそこで、あのイメージは、客体と主体を越えたあるイメージであり、次第に、現実をイメージが凌駕していき、最後はイメージだけが残る。だが再三言ったように、カント的世界では、イメージを破った外側に確固たる現実があるとは言えない。言うなれば、この世界は相対的である。それぞれが見た夢の一致点を現実と呼んでいるに過ぎない。

 あのラストのイメージは、最初から主人公の内面に寄り添っていたカメラワーク、その視点という立場から「真実」だ。だから、あのイメージを突き破ってさらなる現実があって、そこに解釈を積み重ねられるというものではない。そうではなくて、我々の解釈だって我々の見た夢に過ぎない。

 だから、「ドライヴ」という作品の哲学を自分なりに突き詰めると、「この世界とは主体が見た夢」という風になると思っている。それはこちらが誇張した言い方であるとはわかっているが、そこまで言えるものをこの作品ははらんでいると思う。

 「ドライヴ」のラストで主人公は致命傷なのに、ドライヴし続ける。それが現実か幻想なのか、彼は魂になったのか肉体はまだ生きているのか。それが「わからない」事がこの世の(主体にとっての)真実であって、それがそのまま答えなのだと思う。「ドライヴ」という作品は、ありきたりのストーリーの核を持ったままそういう所まで昇華していった。それが、自分にとっては極めて印象的な部分だった。

 あるレベルの表現者は、主体から見た視点に持ちこたえられず、客体的な視点を安易に持ち込む。それによって、たやすく客体的事実、客体的真理、客体的ドラマが現れるのだが、それを見ている我々は客体を一元的に、集団的に見る見方に馴れているから、そんな風に感じるに過ぎない。おそらく、孤独と独創性は深い部分で繋がっていて、それが「主体から見た世界」としての作品を生んでいく。みなと同じ視線で見ていれば、自分という存在の孤独さに気づく事もない。

 本質的に優れた芸術家は誰しもが「自分」から始め、そこから世界に到達していくのではないか。つまり、主体が見た夢を他者が見る夢として、感じられるようになっていく。そこに、他人の夢が自分の夢となっていく過程がある。その視聴者と作品との関係において、我々は「ドライヴ」という作品を見る事ができる。つまり、「ドライヴ」という作品にとっての客体は「我々」であるが、我々はまた同時に、我々流の夢を見ているに過ぎない。そこで、やはりあの最後のイメージはイメージのまま、夢は夢のまま、客体的な真実などではなく、強烈な『印象』として我々の中に残り続けていくのだろう。それは主人公が死の間際(もしくは死後に)見た夢であって、同時に我々が見た夢でもある。その先に答えはない。なぜなら、それ自体が答えだからだ。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?