「復活」について

 ※この文章は書いている途中に、自分の論旨の欠陥が自分でわかってしまいました。なので最後はトーンダウンしていますが、内容的には見るべき部分もあると思うので掲載します。欠陥に関しては今後の宿題としておきます。



 「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」のワンシーン


 アマゾンプライムにある「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」というドキュメンタリー映画を見ました。良かったです。セバスチャン・デルガドという写真家がどういう人なのか、色々感じるものがありました。

 作品自体素晴らしかったので、批評も書けるのですが、ここでは映画を見て思いついた事を書こうと思います。映画の内容とは若干、交差するのですが、それほど深く重なっているわけではありません。映像は考えるヒントになった、という感じです。

 私が閃いたのは、写真家のセバスチャンが森の中で佇んでいるラストシーンです。そこで老いた写真家は、森を見ながら(例え、自分が死んだとしてもこの森は残っていく)というような話をしています。その時に(ああ、そうか)と思いました。

 セバスチャンは、写真家として人間の姿を撮る事からスタートしているのですが、晩年になって、自然を撮ろうと決意します。そうして自然の有様をフィルムに収め、また森の再生にも尽力します。セバスチャンはブラジルの出身なので、自然に対する親和感は元より、西欧のインテリよりも強く持っていたのだろうと思います。

 印象深かったのは、セバスチャンがごく自然に、死と、その後にくるものを連結させて語っていた事です。彼の語り口や生き様から、その連続性というのはたしかに彼の中で真実として感じられていると伝わってきました。また、それはブラジル出身の彼が、特に、未開民族や地方の部族と親身に付き合っていた事から現れてくる感慨であるように思います。

 …私がこういう言い方で何を言いたいかと言えば、それは「復活」という概念についてです。「復活」という概念が自然(特に植物)との連接によって、以前よりもよくわかった気がしました。以下では「復活」という概念と悲劇の関係について、おさらいしていこうと思います。

 悲劇の後のサテュロス劇

 私はずっと、文学の本質とは何か?と考えていました。文学の優れたものは、基本的には悲劇です。喜劇よりも悲劇の方が優れています。それはギリシャ悲劇、ドストエフスキー、シェイクスピアなどを中心にした文学観です。

 それでは、悲劇は何故、喜劇よりも優れているのでしょうか? 何故かと言えば、悲劇は真実を描いたものだからです。人間の本質を描こうとする時、人間の能力の限界や、人間の本質の限界が露わになる。人間とは何か、そのギリギリを描こうとすると、ぼんやりと楽しくやっている家族団らんでは話になりません。どん底の生活や絶望の中でいかに人間が行動するか、それが問題になっていきます。そうした状況において、人間の本質が露わになります。また、人間は全知全能ではないので、その本質にはある限界があります。そうした本質と、限界を描いていくのが悲劇としての文学だと思います。

 しかし、同時に人間は希望を求めるという心性を持っています。悲しい話ばかりを読むのは辛いので、どこかに希望や救済を求めます。

 エンターテイメントは、そういう我々に手近な救済を与えてくれます。しかし現実というのは、冷酷なものです。だから、エンターテイメントは、冷酷な現実を迂回するようにして救済を我々に見せる。ところが、現実は依然として存在し続けるので、エンターテイメント作品はやがては厳しい現実に打ち砕かれてしまいます。

 現実は厳しく辛いものだとしても、悲劇は見たくない物語ではあるので、人々には受け入れにくい。…という事は、真実を描き出す行為と、我々の心性が望む事柄との間に矛盾が現れます。この矛盾は、いかにして解消できるでしょうか? これを、もう少し引き下げて言うならば「エンタメと芸術はいかに融合できるか?」という事です。横光利一などが問題とした事柄です。

 これに対する答えは、私はギリシャ悲劇の中に見つけました。それは福田恆存の「演劇入門」に書いてありました。

 細かい話は端折りますが、ギリシャ悲劇というのは、ただ悲劇として完結したものではなかった、と福田は言っています。今ではその内容は失われているサテュロス劇というものが、悲劇の後には大抵演じられました。サテュロス劇というのは、復活の劇、死から生へと動いていく劇で、悲劇の物悲しさと違ってお祭り騒ぎの劇だった。福田はそういう事を言っています。

 これはどういう事かと言えば、ギリシャ悲劇においては「エンタメと芸術は完全な形で融合していた」。現代的な言い方をすれば、そういう事になると思います。

 何故、そんな風に、死から生への復活が演じられたのでしょうか? 答えは、人々は自然の模倣をしていたというもので、昔は今よりも農耕の方が重要だったので、それはなんとなく想像できると思います。生命力が横溢する夏から、減退する秋へ。冬においては一旦、生命は死にますが、春になってまた復活します。人間存在も昔は、自然により近い存在だったので、死と生は一繋がりの鎖のように感じられていたのでしょう。この自然の模倣が古代的な祭礼であり、その形式が劇においても踏襲されていた。それが福田恆存の見方です。

 要するに、悲劇において、主人物が悲劇的な死に方をしたとしても、その先には「復活」が信じられていたという事です。この形式性において、ギリシャ悲劇は、芸術とエンタメの根源を両方とも自己の中に含んでいたと言えるでしょう。人間の限界の描写としての「破滅」と、その後の「救済」、両方が入っています。それらの根底にあったのは、自然の模倣としての祭礼です。

 ギリシャ悲劇はそうしたものでしたが、次に取り上げたいのが聖書です。以下はそれに言及します。

 ヨブとキリストの復活

 旧約聖書にヨブ記という話があります。ヨブ記は旧約聖書の中でも特に有名で、取り上げられる事も多い。それだけ琴線に触れる物語なのでしょう。

 ヨブ記は、ヨブという信仰者が神に意地悪されて、信仰を試されるという話です。ヨブは敬虔な信仰者なのですが、悪魔が神に「自分の手にかかれば、彼はさっさと信仰を失いますぜ。俺に任せてください」てな事を言います。神は悪魔を許して、悪魔とヨブの信仰バトルが始まります。

 悪魔はヨブを散々ひどい目に合わせます。ヨブには家族がいて、多くの財産があるのですが、家族を奪われ、財産も奪われます。おまけにひどい病気にまでかけられます。ヨブは信仰を失うギリギリまで行きますが、最終的には神に頭を垂れます。神の前に自分の小ささを思い知り、神から許しを得て、元の持ち物を返してもらいます。家族も財産も戻ってきます。昔話の「めでたしめでたし」の形式です。

 この話は色々批評されていますが、ここではただ、ヨブの物語は、「復活の物語」の段取りを踏んでいるという所だけを見たいと思います。ヨブが全てを失い、死に近づくが、最後には全てを取り戻し、復活する。それは自然の連関の模倣であると私は思います。抽象的な神の物語と、地上の自然の巡りとの間には何らかの関連があります。

 ヨブ記は、キリストの物語のプロトタイプだと言われる事があります。キリストの物語も、キリストが地上で苦しみを受け、死に至り、最後には復活するという形式を取っています。私は、宗教的観点を外しても、キリストの物語において、ある絶対的な物語の構造が完成した、という印象を持っています。

 文学的に見ると、ヨブ記にはどこか不満が残ります。神の意地悪も、ヨブが最後に神に頭を下げる場面も、納得しきれない感じが残ります。その未消化の部分を改善して、更に上位の物語にしたのがキリストの物語であると私は思っています。だからこそ、ドストエフスキーのような根っからの小説家がキリストの物語に最後まで追随できたのだと思います。

 キリストとヨブの大きな違いは、キリストは本当に死に至るという事です。キリストは受難し、その極限である「死」を経験します。しかし、彼はその後「復活」します。何故復活するのか、と言われても、唯物論的には答えられません。ただ、死を経て復活するという物語の構造、自然を模倣する祭礼の形式は、キリストの物語においても生きていると私は感じています。そこでは、人間も自然の一部であるという見方が根底にあります。だから本来、蘇るはずのない者も蘇るのだと思います。

 ラスコーリニコフの復活

 次はドストエフスキーの「罪と罰」を取り上げます。「罪と罰」は、キリストの物語の模倣なので、復活の概念が存在するのは、当然といえば当然でしょう。
 
 物語は貧しい大学生のラスコーリニコフが、殺人について考える所から始まります。彼は貧窮しており、同じように貧窮している家族と自分自身を救うために、金貸しの老婆を殺す事を考えます。彼は自分の夢想に引きずられるようにして、老婆を殺してしまいます。そこから、ラスコーリニコフが精神的に回心するまでの様子が小説として綴られています。
 
 「罪と罰」で、着目したいのは、ラスコーリニコフが大地に接吻するシーンです。ラスコーリニコフはソーニャに促されて、大地に接吻します。ラスコーリニコフは、罪を贖い、これから警察に自白する、その儀式的行為のように大地に接吻する。

 何故、大地に接吻しなけければならないかと言えば、ロシアの大地信仰が根底にはあります。ロシアは、西欧とアジアの中間的な場所なので、抽象的な一神論だけでは理解できない部分があります。もっと土着的な、アジア的な部分があります。その一つが大地信仰で、ロシア人はロシアの大地に対するある思い入れがあります。

 特に、重視したいのは、ラスコーリニコフが罪を贖う、贖おうとする事が、大地に接吻し、大地と再び接続する、その点が強調されているという点です。ラスコーリニコフは西欧から来た無神論に乗っかって人を殺してしまいます。それはドストエフスキーにとっては「大地と遊離する事」なのです。ここにはドストエフスキーの土着主義があります。

 大地と遊離した抽象的な存在は、人を殺しても良心の呵責を覚えない。彼は生との連帯を絶たれてしまっています。生との連帯を絶たれるとはどういう事でしょうか? それは、自らの頭脳の中に閉じ込められるという事です。抽象的な理念、論理の中で、殺人を合理的に正しいものと考える事はできます。理性は、肉体を無視して、また、肉体から流れる血を単なる「犠牲」のカテゴリーに入れて、どんどん進んでいきます。ここでは過度に頭脳的な人間の危険性が描かれています。

 過度に頭脳的な人間と言えば、我々が「合理的」という言葉を、やたら崇高で絶対的な言葉として使っているという状況が思い返されます。私は、現代人はみなラスコーリニコフなのだと思っています(だからこそ「罪と罰」は現代人に響く)。ただ、ラスコーリニコフたる現代人は、接吻すべき大地を持たない。大地は、現実的に言ってもアスファルトに覆われている。我々は大地とのつながりを持つ事ができず、自らの合理性の中に閉じ込められている。現代人は罪を償う事ができず、「復活」するのが禁じられたラスコーリニコフなのです。
 
 ラスコーリニコフは大地に接吻し、大地との繋がりを回復します。彼は、それによって生と死との輪廻の中に復帰したと言えるでしょう。彼は自白して、逮捕されます。彼はシベリアの牢獄に行き、そこで宗教的な回心を自ら体験します。世界との和解が成り立ち、ラスコーリニコフは「復活」します。

 この復活の場面は抽象的で、ドストエフスキーにしては、きちんと描けていません。しかしそれはやむを得ないものだと思います。キリストの復活の場面も、聖書の中では簡素に描かれています。復活というものは望まれてはいるが、リアリズムで描くと妙なものになってしまうのだと思います。何故、妙になるかと言うと、復活という神秘性が削がれるからです。神的なものは常にベールがかかっていないといけません。

 ラスコーリニコフが復活する場面、彼は対岸の土地をぼうっと見ています。古代から連綿として続いている遊牧民の生活がそこにはあります。そこにあるのは「生活」です。ここで言う生活とは、人間が長い間、蓄積してきた時間としての生活です。ただ生きるという事ではなく、生と死が繋がっているある時間感覚、とでも言えばいいでしょうか。

 生活は自然と一致しながら、人間の生死をくるんでいます。そういう悠久な時間間隔の中で、ラスコーリニコフは自己を自覚します。思考の病が癒えるのは、思考の無時間的感覚が、より長い、広い時間感覚に溶け出す事によって始めて可能なのです。

 こうしてラスコーリニコフは「復活」します。復活の概念はここでも、自然に対するある感受性と連結して考えられています。合理的、理性的な考えだけでは復活という概念は導き出せません。

 ソーニャとラスコーリニコフの違い

 「罪と罰」における復活観念をもう少し掘り下げて考えてみましょう。復活という概念自体はドストエフスキー作品全体において、非常に重要な要素となっています。

 ラスコーリニコフがソーニャに詰め寄る場面があります。ラスコーリニコフとソーニャは互いに、一線を越えた近しい存在として描かれているのですが、二人には大きな違いがあります。それは、ラスコーリニコフが、自分と家族を救う為に他人を殺したのに対して、ソーニャが家族を救う為に自分の身を犠牲にした事です。ソーニャは自分の身を売って、そのお金を家族に渡しています。

 ラスコーリニコフはソーニャに疑問を持ちます。「どうしてそんな状況で君は耐えられるのか?」 これがラスコーリニコフの問いです。彼は、ソーニャと似たような窮状から、殺人へと飛躍しました。ラスコーリニコフからすれば「どうして君は他人を害して自分(達)を利しようとしないのか?」というのが疑問なわけです。

 合理的な功利主義が身についている我々からすれば、ラスコーリニコフの問いは比較的わかりやすいはずです。人は「暴力は良くない・殺人は良くない」と言いますが、生き残るのが自分か、相手か、といった究極的選択を迫られた時、一体どういう態度を取るでしょうか? 常識は残酷な真理に覆いをかけようとしますが、作家はベールを剥ぎ取り、真実を露わにしようとする。真実を証明する為の道具として犠牲になったのが、ラスコーリニコフとソーニャという二人のキャラクターと言ってもいいほどです。

 ラスコーリニコフはソーニャを追い詰めます。彼女に聖書を読むように頼みます。ラザロの復活の箇所です。ソーニャは嫌々読むのですが、聖書を読みながらとうとう自分の信念を吐露してしまいます。ソーニャは復活を信じていました。だからこそ、彼女はあらゆる窮状に耐えられたのです。

 ソーニャの行く先には、全く希望というものはありません。彼女は売春婦となって日銭を稼いで家族を支えていますが、父親は飲んだくれで、母親は狂気に囚われており、病気です。小さい妹は狂気の母にくっついてうろうろとするばかりです。例えソーニャが自分を犠牲にして家族を救おうとした所で、救いきれない未来は見えています。

 ラスコーリニコフが疑問を抱いたのはそんなソーニャが『何故』そのような状況に耐えられているのか、という事でした。現実というものに完全に蓋をして、全く抜け道がないような状況を考えてみましょう。その時にラスコーリニコフは他人を殺す事を自分に許し、ソーニャは自分を殺す事を自らに許しました。

 ソーニャの決断は、この世のものではない「復活」という概念に支えられています。ここで強調したいのは、それが彼岸における希望としての復活だという事です。合理論者は、現実が塞がれてしまえば絶望しか残りません。合理論の帰結は絶望なのです。非合理論は、その先に復活というものを予期します。そのような信念を持っていたからこそ、ソーニャは自らの境遇に耐え忍んでいられたのです。

 このようにして、復活という概念は、閉ざされた現実に穴を開けるキーです。しかし、それは非合理的なものなので、信仰が必要とされます。信仰は、合理的な論理からは生まれません。非合理への飛躍からしか生まれない。

 しかし、ラスコーリニコフが思考の論理、自己正当化の論理をどこまでも手繰っていくのは、彼がその論理のどこにも自分を救い出す道はないと、彼自身が知らなければならないからです。それが作者によって意図されています。また、作品が非合理的なものへ突入していくのを読者に納得させる為に、作者が取った創作技術でもあります。

 最後に

 ここで、現代に戻ります。セバスチャン・サルガドの映画に戻りたいと思います。

 「復活」という概念は今まで書いてきたように、人間の文化の中で重要な役割を占めていたと私は思います。今の社会を見てもそうですし、過去の歴史を見てもそうですが、現実というのは理不尽な事で溢れています。クズがクズ故に大衆の称賛を受け、幸福な人生を送るとか、聖人が迫害されて、苦しんで死ぬとか、そういう事はよくあります。

 それでは、何故に報われないままに善行をしたり、何か高い理想を求めなければならないのか?というのが疑問になってきます。そんな事をしたところで、報われないのであれば、それをする意味は何でしょうか? この問いに答えられるのは、合理的な現実主義ではありません。

 それに答えられるのは信仰ーー宗教の次元でしかない。しかし、信仰・宗教は、現実に測定できるものでもないし、神もその存在を確証できるものではないので、絶えず紛糾が起こってきました。これからもそれは起こっていくだろうと思います。

 復活という概念は宗教的なものであって、現実の世界の理不尽を、次なる世界において秩序的に置き直したと言えるでしょう。ソーニャは天国に行けるでしょうし、「復活」できるでしょう。ダンテが、現実世界を転倒したもう一つの世界を「神曲」という形で創造したのは、彼岸世界において現実の理不尽を埋め合わせようとしたからです。

 ただ、最初に書いたように、そうした抽象的な思考は、元は自然の営為の模倣から来ていると私は考えています。神という概念も、生きた自然の背後に「一者」を想定する事から現れたものでしょう。

 老いた写真家、セバスチャン・サルガドは、森の中にいて、ごく自然に、自分の死後にも続いていくものについて語る事ができました。昔の人間は、もっと死と近い距離で生きていたのだと思います。それは、変転していく自然と共に生きていたからであって、自分達の死後についてもそれほど悲観的にならずに考えられたでしょう。

 全てのものは揺らぎ、変化し、流れていきます。その中に人間の生死はくるまれていました。復活という概念もそうした流れから生まれたなのだと思います。

 現代に生きる我々は、物理的に言っても、アスファルトやコンクリート・鉄・プラスチックなどに囲まれています。周囲の環境は変化しません。その中で人間だけが動いている。動かない世界の中で、人間だけが動いて、世界を変えていきます。

 こうした世界において、世界を司る神がいないのも、人間の復活が信じられないのも、当然であるように思われます。世界を変えているのは自分達人間なのに、わざわざその外側の神を想定する意味は、我々には理解できません。人工物に囲まれた世界において一人の人間が死んだとしても、その人間がまた自然のサイクルに還っていくとは直感的に理解しにくい。

 アパートの一室で一人で死んだ人間について考えてみましょう。彼の死は「都会の中の孤独」というように、何か孤立した異様なものとして見えてくるはずです。人工物の中では腐爛し、腐敗していく死体は異様な存在に見えます。こうした世界において死は恐るべきものであり、生の切断以外の意味はない。今の我々はそういう世界に生きていると思います。

 セバスチャン・サルガドの映画のワンシーンを見て、私が考えたのは、そういう事でした。我々に「復活」が信じられないのもごく当然の事だろう、と。祖父母、両親、自分へという繋がりの中で、生活形態がそれほど変化せず、自然もまた大きなサイクルで動いている時には、我々は世界に包まれて、世界と共に生きていますが、世界を切り離し、自分達の快適な環境を整えてしまった今、我々にとって死は今までよりも一層、恐怖を煽るものとして感じられてきたのだと思います。

 そういう歴史の変遷があったと私は見ています。この世界においては、死は合理的に捉えられるので、死は単なる存在の消滅だと考えられています。しかしそれは論理的に絶対に正しい答えというよりも、歴史の変遷の中で自分達が感じたある種の感覚でしかないのではないか。そうした絶対なテーゼも、未来においてはまた変わらないは誰にも言い切れないでしょう。私はそんな風に考えています。

 そして死の先の復活を信じるかどうかというもはや古びた事柄も、人間が合理的なものから逃れられない以上、この先も有効に機能すると私は思っています。合理的な論理によって人は思惟する他ない為に、ある種の人間は「その先」を求めずにはいられないからです。

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