「文学の本質」をギルガメシュ叙事詩で考える

 かなり前にギルガメシュ叙事詩を読みました。

 読んで、私の文学観に確信が生まれました。(やっぱりそうか)と思いました。ギルガメシュ叙事詩は、三千年以上前に作られたもので、世界最古の文学作品ですので、文学の本質を考えるには好都合な素材です。

 ギルガメシュ叙事詩はどういう話でしょうか。ギルガメシュという半神半人のキャラクターがいます。半神半人というのがキーポイントですが、これは後で触れます。ギルガメシュは、エンキドゥというキャラクターと仲間になります。最初は反目していたのですが、闘いの末に仲良くなりました。ジャンプ漫画で、ライバルと闘った後に親友になる描写をイメージしてもらえればいいと思います。

 ギルガメシュはエンキドゥと協力して、森の怪物フンババを倒します。その後、エンキドゥが、病気にかかって死んでしまいます。エンキドゥが死んだのは、ギルガメシュが女神イシュタルの求婚を断ったのが遠因です。

 ギルガメシュは親友を失った事を嘆き、それをきっかけとして「死」というものが存在していると知ります。自分も死の運命から逃れられないと悟り、永遠の生命を手に入れる為に、旅立ちます。

 ギルガメシュは様々な場所を旅して、永遠の生命を得ようとしますが、遂に得る事はできません。ギルガメシュが自分の故郷に辿り着いた所で、そのまま物語は終わります。

 ※
 この物語には社会学的・歴史的に興味深い所が沢山ありますが、それに関しては全て省きます。なにせ最古の文学作品なので、色々な要素が投げ入れられています。神話と文学の折衷的な部分が多くあるのですが、神話的な部分は外して考えます(神話と文学の違いについては言及します)。

 ギルガメシュ叙事詩を、一般の我々はどう解釈すればいいでしょうか? 村上春樹ならば純粋に形式的に、物語的な部分だけを評価するでしょう。物語として良くできている、面白い、と。作者の事を、最古のストーリテラーとでも理解するでしょう。しかしそのような理解は間違っています。それは、現代のエンタメ的な物語消費を、過去に強引に当てはめる方法に過ぎません。

 幸いにもこの本(ちくま学芸文庫版)には、優れた解説が載っています。その一文を引用しましょう。

 「この『叙事詩』全体を貫くテーマは、言うまでもなく不死の追求、そして人間は死なねばならぬという認識であり、それは人間の精神史において、神話時代からの脱却、理性の目覚めを告げる意味をもつものである。」

 短い一文でギルガメシュ叙事詩の本質を突いています。非常に優れた解説であると思います。

 私自身の解釈も、解説者と同じラインのものです。ではそれについて書いていこうと思います。

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 まず、神話と文学の違いについて考えてみましょう。私は神話は詳しくないですが、文学についてはある程度わかっているので、文学の側から考えていくつもりです。それと古代の話に関しては、専門家も素人も含めて結局は推測でものを言うしかないので、私も推測で書いているのを先にことわっておきます。

 神話が基礎であった時代というのは、個人としての人間という意識がなかった時代です。神話というのは様々な事が象徴的に語られています。ただ、その当時には個人という意識がなかったので、作り手も受け手も「象徴」のような概念は持っていませんでした。それらは今の私達から見れば比喩だったり、象徴だったりしますが、当時の人達からすればリアルな世界説明だったはずです。現代の我々から見れば神話は、フィクションとしての創作物に見えますが、科学や宗教、歴史のような世界説明を持たない彼らにおいては、神話はそのまま世界を表す物語だったのでしょう。

 神話の登場人物は、神と人間が融合したような存在です。神と人間が明確に分離する以前のかっこつきの「神」とでも言えばいいでしょうか。そういう段階です。神話が分離して、「歴史」や「文学」というジャンルに変化していきます。

 神話から文学・歴史へと移行していく経緯は矢島文夫の言うように、理性の発展によって現れました。理性的な物の見方が、霞がかかったような神話形態を、よりはっきりしたリアリズム的なものに変更していったのです。
 
 個人としての人間という自覚、という観点から見れば「死の意識」というものが非常に大切です。古代人は、死というものをはっきりとは捉えていませんでした。

 日本において、埴輪ができた経緯はそのようなものです。古代日本では、貴人が死ぬと、埋葬の際に、まわりの奴隷を一緒に生き埋めにしていました。これは、貴人があの世で身の回りの世話に困らないように、との配慮でした。しかし、生き埋めにしているので、埋められた人々のうめき声やすすり泣きが聞こえて、あまりにひどいというので、代わりに埴輪を埋葬する事になったのです。

 このエピソードでわかるのは、古代の人間には「死」の意識は希薄だったという事です。この世とあの世、生と死は連続していました。だから、ギルガメシュがエンキドゥの死を見て、自らの死を自覚するというのは、非常にリアリティのある話です。

 死の自覚が、個としての人間の自覚を生みます。万葉集に、大来皇女 (おおくのひめみこ)の次のような歌があります。

  うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我が見む

 この歌の意は、「現世に生きる私は、明日よりあの二上山を弟だと思って眺めよう」というものです。二上山は、大来皇女の弟が埋葬された場所です。
 
 大来皇女は、弟を失った悲しみを痛切に歌っています。この悲しみはこの世とあの世が通底していると信じている人間は存在しない感情です。大来皇女がもし来世を信じていたら、彼女は現世に取り残された「我」をこれほど強烈に意識しなかったでしょう。

 大来皇女は、悲しみを真正面から受け止めます。ここに彼女の精神の強靭さがあります。弟があの世で楽しくやっているのではなく、あくまでも彼女は現世にいて、悲しみの中に留まろうとします。それによって彼女がどこにいるのか、つまり、彼女がいるのが「現世(うつそみ)」であるのが明確に自覚されていきます。

 大来皇女は現世に留まっています。彼女は悲しみ嘆いている自分自身を発見します。人は神ではなく、死ねば死にきりだという事。残された者は嘆く他ないのだという事。その痛切な意識こそが、二上山を発見している「我」の自覚に至ります。あの世とこの世は連続しておらず、現世に留まり悲しむしかない「我」がいる。ここで始めて、個としての人間が見えてきます。

 人は神ではありません。人は不老不死にはなれません。現代の人間は唯物論者ですから「そんな事はわかっている」と言うかもしれません。しかし多くの人は悲しみに耐えられるでしょうか? 自分の悲しみを強い精神の力で見つめられるでしょうか? 二上山を眺める大来皇女のように。あるいはエンキドゥの死を悲しむギルガメシュのように。ここに神話から脱却して、リアリズムとしての文学が生まれる機縁があります。リアリズムの本質とは、人間には死があるという事です。その認識です。

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 ギルガメシュは、相棒のエンキドゥを失って、死を自覚します。ギルガメシュは半神半人ですが、彼自らが不老不死ではないと悟って旅立つ部分は紛れもなく、死を自覚する生物=人間的なものです。ギルガメシュが半神半人だというのは、ギルガメシュ叙事詩が、神話から文学へと移行する段階を象徴的に表しているとも言えるでしょう。

 ギルガメシュは、自らもいずれ死ぬ存在だと知ります。彼はその事実に怯えます。

 「私が死ぬのも、エンキドゥのごとくではあるまいか
  悲しみが私のうちに入り込んだ
  (略)
  私はライオンどもを見てふるえあがった」

 ギルガメシュは不老不死を得る為に旅立ちます。彼は各所を回りますが、遂に不老不死は得られません。

 多くの小説・物語は「冒険」の形を取っています。何らかの謎を探る、何かを得る為に旅立つ、そうした形を取ります。そうした冒険のスタイルの原初的な形がギルガメシュ叙事詩に現れていると思います。ギルガメシュは、神から分離した存在です。自らには死があると知って「人間になった」存在です。彼は不老不死を得ようと旅立ちます。それは失われた神性を自己の中に帰還させようとする運動です。

 旧約聖書に、楽園喪失の物語があります。アダムとイヴが、知恵の実を齧って楽園を追放される話です。この話はギルガメシュ叙事詩に似ています。人間は知性をもってはじめて自他の区別ができるようになりました。自己と他者との存在がはっきりと認識され、それと共に、自己が何者であるかも知らされました。自己が何であるかという事は、自己の輪郭がはっきりするという事です。

 この自己とは何でしょうか? それは「人間」だという事です。楽園の只中にいた人間は、神=自然=世界と、溶け合うように生きていたのでしょう。

 哲学者のシオランはこんな事を言っています。

 「ぐっすり眠った夜は、あたかも存在しなかったかのような夜だ。私たちが眼を閉じることのなかった夜、それだけが記憶に灼きついている。夜とは、眠られぬ夜のことだ。」

 人間が楽園にいた頃は「ぐっすり眠った夜」のようだったのでしょう。では「ぐっすり眠った夜」とは何でしょうか? それは「あたかも存在しなかったかのような夜」です。楽園にいるという事、幸福であるという事は、自己と世界との区別がなく、世界と融合しているという事なのです。

 一方で、楽園を喪失するとは自己を知覚する事と同義です。シオラン的に言えば「眠られぬ夜」です。眠られぬ夜とは、まんじりともせず、自分自身を知覚し続けなければならない苦痛の時間です。自己を知る、自己自身であるとは、自己の存在を感じざるを得ない苦しみを意味します。

 これは人体の比喩において、一層わかりやすくなるでしょう。我々は右の小指を怪我している時、その部分を意識します。その際、ズキズキという痛みが、人体から独立したその部分を主張してきます。右の小指は人体の一部であると共に、それとは違う存在としての自己を、主体に主張しているかのようです。疎外された人間とはこのように、社会にとっては邪魔な、痛みのある部位であると考えられます。しかしそれ故に、社会の意向を越える可能性を秘めています。

 人間が人間になる過程において、人は「原罪」を背負う事になりました。それはキリスト教的な物の見方に過ぎない、と人は言うかもしれません。ただ、私はこんな風に考えます。例えば、昼寝をしている猫は呑気そうに見えます。知性が優れている人間よりも、劣っている人間の方が幸せそうに見えます。苦しんでいる知識人ーソクラテスやニーチェよりも、ごく普通の人々の方がはるかに幸福そうに見えるでしょう。

 それは何故かと言えば、自己というものの認識が肥大している人物は、自己と世界との差異に絶えず悩まされる為です。世界と自分とのズレを認識し続け、いわば「眠られぬ夜」としての生涯を生きなければならない。それが知性が発展した人間に対して神が(そういう者がいたとして)与えた罰です。「生きる」とは眠られぬ夜の事です。そして多くの人は自分自身を生きておらず、それゆえに彼らは幸福なのです。
 
 楽園追放を経験して、はじめて人は人となりました。同じようにギルガメシュは死を知って、自己の正体を知って、はじめて人間的な存在になりました。そこから冒険が始まります。冒険の原動力は、自己が欠損した存在であると知る事です。現代の飽和した物語が、形式としての冒険だけをなぞって真の冒険を始めないのは、作者(人々)が自らの欠損を知ろうとはしないからです。人々は自分達が自足した存在であると信じようとしているにもかかわらず、形だけの冒険を追い求めるので、緩やかなエンターテイメントにしかなっていきません。

 冒険はそのようにして始まります。冒険とは不老不死の生命を求める事です。それは何を意味するかと言えば、遂に得られぬものを求めるものこそが人間の冒険だという事です。この不合理性の中に、人間の冒険があります。

 エンターテイメント作品は、人間が求めているものが手に入ったかのような錯覚を与えてくれます。その代償として、そうした作品は、全体が矮小化されます。求めて得られるものであれば、欲求そのものが低い段階のものだったと露呈されてしまうからです。

 人間が神から離れ、自己を知覚した時から、神と再び合一したいという欲求が生まれました。この欲求から冒険が始まります。しかし、求めるものは遂に得られません。おそらく得られる時は土に還る時、つまり死ぬ時なのでしょう。その時、自己意識は消滅し、人は自然に還ります。死=消滅という過程を辿って、人間は再び世界と融和します。人間はそういう形でしか、自己という葛藤を取り除けません。

 ※
 話が色々な所に飛びましたが、まとめてみましょう。

 ギルガメシュ叙事詩が世界最古の文学と呼べるのは、そこに後年のリアリズムが萌芽しているからです。三千年以上前にそういうものが現れているとは不思議ですが、事実なので認めないわけにはいきません。

 それでは、リアリズムとは何でしょうか。それは「人間は神とは違う」という事です。ギルガメシュもエンキドゥも半神半人ですが、彼らは神の位置から人間の方に落ちてきた存在として考えられるでしょう。エンキドゥは死に、ギルガメシュは死を認識します。

 死の存在が、人間を神と切り離す一本の線です。自らの死に気づいた存在が人間だという事です。ギルガメシュはそこから不老不死を求めますが、得られません。不老不死が遂に得られないというのも、後年の悲劇としての文学を予感しています。あの世や、より巨大な存在を持って物語を救済しない終わり方はむしろ近代文学に近いと言った方がいいかもしれません。
 
 このように、ギルガメシュ叙事詩は、文学の根底の部分を鮮やかに映し出していると思います。この作品は「文学とは何か?」を考えるのに好素材であると私は思います。それだけの度量の大きな作品が、遥か昔に作られていたという事です。

 ※※※
 「『文学の本質』をギルガメシュ叙事詩で考える」というエッセイはこれで終わりです。これから書くのはおまけ部分です。ただ見ようによっては、おまけ部分の方が本体だと考えられるかも知れません。

 何を書くかと言うと、ギルガメシュ叙事詩の哲学を、現在の文学に当てはめるとどう考えられるか?という事です。先日、読み返したハクスリー「すばらしい新世界」も念頭に置いて書いていくつもりです。構図的には以下のようになります。

 現代ー「すばらしい新世界」 古代ー「ギルガメシュ叙事詩」
 
 さて、ギルガメシュ叙事詩においては、死を悟った人間(的存在)が、不老不死を求めるのが物語の中心に位置していました。それは、人間とは動物と神との中間の生物だという、古代の哲学の捉え方と一致するものがあります。現在も同じ事が言えるでしょうか?

 もちろん、現在においても人間には「死」がありますので、同じように見る事はできます。ただ、私は違うように見ます。

 現在は、エンターテイメント作品が全盛です。それは、人間の悲劇性を直視するのではなく、悲劇から目を逸らす事を眼目としています。エンタメ作品の終わりではよく、結ばれたカップルがキスするシーンで話は終わります。人間の幸福というのは刹那的ものですが、幸福が成就する瞬間で幕を閉じるのは、その瞬間を永遠に引き延ばしていこうという志向を現しています。幸福を重んじるやり方というのは、刹那に多大な意味を付与していく方向に傾斜していきます。

 「すばらしい新世界」というディストピア小説では、その本質が巧みに捉えられています。例えば、こういうセリフがあります。

 「"過去と未来は大きらい"」(略)「"一グラムのソーマで現在(いま)だけを掴む"」
 (「すばらしい新世界」 黒原敏行訳)

 ソーマというのは、全く後遺症のない麻薬のようなものです。ソーマを飲む事で刹那的な快楽を得る事が社会的に推奨されています。オーウェルの描いたディストピアは、恐怖と暴力を基礎にしていましたが、ハクスリーの描いたディストピアは快楽と知的弛緩によって成り立っています。オーウェルのディストピアよりもハクスリーのディストピアの方が、抜け出しにくい分、恐ろしいとも言えるでしょう。

 「すばらしい新世界」を伊藤計劃の「ハーモニー」と繋げて、現代社会の問題をあげつらう事はできますが、やると長くなるのでそれはやりません。ただ、「すばらしい新世界」や「ハーモニー」といった優れた作品においては、個人が社会や経済というマスに完全に溶けてしまう世界が描かれているのは共通です。

 個人の在り方は、刹那的な快楽や、与えられた仕事を機械的にこなすという方向に解消されます。その一方で、社会の管理システムは高度になります。言い換えれば、自由と自己を持つのは、社会の頂点を司る管理者ただ一人になります。残りのメンバーは、自分の頭で考える余地を奪われ、それ故に、幸福な存在になります。

 先に言ったように、そうした世界とは、「まるで存在しなかったかのような夜」です。人間の中から「眠られぬ夜」は取り除かれ、全ての人間が、麻酔されたような、幸福で、自らの存在を知覚しないあるものに変化します。

 現代の社会は、ハクスリーが描いたような世界に酷似しています。こうした世界においては個人は社会に溶け込んでいます。それでは、こうした現代社会の傾向と、ギルガメシュ叙事詩とはどのような関係になっているのでしょうか?

 私はこんな風に考えます。ギルガメシュは、自然から切り離されて、個人としての自己を知覚する事から物語を始めました。旧約聖書の楽園喪失の物語も同じです。それと比べた時、現代社会は、人間が世界を支配する力があまりに強すぎて、かえって人間社会そのものがかつての自然=神のような存在になっています。今や、我々が恐れるのは、自然の脅威でもなく、神の託宣でもなく、人間の作り上げた社会そのものです。

 神はどこへ行ってしまったのでしょうか? …しかし、神に近づきたいという心性はそのまま残っています。多くのフォロワーを背後にして、傲慢になった人間は、多数者の力を背後に感じて、自分は神になってしまったと過信したのでしょう。こうした人間は、自らがマスに溶け込み、社会そのものと合一したかのような感覚を得ているのでしょう。こうした人を積極的に崇拝する人は、自分もそうした力の集合体、要するに擬似的な神の力をわずかでも受け取りたいという願望を抱いています。

 私が何を言いたいかと言えば、ギルガメシュが望んでいた不老不死は、「社会」という形で擬似的に実現しているという事です。どうして「すばらしい新世界」の住人達は刹那的な快楽に浸っていられるのでしょう? どうして自らに訪れる死について考えずに済むのでしょう? それは彼らが、社会という母胎にくるめ取られて、擬似的な永遠を与えられているからです。だから、個人の嗜好としては余計な事は考えず、ただ目の前の快楽に浸っていればいい。永遠とか普遍、本質とかいった難解な哲学的概念を個人が考える必要はないーー何故なら、それらは前もって社会が私達に用意してくれているからです。

 こうした社会においては、個人は社会と合一する事で、不老不死が実現しているかのような状態になります。社会は巨大な機械として運行し、その中の成員は絶えず入れ替わります。社会そのものが一つの生命体となり、一人の人間は一つの細胞に過ぎなくなる。細胞は老化すると、剥がれ落ち、新たに造られた細胞と入れ替わります。一つの細胞としての人間は、自らを社会に溶け込ませている限り、死を感じずに済むのです。

 「すばらしい新世界」では、こうした社会が完璧に実現しています。このような社会において、忘れられたシェイクスピアをそらんじる「野蛮人」のジョンは、新たな冒険を欲します。彼は、古い倫理観、古い価値観に則って、快楽が支配した世界を否定しようとします。ジョンは、世界統制官のムスタファ・モンドと対決し、次のような会話を交わします。

 「快適さなんて欲しくない。欲しいのは神です。詩です。本物の危険です。自由です。美徳です。そして罪悪です」
 「要するにきみは」とムスタファ・モンドは言った。「不幸になる権利を要求しているわけだ」
 「ああ、それでけっこう」ジョンは挑むように言った。「僕は不幸になる権利を要求しているんです」
 「もちろん、老いて醜くなり無力になる権利、梅毒や癌になる権利、食べ物がなくて飢える権利、シラミにたかられる権利、明日をも知れぬ絶えざる不安の中で生きる権利、腸チフスになる権利、あらゆる種類の筆舌に尽くしがたい苦痛にさいなまれる権利もだね」
 長い沈黙が流れた。
 「僕はそういうもの全部を要求します」ようやくジョンはそう言った。
 ムスタファ・モンドは肩をすくめた。「まあ、ご自由に」

 ここまでくれば、私の言いたい事も伝わるのではないかと思います。今の文学には必要なのは、ジョンの言う所の「不幸になる権利」の要求です。

 歴史それ自体が三千年という時間を通して一周したのかもしれません。ギルガメシュ叙事詩において、ギルガメシュは自然から離反し、自己の死を明確に認識しました。そこから不老不死を求める旅を始めました。

 それから長い時間が経ちました。死すべき運命の人間は、知性でもって自然を分解し、科学技術によって強大な力を身に着けました。人々は集合して、自然を作り変え、巨大な社会を作り上げました。この社会は恒常性が目指されています。それは、人間の不老不死への憧れの形式化と言っていいでしょう。
 
 今、文学に必要なのは、こうした社会からもう一度外に出る事です。つまり、楽園喪失した人間達が作り上げた社会からもう一度「楽園喪失」する事、それが目指されるべきではないかと思います。

 ギルガメシュの願望と、野蛮人ジョンの願望はちょうど真逆になっています。ギルガメシュは、自らの死という運命を克服しようとしますが、ジョンは一人の人間として死に至る正当な過程を望みます。ギルガメシュは不老不死を、ジョンは死を望みます。

 ギルガメシュ叙事詩の哲学を現在に当てはめると、そんな風に、状況は丁度逆になっていると思います。人は、社会という第二の自然を離れて、自己の不幸を、死を追求する物語を始めるべきかもしれません。もちろん、その過程は、この現代社会において、全く無意味であり、ムスタファ・モンドのような人によって弾かれたり、快楽装置に浸っている人々には見向きもされないものでしょうが、そうしたものこそが今日の文学にふさわしいのではないでしょうか。そういう意味では、社会とたやすく合一し、楽園から離れようとしない主人公の物語は、現代における優れた文学に位置するのは難しいと思います。
 

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