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水色の付箋

「自分にはよいところがある」という項目の数値が少し上がったのが学級が残り数ヶ月に差し掛かった年末のこと。

''自分のことを好きでいてほしい''

僕が子ども達に願うのはそれだけである。生きている世界の狭さからどうしても教室の比較の中だけで''自分''を決めなければならない15歳は、可能性に満ち溢れているはずなのに、生きるには少し難しい。

''自分らしく生きなさい''と言うくせして、やさしさに隠された押し付けがましい自分らしさの矯正の多さに15歳は自分がわからなくなっていく。

「あれ、自分がわからない」

そんなんだから下書きで提出してくる面接カードが似ている。名前を伏せたら君がわからないよと、そんな思いでペタペタと付箋を貼り続けた。

理由もなく選んだ水色の付箋は数えると35人分で500枚を超えた。誤字の修正から、文のリズム、修飾の位置、表現の一般性まで、面接映えするよう文をお洒落に飾っていくことはするけれど、自分が大切にしていることや自分が好きだと思う自分は偽ることなく書けるように、合格に寄せるためのフィクションにならないように一緒に''自分らしさを''作っていく。

「ほら、誰かより下手だったら得意って言っちゃダメとか、自分より詳しい人がいるから好きになっちゃダメとか、寂しくない?自分が得意だと思ったら得意だし、好きだと思ったら好きでいいじゃない」

そう言って、それらしく書かれた’’本当は好きかどうかもわからない好きなこと’’や’’本当はなりたいかもわからない将来の夢に’’「本当?」と水色の付箋を貼っていく。

15歳、転ばないようにと歩きやすく舗装された道が、数年後に自分がどこを歩いているのかわからなくすることがある。転んでみてはじめて痛みを知り、傷を見て次こそはと歩き方を覚える。空の青さに気づく者がいて、足元の花に足を止める者がいる。前だけを見ていれば歩ける整った道では、自分の興味すらわからないことがある。

だから「君の中学校生活ってそんなに平坦だったっけ?」と問う。

修学旅行や体育祭は日常にあるイレギュラーだからわかりやすく思い出だけれど、別にそれだけが思い出ってわけじゃない。どうしてもイベントに霞んでしまうなんでもない日にこそちゃんと自分は潜んでいる。

暗い顔した友人にどんな言葉をかけられたか、結果の出ない日々にどれだけ前を向けたか、余裕のない時にどれだけ人にやさしくあれたか、そういうなんでもない日に自分になっていく。イレギュラーに埋もれてしまったあの日をちゃんと思い出せるように、また水色の付箋を貼る。

「自分の短所」の欄はいつも「自分の長所」よりも先に埋まる。

「僕の長所ってなんだと思います?短所はすぐに埋まったんですけど」

「短所、何?」

「メンタルが弱いことです。すぐ悩んじゃいます」

「ふーん、それじゃん?長所」

「どういうことですか?」

「今年たくさん悩んだじゃない?そのたびに相談してくたよね。でも最後はちゃんと自分で選んで解決したでしょ?」

「同じことで悩みたくないんで」

「人一倍悩んでる姿を見たけれど、ちゃんと強くなってるなって感じるの」

「なんか嬉しい」

「でさ、自分がたくさん内省してきたから人の感情の機微に気づきやすくなったんだろうね。あ、この人今きっと辛いだろうな、悩んでるんだろうなってのがわかりやすくなってない?」

「それはあります。声掛けたくなります」

「でもさ、自称メンタル強い人って結構人に興味なかったりするし、自分に自信があるからたまにある落ちてる時の感情の出所を探らないというか。自信でマスキングしちゃったりする。だから悩んでる人に対して絶対それじゃないよって言葉掛けちゃったりする。悩みやすい分、いつもほしい言葉掛けてると思うよ、よかったねメンタル弱くて。むしろそういう人がメンタル強いっていうのかも」

「それそのまま使っていいですか?」

「楽しようとすな」

学校の先生の在り方というのは、学校という狭い社会の中に生きる子ども達にとって、まだ見たことのない世界のことをちょっとだけ教えてくれる人であってほしいなと思っている。

「あ、君に似た人をこういう社会で見たことがあるよ」

「君の才能はこんな社会で必要とされるんじゃないかな」

こんなことを言ったら焼き芋が焼けそうなんだけど、子ども達の人生がどうなろうと正直僕には関係ない。マジで関係ない。興味はあるけど。「あなたの人生はこう生きるべきなのよ」とこれから先もお金をかけて育てなければならないがゆえに、多少レールを敷かざるを得ない君たちの親ほど君たちの人生に対して責任がない。

マジで責任はないと思っているから、今年1年僕は僕の好きなように君たちと過ごした。

3年生になって私たちの学校にやってきた天パ頭の先生は決まって「みんながどう生きようと俺の人生には関係ない。マジで関係ないから好きにして」と言った。私たちは決まって「サイテー」「担任失格w」と突っ込んでは自分の人生を生き始めた。

僕とみんなはどうせ今年1年の付き合いだし、もう会うこともないだろうから好き勝手なことを言った。「俺が…だったら、自分のことめっちゃ好きだけどね」「俺そのセンスあったら絶対そっちの道行くわw」どうなってくれてもいいから勝手なことを言った。僕に映ったみんなの好きなところをちゃんと好きだって言った。だけど責任は取れないから僕の言葉でそっちの道に進んで、なんか違ったとしてもお願いだから訪ねて来ないでほしい。

私はこの人の言葉で進路を決めた。「…のこの才能ってこういう人を幸せにできるかもしれないね。だからこういう系の職業がいいかも。資格は…あーこの資格がいるね。となると、…こういう学部のある大学かなーおもしろそうだね」「その道に進みたいです」「いいと思うよ、おもしろそうだし。知らんけど」この人は最後に必ず「知らんけど」と言う。一貫して私たちの人生に責任を取らないつもりでいるのだ。

僕に憧れて僕みたいになりたいという子が毎年一定数いる。絶対に遊んで金貰ってると思われてる。だから言ってやる「なめんなよ」って。

「担任の先生みたいになりたいです」校内の面接練習で言った。「いつもふざけてるように見えるのに、ちゃんと僕たちのことを見てくれている。細かすぎるぐらい見てくれる。そしてちゃんと好きだと言ってくれる人です」

帰り際に面接練習をしてくれた先生に声を掛けられた。「今日さ、先生のクラスの…が先生のこと尊敬してるって言ってたよ」「マジっすか、嬉しいんですけどアイツそれ先生通して僕のところに伝わる未来見えて言ってますからね」「嬉しいくせに」「ははは」帰りにちょっといいコンビニスイーツを買った。

うちのクラスだけ面接練習が変だ。「このペンを1万円で売ってください」とか「面接官のうちどちらかが妖怪です。妖怪はどちらでしょうか?…妖怪どっち」担任は「ほら、練習の方が難易度高い方が本番楽っしょ?」と言うけれど、あれは絶対自分で楽しんでるだけ。マジでうざい。

面接のための面接練習にしたくなくてちょっと変わった面接を繰り返している。自分はこう思うをちゃんと言える人が絶対に自分の人生を生きることができる人だと僕は信じている。この間「1〜100までで好きな数字書いて。書いた数字絶対に変えちゃダメね、はいでは面接を始めます。今書いた数字はあなたが担任である僕につけた点数です。その理由を教えてください」…二度とやらない。

僕がなりたいなと思う大人は、ちょっと不安の多かった15歳の頃の僕が出逢いたかった大人である。可能性の多さに何を選んでよいかわからず潰されてしまいそうになった時に、「そういうところが好きだな」と生きる道を教えてくれる水色の付箋を貼ってくれる大人がほしかった。

子どもは間違いなく出逢った大人に導かれる。自分がわからない時に、外から見える僕を教えてくれる人の一言でちゃんと歩いてこれたよなって僕は思う。

私は思う「君はどう思う?」そう聞いてくれる大人が近くにいるか、色んなことを見てきた大人が言う「君にはこんないいところがあるよね」はとにかく子どもに響くことを伝えておきたい。

「ちょっと自分のことが好きになりました」

「俺のおかげだね」

「そういうとこですよ」


















「俺は自分のそういうとこ好きだけどね」

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