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他人の運命に自己を託す (石母田正・小林秀雄・太宰治・丸山眞男)

 石母田正の「平家物語」を読んでいる。まだはじめのくだりを読んだところだが、それだけでも(名著だな)と感じた。(以下「平家物語」とは、石母田正の「平家物語」を指す)
 
 石母田は最初に平知盛を取り上げる。石母田が知盛を取り上げる根拠は、学問的にはほとんど示されない。石母田はそんな事を放っておいて、なぜ平知盛が作中で重要なのかを論じていく。その論じ方は歴史家のそれではなく、批評家の取り上げ方だ。アマゾンレビューでそう書いていた人もいたが、確かに小林秀雄を思わせる所がある。
 
 アマゾンレビューには他にもこう書いてあった。
 
 「他のレビュアーにもあるように、平家滅亡と大日本帝国の滅亡を重ね合わせたのは明白である。国民的規模で戦争体験を記録することの大切さを、専門外の著者はもどかしくも痛感していたのではないか。」
 
 私も「平家物語」を読みながら、(これは太平洋戦争における自分達の運命と、平家の衰亡を重ね合わせているのではないか)と思った。それ故、レビューを見て(やはり、そうか)と思った。
 
 「平家物語」はのっけから、切迫した調子で、破滅していく者共の心に入り込んでいく。その様は何かに急かれているかのようにも見える。「平家物語」という研究書が文学であるのは、そうした調子が全体にみなぎっているからだろう。
 
 私が思い起こしたのは、戦争中に、自分達の破滅を、他者に託した文学者・学者達だ。具体的には三人の名前が思い浮かんだ。
 
 一人は小林秀雄だ。小林秀雄の「実朝」においては、崩壊していく鎌倉幕府の頂点にあって、破滅の運命を享受さぜるを得なかった源実朝にという人物に、自己の運命を託している。小林の「モーツァルト」も「実朝」とほぼ同じで、「モーツァルト」の中の有名な言葉、「疾走する悲しみ」とは、小林自身の悲しみに他ならない。こうした批評が文学になるのは、その背後に無言の魂の交流がある為だ。
 
 不思議な暗合であるが、太宰治も源実朝を取り扱っている。太宰もまた、太平洋戦争下における自分達の、日本民族の破滅の運命を源実朝という一個人に見ようとしていた。ただ、太宰の取り上げ方は小林とはずいぶん違っている。実朝は、破滅を知りながら泰然自若と、子供のように澄まして座している存在として描かれている。
 
 もう一人は丸山眞男だ。丸山の「日本政治思想史研究」がそれにあたっている。丸山の場合は、太宰・小林・石母田とは、タイプの違う共感を行っている。丸山は戦争中の閉塞した世界、空気にうんざりとしていた。その閉塞した世界が、江戸時代の閉塞した世界と同型であると考えた。
 
 そうした世界を壊すものとしての明治維新がやってくる様を、彼は期待の筆致で描いた。丸山は破滅の運命を自覚したのではなく、彼がいる閉塞した世界にもやがて終わりが来るだろうという希望を、歴史的な事実をたどりながら、客観的な「研究」の中に封入した。
 
 以上、あげた四つの書物はいずれも名著である。ーー「平家物語(石母田正)」「実朝(小林秀雄)」「源実朝(太宰治)」「日本政治思想史研究(丸山眞男)」。
 
 四つの作品は何故、名著になったのだろうか。というより、それはなぜ「文学」になったのだろうか。その答えは彼らが、過去と現代との対話を通じて、その背後に共通する「魂」を見出した事にある。
 
 この事は、丸山眞男の作品に特にはっきりとしている。丸山は、戦後には直接的な書物を書いている。戦時中は、自分の意見をはっきり表明できなかったので、丸山は自分の思想を江戸時代研究という、戦争とは直接関係ない学問的事柄に忍ばせるしかなかった。戦争が終われば、そうした禁は解かれるので、自由に著述を行うようになった。
 
 しかし私は、自分の言いたい事が言えない為に、自分ではない「他」に、自己の運命を託したという、そういう象徴性、間接性こそが、「日本政治思想史研究」をより芸術的に価値あるものにしたのだと思う。
 
 なぜならそこでは、象徴という形で、丸山眞男の中にあった魂が、普遍的なものとなって昇華されているからだ。
 
 これは小説家が行う技巧とも似たものだと言えるだろう。作者Aが、ある意見A'を述べたとしても、それは作者の実際の身辺にまつわるものでしかない。作者の具体性、彼を取り巻く環境の中に彼の意見は限定されてしまう。
 
 しかし、作者Aが、それとは違うBというものを通じて、自分の思想を開示すると、AとBという違うものの間にねじれた構造が生まれる。このねじれの中には実は、同一の魂・思想があるという事が暗示される。それゆえに、作品は「背後」を持った複雑な表現となる。
 
 そのように表現されたものは、直接表現されるよりも、より普遍性が高い象徴となるはずだ。私はそのような形式の方が、より文学的であり、芸術として価値が高いという風に感じる。
 
 この事は芸術が間接表現であるという事と相まって、重要な事でもある。丸山眞男の著書と共に、小林、太宰、石母田の作品もみなそのような構造が起こっている。
 
 破滅していく世界にあって、孤立する自己、その自己が違う時代の誰かと通じている、そのねじれた構造の中に、両者を繋ぐ魂の姿が透けて見える。このような構造がある為に、客観的に見れば学問的著作である「平家物語」や「日本政治思想史研究」といった著作もまた、立派な文学作品だと言い切れる事ができるのだと思う。
 

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