好きな作品を語る① 太宰治「鉄面皮」

 退屈しのぎに私の好きな作品について語ってみます。第一回は「鉄面皮」。何回まで続くかはわかりません。

 「鉄面皮」という作品は知らない人も多いと思うが、「右大臣実朝」のはじめにちょこっと、ついている。私は「右大臣実朝」よりも、このごく短い「鉄面皮」という作品が好きだ。

 作品と言っても、「右大臣実朝」という小説の紹介と、太宰らしいエッセイみたいなもので、確固たる内容があるわけではない。ただ私はこの作品が好きだ。この作品を読み返すと、かつての私ーー二十代前半の私ーーが、何を考えて、この作品に共感していたのかが蘇ってくる。

 あの頃の私は、私の目の先で生きている。私が、私の記憶を蘇らせるという事は、かつての私の幻像が再び、今の私という一人の「他者」の中で力強く生き返るという事だ。無論、これは私の勝手な遊戯であるから、他人にはほとんど何の意味もない。

 「鉄面皮」では、太宰らしい、惰弱な太宰治という人の内面が曝け出されている。例えば、太宰が兄に叱られる場面。太宰は「いつかは自分も兄さんを納得させられるような作品を書きたい」というが、兄に「お前なんかは死ぬまで駄目に決まってる」と罵られて、凹んでしまう。

 太宰はそこから、過去の英雄豪傑というものは、自分などとは質の違った大天才に違いない、と空想を膨らませていく。それが「右大臣実朝」という小説に繋がっていく。実朝も歴史的人物だからだ。

 太宰が何よりも、自分のへどもどした自意識にこだわっていたというのは、太宰を読んだ読者にはよくわかるだろう。太宰ファンはそこで太宰の事が「よくわかった」と思う。読者である自分も、凹んだり、悲しい思いをした事がある。文豪太宰はその気持をよく表してくれている。これが太宰か、よし、よくわかった。

 だが「よくわかった」とは果たしてどういう事だろうか。太宰治その人もまた、彼が夢想した信長や家康と共に、もはや歴史的人物ではないのか。それなりに難解な人物ではないのか。

 私が好きなのは、その後に来る、戦争中のエピソードだ。太宰は「在郷軍人の分会査閲」というものに参加する。五百人もいたというから、それなりの規模のものだったのだろう。

 太宰はその会の最後で褒められる。

 「今日の査閲に、召集がなかったのに、みずからすすんで参加いたした感心の者があったという事を諸君にお知らせしたい。まことに美談というべきものである。」
 
 と会のリーダーから言われる。「感心の者」とは太宰の事である。太宰はみんなの前で褒められる。しかし、そこでの太宰の反応は次のように『脚色』されている。

 「まことに奇特な人もあるものだ、その人は、いったい、どんな環境の人だろう、などと考えているうちに、名前が私の名だ。「はあい。」のどに痰がからまっていたので、奇怪にしわがれた返辞であった。五百人はおろか、十人に聞こえたかどうか、とにかく意気のあがらぬ返事であった。」

 断言してもいいが、ここでの太宰の姿は誇張されている。実際には、人々は太宰を「感心な者」として眺めたはずだ。声が小さかった事などそんなに気にならないだろう。多くの人は太宰のように繊細な感性で生きてはいないので、自主的に参加した太宰某とかいう人物を好意的な目で眺めたはずだ。

 しかし太宰はそんな風に自分を描かない。太宰は自分を「恥ずかしい」と感じており、またそのように感じている自分を大切にしようとする。何故、太宰とかいう男はそんなくだらないものを大切にしようとするのだろうか?

 その後にこんな文章が続く。

 「私は、みんなを、あざむいているような気がして、あさましくてたまらなかった。査閲からの帰り路も、誰にも顔を合せられないような肩身のせまい心地で、表の路を避け、裏の田圃路たんぼみちを顔を伏せて急いで歩いた。その夜、配給の五合のお酒をみんな飲んでみたが、ひどく気分が重かった。
「今夜は、ひどく黙り込んでいらっしゃるのね。」
「勉強するよ、僕は。」落下傘で降下して、草原にすとんと着く、しいんとしている。自分ひとり。さすがの勇士たちもこの時は淋しいそうだ。」

 私はこの文章が好きだ。

 どうして太宰はみんなを「あざむいているような気」がしたのだろうか? どうして「勉強するよ、僕は」と思ったのか。

 私はあえてその意味を明らかにしたくない。ただ、私も、夜の底で、「勉強しよう」と思う時がある。それは華やかな広い世界に向かっていく感覚ではなく、世界に背を向ける感覚だ。だからこそ、落下傘で落ちた兵士の気持ちが比喩として出てくるのだろう。しん、としたある静かな感じである。

 太宰は公的な、明るい世界に疑問を感じていた。彼は、世界から逃避し、自分の孤独の中に空間を作ろうとしたが、最後には自壊してしまった。今もこの意味はそれほどはっきりしているわけではない。我々が生きている世界も明るく、人々は、笑い合う、平和な世の中を良いものとしている。

 そこに背を向けなければならないのは何故なのか。背を向ける事に、どこか透明な倫理性があるのは何故なのか。太宰が「勉強」しなければならないのは何故なのか。多くの事は未だ答えが出ていない。ただそれらの答えを解く方法は自分自身がそれをやる事だろう。

 世界の底、誰もいない、しんとした夜の底でひとり勉強する事だ。世界に背を向け、自分の中に入っていく事だ。そういう行為だけが、太宰が何故ああいう文章を書いたかを感覚的に理解する事に繋がっていくだろう。

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