東日本大震災をきっかけに「地域メディア」を考え続けた10年を振り返って
写真は2011年3月12日午前2時くらいに渡良瀬川の土手から撮影した足利市内です。東日本大震災の停電中で真っ暗な一夜を過ごしました。
コムラボは、2010年7月からネット放送局「足利テレビ」をはじめて、開局8カ月後に東日本大震災が発生しました。
東日本大震災で地域メディアの必要性を痛感した
私たちは、元々「面白そうだからやってみよう」というノリではじめた市民メディアです。今のような足利経済新聞を運営ができるノウハウは整っていませんでした。
2011年の被災当時、SNSはまだ普及しはじめたばかり、行政のネット活用もまだこれからといった状況です。足利も被災地でしたが、メディアの報道はより被害が大きい地域が中心でした。市民が必要としている情報が手に入らない、そもそも情報が出されていない、まとめられてない状態。計画停電やガソリンスタンドの行列など、しばらく市民生活は大きな影響を受けていました。
コムラボが「地域の情報を地域に伝えるためのメディアが足利にも必要ではないか」と強く意識したのは、東日本大震災がきっかけです。震災がなかったら私たちが地域メディアにこれほどこだわらなかったと思います。
それから10年。「自分たちでも出来る地域メディアとは」を試行錯誤して事業モデルを作り替えつつ、2018年7月の足利経済新聞創刊に至ります。
いつかやってくる有事のために平時からやっておく
足利経済新聞は、「いつかやってくる有事に備えるためには、平時から読んで貰える地域メディアが必要」という考えの元で運営しています。
2021年2月、震災から10年を目前にして、足利山林火災が発生。2020年から足利記者クラブに入ったことで、記者会見に参加できるようになり、市民が必要な情報をまとめて発表することができました。
山火事で足利経済新聞が発信した情報への反応は「この情報が欲しかった」というのが多く、「あー、足利経済新聞を作って良かった」と感じました。
大手メディアはヘリを飛ばして「山が燃えてます。民家に迫ってます」と映像を流しますが、煙の下に住んでいる市民は「どこが燃えているのか。どんな延焼状況なのか」が必要な情報です。実際、不確かな情報をいくつも耳にしました。記者会見へ行って、客観的な情報をまとめ、発信することで市民が必要な情報を提供できたと思っています。
市民メディアの限界と持続的な活動への課題感
反面、有事における市民メディアの限界も感じました。常勤記者は1人もおらず、編集部全員が複業なので、現場に張り付いての報道は難しいです。足利経済新聞は、基本、事件事故を扱わないのがメディアポリシーです。毎日記者会見へ行っても記事の掲載は、発災1週間後の記事以外行いませんでした。足利経済新聞は、媒体へ記事を掲載することで広告収入が発生するので、収益源が発生する取材活動ができないことを意味します。
「割の合わないことをしている」と思いつつ、それでも毎日記者会見へ行って情報発信をしたのは、実際に住んでいるから、避難勧告地域に住んでいて避難している友人の話を聞いたからです。これは私たちがやらねばと。
災害はまた必ずやってきます。私たちは平時にはグッドニュースを届けつつ、有事には市民目線で情報収集・発信ができる体制作りを今後も続けていきたいと考えています。
足利経済新聞 編集部
https://www.ashikaga-keizai.com/
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