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台風とコロッケ

 宗一は眠っていた。彼は形のない夢を見ていた。夢の中で、彼は絶えず何かに襲われ、あとをつけられるのだが、その何かはいつもわからない。わからないまま、目覚めにたどり着いてしまう。 
 彼はそんな夢を見ていた。
 夢が破られたのは唐突だった。宗一の肩と肘をつかんで揺さぶる人物がいた。智子だった。
 智子は、宗一が起きるのを待っていたのだが、いつまでも起きてこないので不安になって、彼の体を揺さぶった。智子は孤独を感じていたのだった。
 「ねえ、起きて。起きてよ。もう二時過ぎてるよ」
 智子は宗一を揺さぶった。宗一の口から微かにうめき声が聞こえた。
 「ねえ、今日、アルバイトあるんじゃないの?」
 「うるさいなあ…大丈夫だよ…」
 宗一は目をこすりながら言った。智子が揺さぶるのをやめると、宗一は上半身を起こした。
 「大丈夫だよ。…時間は先だよ…今、何時?」
 「二時過ぎ」
 「二時過ぎ…もうそんな時間か…わかった起きるよ…」
 宗一はベッドに座り込んだ。落ち込んだ人のように、がっくりと体を落としている。智子は、宗一が元気そうにしているのをほとんど見た事がなかった。
 「ねえ、バイトって何時からだっけ?」
 智子は尋ねた。彼女は、仕事の前に一緒に行ってほしかった所があった。
 「今日は7時だよ。…ってかさ、なんでそんなにメイク、バッチリしてるの?」
 宗一が智子を見て言った。智子は微笑した。
 「美容院についてってもらいたいなと思ったから…7時までなら、大丈夫でしょ?」
 「美容院ってやだよ…女の美容院って時間、かかるじゃん?」
 「また、そういう事言う。…私が髪切っている間は、上の本屋で本読んでていいから。それでいいでしょ?」
 「まあいいけど…」
 宗一は何かに思いついたように「あ?」と小さく行った。智子が「何?」と尋ねた。
 「でも、今日さ。台風じゃん!」
 「台風?」
 「そう。台風。でかい台風がこの地域覆っているはずだよ」
 宗一は立ち上がって窓の前に立った。智子も宗一の隣に並んだ。宗一がカーテンを開けると、灰色の世界があった。昼なのに暗く、厚い雲が世界を覆っていた。雲は迅速に動いていた。風が不気味な音を発して、それが彼らの住むアパートを包んでいた。
 「ほら、台風じゃん」
 「ほんとだ」
 智子は軽く驚いていた。(台風なんて知らなかった…) 智子は隣の男の顔を見てみた。見上げると、宗一は薄く笑っていた。
 「…何笑ってんのよ?」
 「いや、台風だなと思って」
 宗一はそのままニヤニヤ笑いをやめなかった。智子は宗一の肩を軽くつついた。
 「気持ち悪い笑いやめてよ」
 「…気持ち悪くはないよ。台風、いいじゃないか。中二病心をくすぐるじゃないか。世界が終わりそうな…そんな天候じゃないか。人類はこういう景色にずっと憧れてきたんだよ。古代からずっとさ…。日食も、今ではただの科学現象だけど、昔の人間はそこに神の介在を見ていた。世界が科学に支配されて、世界は終わらないものになった。あるいは終わるにしても、ロマンティックなものはそこからは消えてしまった。物理的に終わるだけさ。それで僕は…こういう景色に、何か荒涼とした、鬱蒼とした、ぞわぞわとするある感覚を認めていたいのさ。僕は…今でも中二病だしな」
 「何言っているか、わかんない」
 「いいんだよ。女にはわかんないんだよ」
 女にはわからない、と言われて、智子はいささかムッとしたが、別に怒る事でもないと黙っていた。それに宗一の駄話は平常運転なので、まともに付き合っていたらやりきれない。
 「それより、早くご飯食べたら。お腹、減ってるでしょ?」
 「うん」
 宗一は大きな子供のように素直に言った。二人はキッチンに向かった。小さなテーブルと椅子があって、二人くらいなら腰掛けられる。

 宗一はコーヒーを飲み、冷凍のパスタを温めて食べた。智子はコーヒーだけ飲んだ。
 「それで晩まで持つの?」
 「…うん、持つけど」
 宗一はパスタにこしょうを振っていた。宗一はこしょうが好きだった。
 「でも、台風だから、バイトはなくなるかもな。…あ、智子、そういやどこか行きたいって言ってなかったっけ?」
 「美容院。でも、これじゃ駄目だね」
 「うん、やめた方がいいよ」
 宗一が言った時、テーブルの上のスマートフォンがブルブルと鳴った。宗一のスマートフォンだった。
 「誰だろう」
 宗一はスマートフォンを耳に当てた。宗一は「あ、わかりました」「うっす」「了解です」などと言っていた。彼はスマートフォンをテーブルに置いた。
 「どうしたの?」
 「バイト先。今日、休みだって。やっぱり。台風だから。…あー、台風っていいよなー」
 「ふーん、休みなんだ」
 「うん。だけど、休みなのは取引先が休みだかららしい。うちだけだったら、絶対やってるって。チーフは言ってたな。うちは台風で休めるようなとこじゃないから。今日はラッキーだったよ」
 「そうなんだ」
 「うん。ラッキーさ。台風…このまま、全てを破壊していってもいいのにな」
 宗一は遠い目をして、窓の方を見た。そこには灰色の、轟風の世界があった。
 「もし、人類の一部がさ、世界を破壊したら遺恨が残るじゃん? 核戦争になったら、どこが始めたとか、どこが悪いとか、そういう議論になっちゃう。正義と悪の対立が起こっちゃう。だけど、自然が相手だったら誰も怒れない。みんな諦めるだけさ。そうして誰もが、自分達には手の届かない何かがこの世にあった事に、再び気づくんだよ。百年や二百年の境を越えてね…。だから台風が全てを破壊していったとしても、それほど悪い事には思えないな…」
 「空想の話が好きだね。…ねえ、SF作家にでもなればいいんじゃない? 私はよく知らないけど、なれるんじゃない?」
 「いやあ、無理だよ」
 宗一はニヤッと笑った。智子にはそれがどういう種類の笑みか、わからなかった。

 「ちょっと、外出てくる」
 宗一がそう言った時、智子は耳を疑った。「え?」 彼女は尋ねた。「今、台風って言ってたじゃん?」
 「いや、こういう時こそ、外出てみたくなるんだよ。そういう事ってない?」
 智子は自分の中を覗いてみた。台風の日に外に出たくなるような自分は、どこにも存在しなかった。
 「ないよ。…ってか、どこに行くの?」
 「コンビニ。コンビニならやってるでしょ。それに、雨もまだ降ってないし、行くなら今の内だよ」
 宗一は早速、外に出る準備を始めた。智子はそんな宗一の後ろ姿を不安そうに眺めていた。
 智子からすれば、宗一は(よくわからない男)だった。付き合う前もそうだったし、付き合ってからも、そうだった。極端に優しいかと思えば、極端に冷淡になる。激昂する事はほとんどなかったが、智子にはわけのわからない事で興奮しているのを何度か見かけた事がある。
 宗一が何か、危険なものを抱えているのは確かだったが、それが一体何か、彼女には理解できなかった。もっとも、そんな宗一に、他の男にはない魅力を感じていたのも事実だった。ただ、最近では魅力を覚えるというよりは、危うさを感じる事の方が多くなってきていた。
 (もっと普通にすればいいのに… 私は「普通」でいいのに…)
 それが智子が心のなかでいつも繰り返す言葉だった。
 「ねえ、それだったら、醤油も買ってきてよ。切れてるから」
 智子は宗一の背中に声をかけた。宗一はすでに、玄関で腰掛けていた。
 「え、嫌だよ」
 「『嫌だ』じゃないよ。あとね、洗剤も切れてるから買ってきて。食器洗剤ね」
 「やだなー」
 宗一はそう言いながら立ち上がった。宗一は振り向いて智子を見た。
 「じゃあ、行ってくるね」
 「買ってきてよ」
 「あったらね。行ってきます」
 宗一が出ていこうとするのを、智子は慌てて呼び止めた。
 「ちょっと待って。傘は?」
 「いらないよ。今は風だけさ」
 宗一はそのまま出ていった。智子は出ていく姿をじっと見ていた。
 「どうして台風の日にわざわざ出るんだろう?」
 智子は呟いた。宗一の行動は智子には理解できないものだった。しかし、宗一の中に何らかの特殊な動機がある事だけは彼女も感じていた。

 宗一は風の中を歩き出した。目を細めて、前のめりに倒れるように歩いた。
 (通りに人が誰もいないな…。いい事だ…。いつもこんな風に人がいなければ、楽なのに) 宗一はいつも歩く通りを歩いていたが、台風のせいでいつもとは違う空間に思えた。昼なのに世界は暗く、風が至る所を荒らし回っている。宗一は最近できた高層マンションを見上げた。
 (あそこに人間共が隠れているんだな…。雨が降れば、小生物は葉っぱの裏や、岩陰に隠れる。それと同じ事だ。人間だって同じ…。コンクリートに囲まれ、鉄に囲まれ、永遠をこしらえたつもりか…。嵐よ、雨よ、世界を荒らし回れ…。そうだ…リア王のように、世界を呪うのも悪くないな…)
 風の中を進みながら、宗一はとりとめもなくそんな事を考えていた。彼の中には何かしら燃焼するものがあった。
 一台の車が前方から走ってきた。スピードを緩めず、宗一の隣を走り抜けていった。緑色の車だった。(車か。車を忘れていたな…。車の中なら安全だってか…。台風が来ようと、雷が落ちようと安全だっていう事か。だから車はあっちこっちを駆け回る…。たとえ、台風でも)
 宗一はコンビニに行く道のりを、冒険のようにみなしていた。そんな小さな事柄を冒険とみなすのは馬鹿らしい事には違いなかったが、彼はそんな事にも多大な意味を付与せずにはいられなかった。

 コンビニが見えてきた。四角の建物は、風に揺らぐ事もなく立っていた。中には店員がいるだろう。宗一は考えた。
 (台風の日でもアルバイトはいる。当然のように。彼らはまるで機械のように、揺らがない建築物のようにそこにいる。しかし彼らは人間だから腐敗する。腐敗性物質…)
 コンビニに入った。店員はちらと宗一を見たが、目を伏せた。店員は、棚の前で何か作業をしていた。宗一は、店の中を見る前に、雑誌コーナーの前に立った。立ち読みするつもりだった。
 宗一は雑誌を眺めていった。彼は普段、そうしたものを読まなかったが、台風のせいで、普段とは違う事をしてみたいといった気持ちだった。
 雑誌には雑多な情報が載っていた。野球選手がキャバクラ嬢の肩を噛んで訴えられ、示談に持ち込んだ事。人気グラビアアイドルの体型を保つ秘訣。裏で日本を牛耳っている(らしい)宗教団体の話から、男性を満足させる為の尻のトレーニング方法。七十代でも元気でいられる為にはある飲料を飲むのがいい事。
 様々な情報が溢れていた。普段、宗一はそれらに興味を持たない。しかし今は興味をそそられて、それらを読んでいった。そうしてそれらのものが、自分の中の欲望を喚起するように作られているのに気づいた。彼は記事をざっと読んでいった。
 読んでいる内に雨が降ってきた。雨は強くなって、大ぶりになった。宗一は雨に気づかなかった。二十分ほど、雑誌を読んで、ふと顔を上げると外はもう土砂降りだった。
 (雨か…) 宗一は雑誌を置いた。雨をじっと見つめ、すぐ止まない強い雨だと認識した。
 (どうして雨に気づかなかったんだろう…。そんなに集中していたのか?… BGMだとでも思っていたのか? 雨の音を? …ああ、傘を持っていないな…)
 通路を見ると、傘が売られているのに気づいた。傘は一本、七百円だった。(高いな…) 宗一は考えた。(それに、雨が降ったからといって、すぐ傘を買ったり、タクシーに乗ったりして問題を回避するのが僕は嫌いだ。そんな風になんでもインスタントに回避できるのが嫌だ。たまには濡れればいい。たまの台風なんだ。台風だって、みんなが屋根の下にいたらやりきれないだろうよ。あいつに、自分自身の力を発揮させてやれ…。雨に濡れそぼる人間がいる事を、神に見せてやれ…。厚い雲の向こうにいる神に…)
 宗一は、コンビニの中を見て回った。彼の目は、レジ横のホットコーナーに止まった。
 (あ、コロッケだ!) 彼はコロッケを見つけて嬉しくなった。(台風の日はコロッケだな。コロッケ!)
 『台風の日にはコロッケを食べる』という珍奇な風習が一部で流行った事があった。もう一部の人間しか覚えていない事だったが、宗一は覚えていた。
 (コロッケを買って帰ろう) 宗一はレジの前に立って、コロッケを5つ頼んだ。アルバイトの若い男は、人生の全てに疲れたといった力のない発声で「あざぁす」と言ってコロッケを宗一に渡した。「袋、入れますか?」と聞かれたので「お願いします」と宗一は言った。
 宗一は温かいコロッケを、パーカーの下にしまいこんだ。服で、コロッケを雨から守るつもりだった。
 (こんな姿を以前にドキュメンタリーで見た事があるな…。母鳥が雛を守るやつだ。どこかの、荒涼とした島だったな。僕は今、雛を守るように5つのコロッケを懐に抱いている)
 宗一は扉を開けて外に出た。眼前は、視界を覆うほどの大雨だった。
 (さあ、飛び立て、ブラックバード…コロッケを5つ抱えて、飛び立て、ブラックバード)
 宗一は歩き出した。すぐに冷たい水しぶきが彼の首筋を打った。彼は雨の中に出て行った。

 雨は冷たく、彼の体を打った。(傘を買えば良かった) 宗一は後悔したが、同時に満足している自分もいた。雨が体を打つほどに、体の火照りが感じられた。全てが冷たい渦に巻き込まれている中、彼は自分の生命の火を感じていた。
 (にしても、僕が守っているのはコロッケだ。かっこ悪いな…)
 彼は苦笑した。そうして歩みを続けた。

 自分のアパートが見えてきた時(あと少しだ)と彼は自分を励ました。(砂漠の中、オアシスを見つけるような…) 体は冷えてきていた。それでも、コロッケは温かった。彼は腹部の熱で、コロッケを冷やさず、濡らさず、この世の何より大切なもののように持って帰ってきたのだつた。
 階段を上り、自分の部屋の前に辿り着いた。ポケットから鍵を出すのも物憂く、彼はベルを鳴らした。間を置かず、扉が開いた。
 「何やってんのよ!」
 智子が宗一を見て言った。宗一は智子の顔をぼんやり眺めた。
 「傘持っていったらって言ったじゃない! 待ってて。今、タオル持ってくるから!」
 すぐに引っ込もうとする智子を呼び止めて、宗一は腹からナイロン袋を取り出して渡した。智子は受け取ると、走ってリビングに戻っていった。
 宗一は土間に上がり、扉を閉めた。風邪を引いたかと思ったが、体が震えるような事はなかった。体は大丈夫そうだった。土間には彼から滴り落ちる雫で水たまりができた。
 「ほら、タオル。これで体拭いて。濡れた服は、籠に入れて。脱ぐまではそこにいて。上がったらビチャビチャになっちゃう」
 智子は戻ってくると、籠を置くなりそう言った。宗一は手渡されたタオルで髪をバサバサと拭いた。
 「こうなるってわかってたじゃない」
 智子は困ったような顔で言った。子供を叱る母親のような態度だった。
 「こうなるってわかって、わざわざ行くんだから…」
 注意しても無駄だ、という風に智子は諦め顔だった。宗一は違う事を考えていた。
 (「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンは、ラストには雨を全身に受けて『嬉しい』気持ちになったんだったな。どうして『雨』だったのか…今の僕にはわかる気がする。さっきの雨、嵐の中で、自分の肉体が世界の中に消えて溶けそうな経験…その中にはある種の至福があった。他人にはわからない、智子にもわからない喜びがあった。僕は、それを感じたな)
 宗一は服とシャツを籠に入れると、下着だけになって、風呂場に向かった。宗一は風呂場に入って、熱いシャワーを浴びた。目を瞑り、全身に熱い湯を受けていた。まるで嵐が部屋の中まで続いているかのように、さっきの冷たい雨を反芻するかのように、彼は目を瞑り、全身を強い湯の飛沫に浸らせていた。彼は、自分の体の中にさっきの感覚が残っているかどうか、自分に問うていた。

 シャワーを終えると、洗濯機の上に着替えが綺麗に畳まれて置いてあった。宗一はそれらを身に着けて(こうして、僕らは快適な生活を送れるんだな…)と考えた。だが彼は内心ではその快適さを喜んでいた。
 髪を拭きながらリビングに出ると、智子が振り返った。智子は口をもぐもぐ言わせていた。
 「あ、これ、もらってるよ」
 皿の上には食べかけのコロッケがあった。(もう食べたのか)と宗一は思った。
 「なんでコロッケなんて買ってきたの? …でも、美味しいね」
 智子は、嬉しそうだった。宗一は冷蔵庫からお茶を取り出した。テーブルの上に飲み物がないのを確認すると、自分と智子の分、グラス二つにお茶を注いでテーブルに置いた。
 「なんだよ、もう食べたのか。食いしん坊だね」
 「だって、美味しかったんだもん。もう一個もらうよ。これ、二個目」
 智子はいたずらっぽく笑い、コロッケをもう一つ、食べ始めた。智子は、塩コショウをかけて食べていた。
 「でさ、洗剤と醤油は?」
 智子が食べながら言った。宗一は、テレビを点けていた。テレビは台風について報道していた。
 「あ、忘れた」
 「忘れた? なんで?」
 「もっと大切な事を思い出したから」
 「何?」
 「コロッケを買う事」
 「意味わかんない」
 智子はコロッケを食べ終わった。宗一は横目で見て、自分も食べたくなった。
 「ねえ、何で、コロッケなんて買ってきたのよ? 必要なものは全部忘れたくせに? 何か意味でもあるの?」
 「意味? 意味なんて全てのものにあるんだよ。葉裏で嵐が過ぎ去るのを待っている一匹の蟻にもね。全ての事柄に意味があるさ。…それより、台風の日はコロッケっていう風習、知らない?」
 「…知らない。始めて聞いた」
 智子は宗一よりも年下だった。世代間の差のせいで智子は知らないのかもしれなかった。
 「あのね、台風の日にコロッケっていうのは、一部で根強く残っている風習なんだよ。地元の人はとても大切にしているんだ。元々は九州地方のものでね。江戸時代だよ。コロッケ自体は、ポルトガルから渡ってきたものなんだ。台風の日に、コロッケを揚げたがるポルトガル人がいて、長崎の奉行所の役人が質問した。『どうして貴公らは、こんな日にそんなものを食べたがる?』 ポルトガル人はこう答えた。『俺達の国じゃ、こんな天候の日にはこれを食べる事にしてるのさ。魔除けの意味があるんだ。昔の王様が、嵐の日にコロッケを食べていたら嵐が速やかに去ったという言い伝えがある』 それを聞いた役人が、横から一口、コロッケを食べたら存外に美味かった。それから、その風習が長崎地方に広まったんだ」
 「でも宗一は九州出身じゃないじゃない?」
 「…そうさ。だからこの話には続きがあってね。この風習は、参勤交代で江戸に広まったんだよ。丁度、その頃台風でも来てたのかな? そこから日本全国に飛び飛びに広まった。知られていないけど、意外に歴史のある風習なのさ」
 「ふうん、始めて聞いた」
 「そりゃそうさ」
 宗一は言って(こいつ…やっぱり、僕の冗談に気づかないな)と考えた。全ては宗一のほら話だったが、今更、嘘を撤回するのも面倒だった。
 「そんなに買いたかったんだ? コロッケ?」
 智子は宗一を見て聞いた。(相変わらず変な奴だな)と智子は思っていた。
 「まあね」
 「あんなにずぶ濡れになっても?」
 「…まあね。ずぶ濡れになったのは、結果論だけどさ。…でも、この世界には逆らえるものがないじゃないか? 抵抗のあるものがどこにもないじゃないか? だから、せめてコロッケを買うくらいはいいだろう? 雨に濡れて、コロッケを買うくらいはいいだろう? …僕は意味のない事をしてみたいんだ」
 「意味のない事をしたいなら、永遠に海岸で石を積んでいればいいんじゃない?」
 智子は意地悪く言ってみた。そうしたロジックのやり取りは、智子は苦手だったが、宗一を真似て反撃してみたのだった。
 「…その内、やるさ」
 宗一の顔を見ると、冷たく厳しい表情が浮かんでいた。(この人、ほんとに、やるつもりなんじゃないか?) 智子の心に冷たいものが走った。宗一はそんな智子の心を知ってか知らずか、テレビの台風情報をじっと見つめていた。

 宗一はコロッケを食べた。レンジで温めて食べた。三つは食べれなかったので、二つ食べて、残りの一つを智子と分け合った。「こんな食べたら、私、太っちゃうよ」 智子は言ったが、嫌がる風でもなかった。二人は仲睦まじくコロッケを分け合って食べた。

 夜になっても、風と雨は止まなかった。二人はベッドで横になっていた。
 「明日の朝には晴れてるかな?」
 智子が隣の宗一に聞いた。宗一は目を瞑っていた。
 「晴れてるさ。天気予報が言ってたよ。…残念だけど」
 「どうして残念なの?」
 宗一はそれに答えず、智子の方を向いて、彼女の肩にキスをした。
 「何?」
 「…もし、この世に『死』があれば、私は死ぬ事ができるだろう。だが、『死』がなければ、生きる事もできない」
 「急に、何? 詩?」
 「14世紀のオランダの詩人さ。エリスンって言うんだ。当時はキリスト教全盛だったからね、無神論者だったエリスンは、自分が世界の秩序から外れているのを感じていた。彼は知っていたのさ。死がなければ、生きる事もできないって…」
 「それが、どうしたの?」
 「…いや、なんでもない」
 宗一は胎児のような格好になっていた。智子の腕に彼はしがみついていた。彼は、今自分が言ったのがほらだと知っていたが、訂正する気はなかった。
 「ずっと台風のままでもいいよ」
 宗一は、何かに怯えるような声で言った。
 「このままずっと台風のままでいい。そうしたら少しは…」
 「何言ってるのよ? 明日には晴れるんでしょ? 天気予報が言ったって言ってたじゃない?」
 「…そうだね。天気予報が外れる事はないもんな。怖いな。外れる事がないんだもんな」
 宗一は胎児のような格好のままだった。智子はあやすように宗一の頭を撫でた。
 「何を怖がってるのよ?」
 「…いや、何も」
 アパートの外には相変わらず、風が唸り続けていた。雨が建物を叩き、まるでこの世には二人しか残されていないかのようだった。雨と風はやがては過ぎ去るだろう。宗一にはそれがわかっていたが、今の世界が、どこかのブラックホールのような、時のエアポケットに落ち込んだような気がしていた。宗一は目を瞑って、世界の孤独から逃れようとした。智子はそんな宗一を、母親のような優しい眼差しで眺めていた。智子の中には恐怖はなく、ただ台風は一過性の、台風に過ぎなかった。
 



 ※本作品はわたモテ(「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」)の台風回(喪183)が良かったので、自分も書いてみたいと思って書きました。彼女の名前が「智子」なのはその為です。

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