アーティストとはどんな人か

 先日、大竹伸朗展に行って、自分なりに「アート」というものがどういうものがわかった。わかったような気がした。
 
 何年も前の話だが、アーティストの友人と一緒に焼肉屋に行った事がある。もう一人いて、三人で話したのだが、話をしている間、友人はずっと手元のおしぼりをいじっていた。
 
 手を動かさなければいられない彼の性分が見えた気がして、私は(この人はやっぱりアーティストなんだな)と思った。
 
 私自身で言えば、飲食店の箸袋を折り畳んだりする事がよくある。また、私はダンボールを使って小さな本棚を作ったりする。
 
 いずれも出来はひどいが、私は好んでそういう事をする。人は私を見て「ちゃんとした本棚買いなよ」と言う。しかし、私は子供の頃から変わらず、くだらない物を作って部屋で使ったりする。
 
 自分で言うのは小っ恥ずかしいかもしれないが、私は自分を「アーティストだ」と思う。ダンボールでくだらないものを作ったりする、つまり、手を動かして世界に干渉せずにはいられないという、私の中の根源的姿勢が「アーティスト」だと思った。
 
 私は世間の人間が持つイメージというものを信用していない。アーティスト的な人は、小綺麗な空間に、高そうなインテリアを飾ったりする。私が嫌いなのは、ガランとした空間に、でかいテレビが置いてあって、金で買える高そうなソファやベッドなどがある部屋だ。趣味の悪い絵が飾ってあったり、飾り物としての本がいやに綺麗に棚に並んでいる。
 
 人はそういう空間を「おしゃれ」と思うのかもしれないが、私はそういうものには興味がない。
 
 大竹伸朗は、他人から見たらくだらないガラクタに目をつけて、色々と持って帰る。彼のアトリエは雑多である。大竹伸朗の動画を見ていて、(そう言えばピカソもガラクタを貯める癖があったな)と思い出した。
 
 哲学者のマルクスの部屋は、本や書類がうず高く積もっていて、とても歩けるような所ではなかったらしい。私はその説明を読んで(やっぱり、そうか)と思った。
 
 アーティストにとって、部屋は、作品を創り出す工場であって、小綺麗に飾り付ける所ではない。部屋は様々な物に溢れており、そこに「手」が介在する事によって「物」、すなわち作品が生まれてくる。
 
 人は笑うかもしれない。「お前がダンボールで作ったくだらないものと一流のアーティストが作った作品は全然違うんだよ」と。もちろん、質は全く違う。しかし、私が今ここで、言いたいのは世界に対する根源的な態度の問題だ。
 
 ブランド品で満足する人間はどんな意味でもアーティストではない。金を出せば買える高いもので満足する人はアーティストではない。アーティストは、自分で作ったくだらないものを、人々が推奨する新製品よりも高い価値があると信じられる人間の事だ。
 
 そういう意味で、アーティストと、そうでない人は世界に対する態度が違う。アーティストというのは、かっこいいものではない。アーティストっぽさを演出したがる人は、アーティストでも何でもない。ただ、どのみち、アートがわかる人間などは世界でも絶対的に少数だから、「アーティストっぽさ」で馬鹿を相手に商売した方が儲かるし、色々と利益があるのだろう。しかし彼らはアーティストではない。
 
 アーティストというのは言ってみれば、馬鹿みたいな連中だ。誰もが気にもとめないガラクタに目をつけて、意味と価値を見出すような人々だ。人は最初、笑う。鼻で笑う。「何を馬鹿な事をやっているんだ。ちょっとはまともにやれよ」。しかし、百年後、笑っていた人は、そのアーティストがガラクタを盛り付けて作った作品を百億円で買ったり売ったりする。「天才だ!」と褒めたりする。しかし、人々の目にアーティストの姿が映る事はないし、作品の実質も決して見えてこない。
 
 アーティストとはそんな存在だ。自分の手製のくだらなさに意味を見いだせなければ、承認欲求と共に、大多数の盲目の人々を扇動するしかない。今ではアイドルも「アーティスト」らしいが、これだけアーティストが溢れかえっていれば、本物のアーティストは用済みという事になるだろう。しかし、人々が自分達の認識が、大多数に共有されていた社会的幻想に過ぎなかったと気づいた時には、くだらない手製の様々なものが本物として後に残るだろう。アーティストは自分の手の動きから全てを始める。
 
 「お前の作るものはくだらない」と慧眼の人々は言い続けるだろうが、彼らは何も作らない。自分では何も作らない。作ると、笑われるからだ。人は詩人を笑い続けるだろうが、それは彼らに詩が欠けているからだ。
 
 彼らは世界に承認されたというマークの付いたブランド品、アイフォンのような商品だけを買い物かごに詰め込む。彼らは永遠に自分自身に到達しない。というのは、「自分自身」とは、世界の、権威の巨大さに比べれば、遥かに卑小で、弱々しいものに過ぎず、彼らはそれを手に取って笑われるのを恐れるからだ。しかし、アーティストはこの弱々しさの中にこそ、自分の可能性を見出さなければならない。
 
 

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