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勝てない僕らには運がないのか?

2年前のこの記事のアンサーソングとなる文を書いてみようと思う。

2年後、チームを変えても僕は強さにならない上手さに頭を悩ませている。

シュート10本と3本、終始攻めながらゴールが遠い。PKだと分が悪いと前に人数を掛けたアディショナルにカウンターを食らって失点した。

僕が今の中学に来てから勝てば県大会のゲームを6つも接戦で落としている。おそらく僕に指導者として勝たせるという才はない。Jリーグならとっくにクビになっている。

前の学校の時も僕の後任の野球出身の後輩がすぐに2大会連続で県大会に連れて行ってくれた。そういうのはある。運だとか、そういう星の下に生まれるだとか。

しかし毎回あと少し足りない''不思議''を運命だとか、そんな僕の力ではどうしようもないことに頼らずに変えていけるためには僕らには何が足りないのか?

そんなことを考えてみた。

僕が来てから2年間、選手達はサッカーが上手になっていくのがわかった。これは僕に指導者の才があったと言うよりは、元々子ども達がもっていたポテンシャルが恵まれた環境と温かいサポートの中で開いていった感覚である。

ホームとする人工芝のグラウンドで毎週のようにゲームができればボコボコのグラウンドでゲームをするよりはパスが繋がるし、コントロールもしやすいからより自分たちのやりたいサッカーができる。頭にリソースを割くことができると自然と選手達も深くサッカーを考えるようになる。B-upの立ち位置や数的優位の振る舞い、クロスの送り先に、ドリブルのコースに運ぶ速さ、これぞサッカーのおもしろさだよなというところを味わい始めているのがわかる。土のグラウンドでやる時よりも怪我も減るから強度も上がる。加えてサッカー狂いの3人の顧問で部活動を見ているとなれば、それは当然上手くはなる。そういう意味で他の公立中学校と一線を画した部分があると思っている。

公立の中体連のイメージをもった上で見てくださる指導者達からは、その''らしくない''感じを褒めてもらうことが増えた。

そして必ず言われる''で、なんで勝てないの?''に僕は笑って’’僕にセンスがないからですかね?''と返す。

とりあえずその場を繕うために曖昧なセンスという言葉に逃げるけれど、先天的な才能のニュアンスで使われるいわゆるセンスという言葉を本当は使いたくない。

僕の中でセンスは一緒に働いた美術の先生がくれた言葉で定義できているからだ。

「センスって圧倒的な知識量のことだから」

わかる。世間の解釈の中に僕らの手ではどうしようもない生まれもった天賦の才みたいなのがあるのは理解している。

それでも育成に携わる人間、自分の名前の後に先生を背負って生きている人間として、自分の定義の中でセンスを作ることをあきらめてしまうことはこの仕事への冒涜のような気がしてしまうから、僕は若さゆえ世間の見えなさを理由に自分の解釈の中で生きてみることにする。

となると僕に足りないのは、上手さに強さが伴うまでの知識である。一見運に見えそうなそれも強さになるまで不足を考え抜き、知識で埋めるのである。

今年、僕らの上手さは強さになり切れなかった

年内最後のTR前にミーティングをした。

「1年間お疲れ様」

「したっ」

「今年みんなとこうしてサッカーをやってきて思うことは、シンプルにみんな上手くなったなってことなのね、そう思わない?」

「思います」

「パレット(パレットごてんば:自分たちのホームグラウンド)の勝率をざっと調べてみたんだけど、どれぐらいだと思う?」

「5、6割?」

「いいや、8割」

「そんなに!」

「うん。それはすごいことだと思うのね。ボールを持った時の上手さに加えて、ボールを持っていない時のチーム全体としての振る舞いから上手さを感じるようになった。そして何よりちゃんと僕ら大人と同じようにサッカーを楽しんでるなって感じるのよね。相手の1stプレスの枚数によってB-upの形を変えたり、ブロックの位置を変えてカウンターに出たり。ちゃんと戦略レベルの話でサッカーをおもしろがれている。多くの中学がボールを持つことを恐れてノージャッジで蹴って、たまに入ったゴールにサッカーのおもしろさを感じる中で、より深くサッカーをおもしろがれた。それってすごく幸せなことだし、望んだ結果こそ得られなかったけれど、みんなの成果なんだと思うのよね。十分誇るに足りると思うのよね、よく頑張ったね」

「(拍手)」

「立ち位置、配置の最適化は最も効率よくゴールまで、勝ちの確率が高いところまで運ぶことだと思っていて、それが僕らの生命線だった。だからパレットでは強さがあった。ただその1本もっている強さを奪われた時、例えばグラウンドコンディションやコンペティションの緊張感が強く掛かった時、

U -15サッカー選手権東部大会2回戦
(ボコボコの河川敷と強風)0-2
U -15サッカー選手権県大会対浜松開誠館
(大雨でボールの走らないピッチ)0-10
中体連準決勝(濃霧)1-3
U -14サッカー選手権東部大会
(雨上がりぐちゃぐちゃのピッチと強風)1-2
U -13サッカー選手権東部大会
(雨上がりぐちゃぐちゃのピッチ)0-1

今年、僕らの上手さは強さになり切れなかったんだよね」

「数えられるほどの負け試合は一見不運に見えるような試合だったけれど、不運でもなんでもない、強ければ勝てたそれだけの話なの」

「じゃあ今年、強さになり切らなかったみんなの上手さを強さに昇華させるためにできることは何があるだろう?」

僕らに足りなかった知識は何か?

今年も目標に少し手を掛けて落とす度に、二度とこんな悔しくて恥ずかしい思いをしてたまるかとサッカーに向き合った。サッカーを仕事にしているわけではないからすべてをそこに捧げることができたわけではないけれど、自分に足りない指導者としてのセンスを作るための知識になりそうなものは時間が許す限り取りに行った。それでも足りなかった知識は結局、「自分はサッカーを仕事にしているわけではない」を理由に自分を守れてしまったことによる不勉強にある。情けない。

それでも今年、僕の少ない学びの中でも彼らのサッカーは進み、ちゃんとサッカーになり始めた自信だってある。

今あるもの、そして足りないものを簡単に「強い気持ち」と括ってしまう前に、その強い気持ちとやらを限りなく細かくして、丁寧に理解した先で「強い気持ち」とまとめてみるとしたい。

①立ち位置、配置の最適化がもたらしたもの

僕らは公立の中体連のチームであるため、基本的にはその地区の少年団の選手を主体に数名ずつが地区の街クラブから集まって成り立っている。セレクションをして集まってきているわけではなく、むしろそこに残れなかったけれどサッカーが好きで選んできてくれた選手の集まりである。大きな選抜歴のある選手が集まることは稀であり、静岡県東部の田舎のタレントプールの減少、街クラブの乱立によるチームの諸問題は例外なく僕らのチームが直面する問題でもある。

そんな僕らが生き残るためには、立ち位置、配置の最適化により効率よくストロングとなるところまでボールを運び、ゴールまでをデザインすることにあると考えている。ある程度の約束事の上で選手それぞれがよさを出しながら、丁寧にサッカーをすることを求めている。約束事やルールの上でプレーと聞くとオートマチックで選手の判断は置いていかれているような感じがするが、否。僕らはそれぞれの局面にあった最適解を丁寧に伝え、プレーを選べるような選択肢を伝えているぐらいのイメージである。丁寧過ぎるぐらいだが、何も伝えられないよりはいい。(指導者がピッチに響かせる「考えろよ」という怒号は「僕にはこの局面をなんとかする術がないのでお手上げです」を意味していると考えている)このスタンスでやっていると選手たちは、サッカーの楽しみ方を大きな枠組みの中で考えるようになる。1年前は「1対1で抜けた」「シュートが決まった」におもしろさを終始させていた選手達は、相手の出方にどんな構造をぶつければスムーズな前進が生まれるか、相手の強さを最小化するためにはどんな構造をいつぶつける必要があるか、そんな駆け引きもサッカーのおもしろさとして捉えるようになった。また、僕らが戦うステージでは非保持局面においてオーガナイズのあるチームは少なく、高校生相手であってもある程度ボール保持できてしまう点も組織が個人の不足を補えるチームスポーツのおもしろさだと感じてくれている点であろう。

僕らの戦うカテゴリーは良くも悪くも指導者のこだわりがピッチに出る。オーガナイズがあるかどうかも指導者の頭の中が反映される。子ども達が次のカテゴリーに行った時にサッカーを教われる環境になく、トレンドの流れに乗れない指導者の下、サッカーの本当のおもしろさにたどり着くことなく競争の結果のみでサッカーを続けるかどうかを決めてしまうことがどれだけ悲しいことかを知っているからこそ、僕は僕の知っているサッカーのおもしろさをカテゴリーに関係なく余すことなく伝えていきたいのである。

子ども達はサッカーが好きになった。保護者に「うちの子はサッカーするために学校に行ってるんじゃないか?」と言われてしまうぐらい部活を楽しみにしてくれる選手が増えた。

こういうサッカーの文脈の中だからこそ選手は僕らの想像を超えて上手くなった。それはとても素晴らしいことで、僕らも自信にしている。

ただ足りないことだってある。

サッカーを学んでいる彼らのサッカーはひとつひとつのプレーに説明がつくようになってきた。きれいなサッカーをするなぁと感心することがある。

例えば相手ゴールに背を向けている選手へのパスはコントロールが難しい。そのためターンはせずに前向きの選手をセットで用意してボールを進めていく。

外から中、斜め前へのスペースへのパスも、プレースピードを上げてミスが生まれやすいからおすすめはしていない。

理解が進むとチームとして大きなエラーが減ってきた。

しかしだ。属人的なエラーを組織で埋めようとした時、育成年代において、違う文脈の中では個人に突きつけられた課題だって失ってしまっていた可能性がある。無理にターンする選手が生まれない可能性もある。

冬休み、w-upでリフティングをやってみた。これまでチームのTRの中でリフティングをやったことがなかったから知らなかったけれど、全然できない。

上手いなと感じた選手達だけど、もしかしたらゲームモデルの文脈の上で上手く見えただけ、だったかもしれない。下手に見えないような約束事の中で、ミスが少なかっただけで本当に上手くなったわけではないのかもしれない。

次のカテゴリーで花開くことを願って日々TRしているのに、あまりにきれいなサッカーにこだわりすぎたのかもしれない。

良いサッカー、悪いサッカーがないように、きっときれいなサッカー、汚いサッカーなんてものもない。ただあえて汚いサッカーを、オーガナイズなくともひたすら蹴ったり、走ったり、とにかく泥臭く、一生懸命声出して、と定義するなら僕らにはそこが足りない。

僕らが戦うカテゴリーではいくらパレットで強かろうと、理不尽な環境で慣れない土俵での勝負に勝たないと上には上がれない。

今年そんな環境の中で落としたゲームは汚いサッカーだなんて評するにはとても失礼ぐらい、一生懸命サッカーをするむしろ美しいチームに敗れたのである。

だとすると僕らが知っているサッカーはまだまだ少ない。これから先、違うサッカーでプレーすることを求められた時に知らないがゆえに「こんなのサッカーじゃない」なんてこぼす選手が出てくるかもしれないが、

違うんだよ、全部サッカーなんだって。

②僕のやさしさがもたらしたもの

僕は自分で言うのもなんだけど、とにかく人としてやさしい人間である。このやさしさはとにかく人を育てる。教室でグラウンドで子ども達が変わっていくのはこのやさしさがあるからだとも思っている。加えて丁寧でもある。この仕事に就いてから、丁寧に言葉を選ぶようになったからか、思いが僕の思いのまま届いているのを実感する。そんな自分でいると尊敬してくれる人が増えた。選手も、保護者もそう。僕の言葉を大切にして進んでくれている。

前の学校ではJユースに進んだ選手もいれば、選手権で静学相手に1年生で出場した選手もいる。今の学校に行く時は「すごい先生が来る」と行く前から保護者が僕のことを知ってくれていた。

それが良いこともあれば、悪いこともある。前の学校では小さな学校だから部員も今の半分で、一人一人を丁寧に見れた分一層僕への尊敬が強かった。怖さで締めつけていたわけではないが、尊敬する僕の言うことは正しいという感じがあった。

僕が離れた後、これまであと一歩で県大会を逃していたチームは野球出身の後輩の下、2大会連続で県大会出場を決めた。でもこれは僕に運がなかったからではない。後輩に指導者としての才があったのだ。

僕の後輩はやさしさがありながら、僕にはない強さもあった。サッカーを知らないからと選手達のサポートに徹してくれて、自分は何の手柄も取らない強さがあった。選手達は自分達でTRを選び、ゲームのプランまで決めた。

僕が離れて強くなったのにはちゃんと理由がある。僕がいたら僕がTRからゲームプランまですべてを決めてしまっていたから、僕がハマれば強いし、僕が間違えると弱かった。頼りすぎてしまう、という言葉が似合うだろうか。しかし僕がいなくなってからはピッチの選手達が感じた最適解で、ピッチの温度で闘うことができた。僕は選手を大きくすることはできても、出力が下手な指導者だった。

僕は後輩から指導者の在り方を学ぶことになった。

他にもこのやさしさは勝負の世界に身を置く時に邪魔をすることがある。

僕のやさしさにはきっと僕自身の弱さが混じっている。

選手の苦しい顔や悲しい顔を見たくなくて、そうなる前につい助けてしまうのは悪い方のやさしさが出ている時である。

毎日つけるTRノートをパラっと見返すと、オーガナイズがどうだったか、サイズ感はどうだったか、そんな「ちょうど良さ」ばかりを振り返った楽しく丁寧にサッカーをするためのものが多く、無意識的にTRの理不尽を避けている傾向がある。そのどのページにも「フルコートの1対1」や「きついスプリントのTR」が出てこない。時間がない公立中体連の部活動だからとまず楽しいゲームを選択している。ちょっと歯を食いしばってボールを追いかける、おいそりゃ無茶だろやまだ!、そんなトレーニングの理不尽は登場しない。でも無理ができるようになること、は上手さを強さに昇華させるって札先輩は言ってた。僕は自分の指導は間違っていないと思っているけれど、そんなエッセンスを加えることも必要なんだって思い知らされた。

そう考えるとやさしさではないな、僕のそれは選手から嫌われたくない甘さだ。苦しいことをさせて選手が離れていくことを避けた甘さだ。僕が変わらない限り、選手は上手くなることはあっても強くはならない。

いつも勝っている大御所指導者は、怖さで無理をさせている。そういうチームは強い。徹底しておもしろくないけど強いサッカーをベンチの顔色を伺いながらしている。

僕はそうはさせたくないから、ちゃんと勉強してデザインされた理不尽を作りたい。

最近これまでの4231から343でゲームをしている。きついけれど前からガンガンプレスに出ている。WBにこれまでボランチだったチームの10番を置いている。きついって言いながら頑張ってくれている。うちにいるのはそんな好きなことなら歯食いしばって頑張れる選手達だったことを忘れていた。僕が勝手に彼らの限界を決めていたのだ。強くなりたい。

ちなみにやさしいのにモテないのはなぜか?顔か?

③僕のサッカーへの理解の不足がもたらしたもの

2年前の僕はきっとどんなに劣悪なグラウンドでも自分たちのサッカーにこだわった。自分自身の浅いフィロソフィーをこじらせて「繋ごう」と響かせた。それでも今はあの頃よりは幾分リアリストである。「いや同数なら蹴ろう、不利でも勝てるから蹴ろう」優位が取れると見れば徹底して蹴った。今年落としたゲームはそんなゲームだったけれど、それでも負けている。

きっとこれにはまだまだ浅い僕のサッカーへの理解が起因している。僕は公式戦となるとまだ冷静でいられない。見えるものが少なくなりゲームプランを間違える。

その度にあと2人の優秀な顧問に助けられる。「これむしろ丁寧にCBに運ばせた方がいいかもしれないっす」今年もたくさん助けられた。ありがとう。

慣れない541を落とし込めず前半だけで9点取られた開誠館戦、いつも通り自分達でボール動かしたいと選手達の要望通りにポジションを戻して1失点に抑えたゲームの後半はとてもいいゲームだった。ピッチの温度で戦うことは選手を信頼することである。

色んなことを間違えるのは僕がまだまだサッカーというスポーツがよくわかっていないということでもある。電話番号や相手の特徴掴むのに時間が掛かるのも不勉強と準備不足。

予めスカウティングどうやんねん!と言い訳したかったけれど、開誠館後には忍者先輩に「いゃ本気だったら情報取れたでしょ?」と言われて恥ずかしかった。

まだまだ覚悟が足りない。

ちなみに今年ソーニョのスタッフとしてベンチ入りしたゲームはちゃんと色んなものが見えてJ下部喰いにちょっと貢献できた気がするから、冷静であるというのは大事なのである。M-1も同じね。

もっと勉強しなければ。

④結局、強い気持ち

「強さになり切らなかったみんなの上手さを強さに昇華させるためにできることは何があるだろう?」

「…」

「俺はね、この「上手さ」を「強さ」に昇華させるために必要なことは、いつも100%を注げることだと思ってるのね。じゃあこの「いつも」っていつだと思う?」

「普段の部活のTR」

「そうね、当然よね。他は?」

「アップ」「うん」「準備、片付け」「いいね」「学校生活」「そうね。ぐらい?」

「別に怒ってるわけではないんだけど、「いつも」ってのは「いつも」なのよ。24時間「いつも」なの」

「想像できるものの少なさが、日常のクオリティを決めてしまうんだよね。どんな時も100%を注ぐの。人間そんな器用じゃないから、この試合は100%出そうと思っても、普段100%で戦えない人間が都合よくその時間だけ100%出そうなんて無理なのよ。だからね、日常から変えていくの。ふと今ここを振り返った時に、あれ今俺100%じゃねぇなって。あ、物事に優劣つけてるわって。これはこれぐらいでいいやってなっちゃダメなんだよね。結局ね、立派な戦術もみんなが培っきた技術も強い気持ちの上に成るのよ」

「報われなかった今年もいい年だったね。来年絶対に笑ってやろうぜ」

エピローグ

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」

今年も望んだ結果は得られなかった。不思議に勝ってしまうこともなかった。サッカーもそうだし、長縄も合唱もそうだし、仕事もプライベートも大きな成果は得られず、ステップアップし世にバレていく友達や教え子達をテキストで喜びながら、鏡に映る何者にもなれない自分はその何倍も悔しくて情けない顔を浮かべている。教え子のJリーグ内定を喜ぶ度に、そうはなれなかった教え子といつか笑ってやろうと誓い合っている。

ただ理由ははっきりしていて、僕には、僕らには足りなかった。負ける理由を不運に返したくなる日から少し痛みが消えて、こうして足りない理由をロジカルに返す。

それでも申し訳ないが、世の中そんな簡単なものでもないようだね。負けた理由を排除しても、実はそこに理由はなかったりする。諸悪の根源を名指して取り除いても、片づくような単純な話ではなく、もっと複合的な何かがあるというじゃないか。ならどうしろと?

せっかくの努力が報われない時間は心のがんで自信を蝕んでいくけれど、ホンモノになるまで、見つけてもらうまでやり続けるしかないんだよな。

令和ロマンはホンモノだった。己を磨き続けて、会場すらコントロールしていたんだから。栗山英樹は勝ち切るために必要なことは何なのか、どの分野からも探すために色んなものを見ていたというんだから。

ほら、今見つかったら恥ずかしいだろ?


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