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彼岸花

 一人の青年が墓の前に立っていた。墓には「結城家の墓」と記されている。

 青年は三十才くらいに見えた。整った顔をしていたが、顔にはどことなく疲労感が広がっていた。青年は、鮮烈な赤さを湛えた花を握っていた。どうやら、花屋で買ったものではないらしい。その証拠に、彼はそれを裸で持っていた。ここに来る途上で手折ったようだ。

 花は、彼岸花だった。彼はそれを墓の前に置いた。

 「今年も咲いていたよ」

 青年は墓に向かってそう語りかけた。墓は黙念として答えなかった。

 「彼岸花、好きだったよね。咲」

 彼は墓に掘られた字をじっと眺めた。また何かを言おうとしたが、思い直して口を閉じた。両手を合わせ、目を閉じて祈った。

 それは強い祈りだった。強い鎮魂の祈りだった。青年にはそう祈るだけの理由があった。

 ※

 青年の名前は石崎と言った。青年が祈っている相手は結城咲と言い、かつての幼馴染だった。

 二人は幼稚園の頃からの仲だった。家が近くて、近所付き合いでそれぞれの両親に交流があった為に、自然と仲良くなった。石崎と結城は子供の頃はよく二人で遊んだものだった。まだ性の匂いがする前、幼童期には二人きりでよく遊んだものだった。近くの子供達と一緒になって遊んだりもした。遊び場は主に近くの公園で、そこでボール遊びをしたり、泥まみれになって泥団子を作ったりした。

 時が経ち、小学校の高学年にもなってくると、男女共に性的な成熟が兆し、男女が対立的になって、一緒に遊ばないようになる。何故そうなるのかはっきりした理由はわからないが、石崎も結城もその流れで、二人の間にあった絆は断ち切れていった。二人共、それぞれ自分のグループに属し、相手と会って話す事もなくなった。二人共それを自然な流れのように捉えていて、そこに逆らおうという意欲も特に持たなかった。それは小学生頃の人間関係としてはよくあるものだったかもしれない。

 結城咲は、おとなしい子だった。彼女は静かで、控えめに振る舞っていたが、時に自分の意志をはっきりと主張したりもした。彼女の中に密かに秘められた意志については誰しも感知する所だったので、いじめの対象になったりはしなかった。

 また、結城は綺麗な顔をしていて、美人と言っていいほどの容貌だったが、前髪を長めに垂らして顔を隠し気味にしていた。それは彼女自身をあまり外の世界に晒したくないかのようだった。彼女はそんな風で、静かであるが感情のきめ細やかさも密かな意志の強さも持ち合わせるような人物だった。

 石崎はと言えば、結城よりも快活だったものの、取り立てて特徴のないごく普通の少年だった。彼らはクラスで取り立てて人気があるわけでも、ないわけでもなかった。普通の生徒で、友達もおり、孤立してはいなかったが衆に抜きん出たところもなかった。

 小学校の五、六年の二年間を二人は全く会話をせずに過ごした。そのまま離れ離れになってもおかしくなかったし、それが運命ならばそれに流されていく二人であった。しかし、二人は中学の入学式の日にバッタリ顔を合わせた。石崎はその時の事をよく覚えている。

 石崎は、結城が同じ中学に入っていたとも知らなかったのだった。彼は入学式の後、教室に戻るまでの間、廊下を一人で歩いていると向こうからどこか見覚えのある姿が近づいてくるのに気がついた。彼女はうつむいて歩いていた為に、石崎には気づいていない。二人がすれ違いそうになった瞬間、石崎は立ち止まり声を掛けた。

 「咲!」

 彼は思わず呼びかけた。後から、彼自身考えて見た事だったが、その時、「咲」と下の名前で呼んだのが良かった。もともと、石崎は小さい頃は結城を「咲」と呼び、結城は石崎を「いっちゃん」と呼んでいた。それが親しい関係にあった時のそれぞれの呼び名だった。咄嗟の一言が他人行儀な「結城さん」ではなく「咲」だった事が関係修復に随分と役立った、と後になってから石崎は考えたものだ。

 名前を呼ばれた結城はさっと顔を上げ、そこに見知った顔があるのを知った。彼女は微笑み「いっちゃん!」と呼んだ。二人が以前の仲を取り戻すのに時間はかからなかった。最初の呼びかけがうまくいったのだ、と石崎は考えた。人生は案外些細な、咄嗟の事柄で良くもなり悪くもなる、と考えてもみた。

 二人はそれから元の幼馴染の仲に戻った。とはいえ男女の仲というわけではなかった。友人以上恋人未満という風だった。

 中学では二人は違うクラスだった。二人はなんとなく学校内では話さなかった。学校で恋人だと見られるのを嫌がっていたためだった。そうした事に二人は敏感だった。

 ただ、稀に二人で帰ったりもした。二人共部活に入っておらず、徒歩での登校だったので、偶然帰り道で相手を見かけたらどちらともなく声を掛けて並んで歩き出した。周囲に同じ学校の生徒がいた時は声をかけなかったが、誰もいない時には、きっと二人は並んで歩き出した。

 二人が辿る道は田舎道だった。彼らの住む町には田んぼが広がり、周囲を山が包んでいた。彼らはそこで育った。二人はその道を辿る。

 二年生になっていた。石崎はその時の事を覚えている。既に秋だった。二人の関係は平行線を辿って、たまに一緒に帰る程度の仲だった。互いの電話番号は知っていたが、プライベートな用事ではかける事なかった。とはいえどちらもなんとなくそのままでは行かないだろうと感じていた。二人の関係はこのまま動かないままではきっとないだろう。そんな予感は二人の底にあったが、どちらから動く事もなかった。ただ予感があるだけだった。そんな内に静かに時は降り積もっていった。

 二年生の秋。二人は、互いを見かけて一緒に帰った。石崎の記憶では相手から声を掛けてきたような気がしていたが、それは思い違いかもしれないと石崎は振り返る時には考えてみる。二人は秋の道を歩いた。

 途上、田んぼの側に彼岸花が咲いていた。結城が、花を指さした。「あれ」と言った。石崎の耳にはその声が今も聞こえるようだ。

 「あれ、咲いているよ。摘んで行こうか?」

 結城は振り返って石崎を見た。石崎はその髪が揺れる様子が今も手に触れられるように身近に感じられる…。石崎は微笑した。

 「摘んでどうするの?」

 「この先のお地蔵さんに供えるんだ」

 「風流だね」

 石崎はそんな会話をしたのを覚えている。二人は花を摘んだ。石崎は、結城が花を摘むのを眺めていた。その赤さが、田んぼの広がる平地では異質なものに思えた。

 そんな事があった。それ以来、石崎は結城の好きな花は彼岸花だと決めてしまった。本当はそうではなかったかもしれないが、彼の脳裡で浮かぶイメージからすれば、結城の持っている花はそれ以外に考えられなかった。

 時は過ぎた。二人は中学三年生になっていた。そこに岐路があった。それは外から見ると些細な事柄にしか見えなかっただろう。

 二人の関係は変わらなかった。友達以上恋人未満で、少しも関係は動いていなかった。直接、電話で話したりもしなかった。幼馴染という関係だけが維持されていて、それ以上に押す事も引く事もできなかった。ただ、二人は内心ではこの関係にいずれ何らかの結論を出す必要があるとは感じていた。付き合うか、これから先も友達としての関係であり続けるか、どちらかを決めねばならないだろう。

 中学も三年になって、高校受験が視野に入ると、その要請は二人の内部でより強くなってきた。二人は「どの高校に行くの?」と相手に聞く事もできなかった。同じ高校に入ろうとする事、足並みを合わそうとする事、それだけでも、二人の関係の均衡を破るのに十分だと感じられていた。そんな中で、その日は来た。

 それは夏だった。夏休み前、暑いさなかだったのを覚えている。石崎にとってそれはありふれた一日のはずだった。

 彼はその日、忘れ物をした。授業を終えて、鞄を背負い、校舎の外に出た。結城と下校時に顔を合わせるのは、週に一度程度の事で、しばらく顔を見ない時もあった。その日、石崎は一人で校門を出た。いつものように帰り道を辿っていたが、ふと、携帯電話を忘れたのを思い出した。頭の中で、携帯を机の引き出しの奥に放り込んだ時の像が浮かんだ。携帯は今もそこにあるだろう。

 取りに戻るのも面倒だったが、盗難されても困ると思い戻る事にした。彼はとぼとぼ道を後戻りした。夏の日は到底落ちそうになく、地表を好き勝手に焼いていた。

 教室に携帯はあった。彼はそれを見つけた時、喜びを感じたがその喜びはすぐに忘れ、教室を後にした。「二回も下校するとはね」 彼は愚痴をこぼしてみた。愚痴をこぼすタイプの人間ではなかったが。階段を降り、同じ道をまた進んだ。靴を履き替え、また校門まで来た。その時、校門近くの花壇の前に立っている姿に見覚えがある気がした…すぐに、結城だと石崎は気づいた。彼はなんと思う事もなく背後から声をかけた。学校内では二人で話さないようにしていたのにどうしてあの時は自然に声を掛けたのだろうと、後からそんな気持ちもしたのだった。

 「咲」

 石崎は声をかけた。結城は振り向いた。「いっちゃん」 結城は手に本を持っていた。石崎が尋ねると、結城は図書館で本を読んでいて帰る時間が遅れたのだと言う。

 「そうなんだ」

 石崎は言った。「それなんて本なの?」 結城は本のタイトルを答えた。石崎の知らないタイトルだった。

 「知らないなぁ」

 石崎が言うと、結城は微笑した。「いっちゃんは本読まないもんね」 石崎は、結城が本を読むのだとその時、始めて気がついた気がした。

 その時、話している二人の元に近づく人物がいた。二人は彼に気が付かなかった。それは石崎のクラスメートで、佐々木といういわゆるお調子者だった。佐々木は靴を履き替え、下駄箱を抜けると、校門近くで話している二人に目を止めた。(他に生徒はいなかった) 佐々木は一人が石崎だと気づいた。佐々木は口元にニヤニヤした笑いを湛えて二人に近づいた。

 「よう、石崎」

 佐々木は石崎の肩を叩いた。石崎は振り返った。佐々木の顔を見て、一瞬顔をしかめた。

 「ああ、佐々木か」

 「何してるんだ?」

 「いや、別に…」

 佐々木はニヤニヤした笑いを顔に貼り付けたまま、結城の方を見た。結城はうつむいていた。

 「何だよ? 彼女か?」

 「…違うよ」

 石崎はつぶやくように言った。石崎は嫌なものを感じていた。

 「おい、なんだよ。彼女かよ。言ってくれよ。お前に彼女がいるなんて、意外だなあ。相川にも言ってやろうかな。あいつ悔しがるだろうな。…しかし、お前に彼女がいるなんて思わなかったよ」

 「だから違うって言ってるだろ」

 石崎は佐々木の肩を拳で軽く叩いた。佐々木は相変わらず笑っていた。

 「なんだよ、お前。真っ赤になって否定して。そんなに赤くなるのはおかしいだろ。絶対彼女だろ。おい、隠すなよ。お前、その子の事好きなのかよ? え? 好きなのかよ?」

 佐々木はからかう為に、わざと軽薄な口調を選んだ。石崎は自制しきれないものを自分の中に感じた。

 「好き? …好きじゃない。咲はただの幼馴染で、それだけの関係で…」

 「へえ。幼馴染? 知らなかったな、お前に幼馴染がいたなんて。で、好きなんだろ? どうなんだよ? 言えよ? …別に恥ずかしくないだろ? 好きなんだろ? どうなんだよ?」

 佐々木は馴れ馴れしく石崎と肩を組んだ。石崎の顔は、恥ずかしさと怒りの為に真っ赤になっていた。

 石崎は佐々木を突き飛ばした。佐々木は後ずさった。

 「やめろよ!! ただの幼馴染だって言ってるだろ! 付き合ってなんかいないし、好きでもなんでもない!! 全然好きじゃねえよ!!」

 石崎は声を張り上げていた。佐々木は、声の調子に圧倒された。二人が忘れていたのは結城咲だった。

 石崎は言ってしまって、(しまった)と思った。そこに結城がいる事を思い出した。彼は振り向いた。結城と目が合った。顔は紅潮していて、目は潤んでいた。怒っているのが見て取れた。石崎が声をかけようとした刹那、結城はぷいと横を向いて歩き出した。石崎は追わなければと思ったが、その時には結城はもう走り出していた。あっという間に校門を出て角を曲がり、見えなくなってしまった。

 石崎の足は動かなかった。追わなければ、と頭では思っていたものの、どういうわけか体が、足が動かなかった。

 石崎は佐々木の方に振り返った。佐々木は石崎の表情を見て、不穏なものを読み取った。また、去っていった結城の後ろ姿も見ていて、事態が深刻だと感じた。ところが、いつもの軽薄さで乗り切ろうという魂胆を彼は早くも決めていた。それが彼の人生に対する態度の全てだった。

 「なんだよ、キレんなよ」

 佐々木はそう言うと、そのまま振り向いてどこかに向かって歩き出した。石崎は(校門はここなのにどこに行くんだろう? 裏口から帰るのだろうか?)などと考えてみた。頭の中では、もう既に結城を深く傷つけてしまった、というのがよくわかっていたのだが、何故か彼は違う事を考えていた。

 佐々木もどこかへ行ってしまった。石崎は一人取り残された。彼は結城の後を追おうか、と考えてみたが、もう遅いと自分で打ち消した。彼は寂しい自分を感じた。足は止まっていた。足がそこに貼り付けられたように感じていた。頭の中には結城の後ろ姿、その髪の揺れる様子が残っていた。その後ろ姿はあらゆるものを伝えていた。

 (メールで謝れば許してくれるだろうか?) と石崎は考えてみたが、その程度で話が収まるわけではない、とは彼自身が一番良く知っていた。彼は動かなかった。

 その日を境にして、石崎と結城はきっぱりと道が別れてしまった。石崎は結城と再び口を聞く事はなかった。

 石崎は随分と思い悩んだが、一旦踏み越えてしまえば、もう修復できないと観念していた。彼は諦めてしまった。結城はと言えば、深く傷ついた心象の中にいた。

 石崎はその日をきっかけにして、猛烈に勉強に取り組み始めた。彼が勉学に急にエネルギーを向けたのは、結城の事を忘れたかったからであり、また、結城と同じ高校にならないようにランクが上の学校に行こうという魂胆もあった。彼はもう結城の顔を見られないと思っていた。どんな顔をすればいいのかわからなかった。羞恥と自罰感情で、勉強の最中に急に顔を赤くしたりもした。

 それだけであれば、青春期の些細な事故として記憶の中に埋葬されただけだったかもしれない。ただ、運命はそのように事を運ばなかった。

 石崎は高校生になっていた。念願の進学校に合格したのだった。彼は、高校二年生になっていた。

 もちろん、そこには結城咲はいなかった。二年生にもなると、彼はかつての幼馴染を忘れかけていた。既に新しい交友関係ができていたし、彼はそれに満足していた。彼女はいなかったが友人がいた。新しい環境に適応し、勉学に励む仲間にも親しい感情を抱いていた。

 そんなさなかだった。ある日、家に帰った彼は、母親から意外な事を聞かされた。それは全く不意打ちのように響いた。

 「勇一、今日、大変なニュースがあったの」

 「なんだよ」

 石崎は鞄をソファに投げた。どうせ大した事件ではないだろう、と高をくくっていた。母親は次のように言った。

 「ご近所の結城咲ちゃんって知ってるでしょ? ほら、昔、よく遊んだじゃない? あの子ねえ、今朝、事故で亡くなったんだって。なんでも飲酒運転の車に轢かれたらしいわよ。今朝、亡くなったって。近所の丸山さんが教えてくれたの。あなた、子供の頃は仲が良かったでしょう? よく遊んでたじゃない? 覚えてる? …本当に恐ろしい事が起こるものねえ…」

 それ以上は、石崎の耳に言葉は入ってこなかった。石崎は文字通り、目の前が真っ暗になった。彼はふらふらとよろけ、無意識的にソファに座り込んだ。(そんな事があるわけがない) 彼の頭の中で誰かがつぶやき、同時に、最後に見た結城の後ろ姿がちらついた。 (そんな事があるわけがない) また誰かが頭の中で言った。

 石崎は結城との仲を誰にも言っていなかった。その微妙な精神的な繋がりについては誰にも話していなかった。大体、それを一体誰に話す事ができただろう?

 あの日の事、佐々木にからかわれてつい、あらぬ事を叫んでしまった件も誰にも言っていなかった。だから、結城との繋がりについては石崎以外誰も知らないと言ってよかった。佐々木はその場に立ち会っていたが、彼はほとんど理解していなかったし、二人の事など忘れていた。

 石崎は結城の葬式に出席した。彼は人一倍沈痛な面持ちだったが、それに気づく者はいなかった。結城の両親とも話したが、石崎と結城との間に何があったか、結城の両親は知らなかったし、石崎も語らなかった。

 石崎はその帰り、ある事を決心した。それは彼の心の中だけで作られた決心であり、その日、十七歳のある日、彼は早くもそれからの人生をまるごと決定してしまった。彼はその決定については誰にも言わないと決めていた。「相談」というものは頭にも浮かばなかった。

 奇しくも、その帰り道は、結城と一緒に帰ったあの道だった。田んぼに囲まれた田舎道。彼は過去の記憶をなぞるように歩いた。ふと振り返れば、結城がそこにいるような気がした。人が死ぬという事が彼にはまだ合点できなかった。

 その途上、道の端に彼岸花が咲いていた。その赤は彼の目には極めて鮮烈に映った。花を摘む結城の姿が幻像として目の前を通り過ぎていった。

 石崎は吸い込まれるように花に近づいた。一輪、それをちぎって手に取った。ためつすがめつそれを眺めた。

 石崎はそれを運命だと受け取った。天啓と言っても良かった。葬式の帰りに、道端に彼岸花が咲いていた事。それを現代の人間は「偶然」だと片付けるかもしれない。しかし、石崎にとってそれは決定的な事に思われた。他にはありえないただ一つの絶対的な事柄と感じた。

 彼はそれを、先の地蔵に供えようと思った。地蔵はまだ道の先に残っているはずだった。彼はまだ高校生だったが、その後の人生を贖罪に生きると固く決めていた。彼は歩き出した。

 ※

 それから時が過ぎた。今、彼は結城の墓の前に立っていた。年齢だけが彼の肩に降り積もっていた。三十才になっていた。彼は独身だった。死ぬまで、独身を貫くつもりだった。

 彼もまた、過去を振り返って後悔する事もないではなかった。あの時ああしていれば…という普通の反省もないではなかった。しかし、彼は自分がそんな風に考え出すと、すぐその考えを振り捨てる事にしていた。彼は過去を一つの実在として、また、自分の人生がどれほど悲しいものであるとしてもそれを一つの運命として受け取ろうと決めていた。それが、他の人々に話しても伝わらないとは彼も直感していた。人々は利害で生きているので、「いつまでも引きずらずに新しい相手を見つけなよ」と言うのが予想された。そうした意見に与するつもりはなかった。

 石崎の長い祈りが終わった。手を下げ、顔を上げた。目の前には墓石しかなかった。彼の目には、その背後に結城咲の姿が透けて見えていた。彼は、帰る準備を始めた。彼は毎月、墓の前にやってきていた。季節が来ると毎年、いつもの事と彼岸花を摘んで供えた。今日のように。

 石崎は、置いた鞄を取り上げて歩き出した。他人達の目には、ただ普通のやつれた青年にしか見えなかっただろう。彼は彼の中に彼しか知らない物語を秘めていた。それを誰かに言うつもりはなかった。本能的にそれが自分の人生だと知っていた。

 彼はまっすぐ道を歩いていた。また来月、ここに来るつもりだった。おそらく墓参りは彼が死ぬまで続くだろう。彼はそれを当然の事柄として受け取っていた。悲しみが彼の人生を包んでいた。しかしそれを一々他人に言うつもりはなかった。彼は歩みを続け、寺から外に出た。

 

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