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✏️カエルのゾゾ⑤-②

どうしようもなく、意地っ張りなカエルの物語。



 登り、下り、落ちる。岩壁に挑み続けてきたゾゾの身体は数多の疵で痛々しい姿になっていた。そんな自分の姿を見て、
 「おれも疵だらけだな」
 …と思い出すようにいった。
 岩壁に張りついているゾゾは不意に振り向いた。そこからは井戸の世界が一望できた。
 村が見える。丘が見える。そこに建つ劇場が見える。眼下には森の茂みが鬱葱としている。
 それは村の誰も見たことのない景色だった。
 ゾゾだけがこうして目にしている。
 「…」
 井戸の世界は小さかった。この世界が全てだと信じていた。だが、どうだろうか。世界は岩壁に囲まれ、実はどこにもいき先がないのだ。おれはこの中を延々とさまよい、自由の在処を求め、気が狂いそうな思いを抱いていたのか。
 ゾゾは視線を正面に戻すと、ひと息ついて、再び岩壁を登りはじめた。空は快晴、見通しが良い。
 一段、また一段。
 岩壁を掴む前肢が痛い。
 一段、また一段。
 登る度に息を大きく吐き、体力も精神も、すり減っていくのがわかる。
 それにしても今日はなんて静かなんだ。いつもゲコゲコ聴こえてくる歌声がひとつとして聴こえてこないじゃないか。
 これはいい。そのまま黙っておいてくれよ。
 一段、また一段。登っていく。

 この記念すべき日に村中のカエルや、オタマジャクシが劇場へ集っていた。雨は降らないかと心配していたが、この晴れ模様だと、どうやらいらぬ心配らしい。観客席はがやがや賑わっている。
 合唱際で勇姿を披露する若ものたちは本番を前に、声を休め、精神統一に努めていた。ここ一番の大舞台なのだ、緊張しないはずがない。彼らはこのときのために唄い、励んできたといってもいいのだから。
 舞台袖にいる若ものたちは、観客席を覗くとかちこちに固まって、顔をまっ赤にしたりした。
 あの娘が来ている。
 意中の相手がいる若ものの誰もが、そう胸の内側でつぶやき、周りの観客のことなど他所に、視線はその一点のみ釘づけにされていた。
 彼らの両親や、年長者たちにもそういうほろ甘い思春期があったものだから、舞台袖の若ものの姿を発見すると思わず微笑した。告白を受ける彼女たちは、彼女たちで、わかってはいるのだが、いざそのときがくるのだと思うと、頬を赤くし目を伏せて、いかにも恥ずかしそうにする様であった。観客席の前列に座る長老はうんうん頷いて嬉しそうにしている。
 長老は観客席を見渡した。
 「さて、そろそろ、頃合いじゃのう。ええ、では皆さん、これから村の担い手になっていく若ものたちへまずは拍手をお願いしようかのう」
 それに続いて観客席からは一斉に拍手が喝采した。長老は頷いてから、舞台を見た。
 舞台袖にいるノケは、観客席にいる長老を目の辺りにすると、胸の動悸が激しく高鳴るのを感じた。そして、その周囲にいる村中のカエルたちに戦慄さえした。
 ぼくは…ぼくは、歌えるのか? 本当に歌えるのか? ぼくの目の前にいるこの観衆こそ、現実そのものではないか。たかだか、ぼく一匹の歌でなにかを変えることなんてできるのか?
 そのとき、ノケの視線は遙か遠方にそびえる世界の岩壁に向いた。
 「さあ、合唱際のはじまりじゃ」
 長老の一声で賑わいが静かになると、観客席の全員の眼差しが舞台に注目する。
 いよいよ、若ものたちの一世一代の大仕事がはじまるのだ。
 舞台に一匹のカエルが姿を現せた。
 「エントリーナンバー一番、ソロ。あの娘のために唄います!」
 おおぉ!歓声があがった。
 ゲ〜コゲコ、ゲ〜コゲコ。クワッ、クワッ。
 ゲコゲ〜コ、ゲコゲ〜コ。クワッ、クワッ。
 自分の順番が回ってくるあいだ、若ものたちは舞台袖からその様子を窺っている。誰もの視線が舞台に注がれている中で、ノケだけは岩壁を注意深く見ていた。
 小さな影が動いているのがわかる。あれはゾゾだと、ノケははっきり感じ取っていた。いや、あんなところにいるのは、ゾゾをおいて他にいない。
 ノケはそこから目が離せなかった。
 ノケの出番に回ってきてもしばらくは気がつかず、隣のものに声をかけられるまでただ唖然としていたくらいだ。
 ノケが舞台に立つと拍手が鳴る。ノケは唄おうとしたが、どうしたことかなにも口にしようとはしない。彼の意識はまだ遠くで岩壁に登るゾゾに向けられていた。
 微動だとしないノケを見咎めた長老がごほんと咳をして、無言の注意を促すと、ノケははっと驚き、ようやく歌を唄いだした。
 ゲ〜コゲコ、ゲ〜コゲコ。クワッ、クワッ。
 さすがだった。ノケの歌声は素晴らしく透き通っている。観客たちは聴きほれていた。これはノケがのど自慢に選ばれるな。大半のカエルがそう思っていた。
 素直に型通りの歌を唄っていれば、なにも問題はなかっただろうに…。ノケはやはりゾゾの馴染みだ。似ているところがある。つまりは、偏屈者なのだ。
 ノケはゾゾに約束した。歌を届けると。しかし、ただ遠くに向かって歌を唄えばいいわけではない。それは確かにノケの歌声かもしれないが、それはただの歌だ。ノケが唄いたいのは、自分の想いだった。
 ゾゾ、君に届くかい、この歌声は? いや、届かないだろうな。ただの雑音にしか聴こえていないんじゃないか。
 ゲ〜コゲコ、ゲ〜コゲほ…
 そこで急に劇場がしんと静まった。ノケは構うことなく、視線を遠くに見据えていた。
 ぽつ、ぽつ…雨が降ってくる。晴れていた空は、曇り覆われていた。
 「どうしたんだね、ノケ?」
 長老のことばにもまるで反応しない。
 舞台袖にいる連中もいったいなにが起きているのか、意味がわかっていない。
 観客席ががやがやしだした。
 そのときだった。ようやくノケがもう一度唄いだした。
 長老は怪訝に眉間をしわをよせ、首を左右に振った。観客たちも不思議そうな顔で、ノケをじっと見ていた。舞台袖の連中は隣合うもの同士囁いた。
 あいつはなにを唄っているんだ?
 そう、ノケが口にしているのは誰もが聴いたことも唄ったこともない歌だったのだ。
 ノケ自身、なぜそう感じたのかはわからない。だが、いまこのとき唄わなければ、きっと後悔するだろうと思った。
 ゾゾ、これがぼくの自由の歌だ。ノケは高く遠くにいるゾゾへ届ける思いで力強く唄いだした。


⑤-3へ続く

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