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✏️カエルのゾゾ③-2

どうしようもなく、意地っ張りなカエルの物語。

どこへいけばいいのかも判らず、ただ岩壁に沿って飛び跳ねていくと、気がついたときにはそこへたどり着いていた。ゾゾは森の入口の前に立っている。
 確かに村のいい伝えは本当なのかもしれない。森の中からはなんと不気味な雰囲気が醸し出されているのだろうか。臆病さのあまりそう感じてしまっているだけなのかもしれないが、実際、自分から進んで中に入ろうとは思えないのも事実だ。なにもかも呑み込んでしまいそうな暗さが漂っていた。向こうからは音すら聞こえてこない。森の奥にカエルを食らう悪魔がいるんだなと想像力が働き、恐怖心は余計に膨れ上がってくる。森の奥深くをじっと見つめた。ぶるっと身震いする。四肢がすくんだ。ゾゾは森から逃げ出したくなってきた。
 ちょうどそのときだ。夜が明け、朝がやってくる。ゲコゲコ聴こえてくるのは時間の問題だろう。
 ……。
 ……。
 ほら、聴こえてきた。
 今日も恒例の〈合唱〉がはじまった。
 ゾゾはうんざりした。ダメだ。戻ればまた自由なき世界で苦悩し、さまよい疲れ果てるまで往来し続けることになる。もしかしたら、この森が最後の望みなのかもしれない…。
 意識ぼんやりと、半ば諦めた様子でゾゾの足取りは誘われるようにして森の中へ進んでいった。本当に悪魔がいたならば…おれは食われ、終わりだ。それはそれでいいのかもしれない。もうなにごとにも思い煩う必要がなくなるのだから、自由といえば自由ではないか。そう考えると四肢は自然軽くなり、どんどん突き進んでいく。多くの樹木によって覆われている森の中は鬱葱として、見上げてもそこに空はなく、ただ緑いっぱいの木の葉があるだけだ。どうも陰気くさかった。もう朝方だというのに森の中は薄暗く、それが辺りいっぺんにまで続いているのだから、塞がった気分に陥りそうだった。でも、あのゲコゲコうるさい歌声が聴こえてこないことだけはゾゾにとっての救いであった。
 どうやらずいぶん奥深くにまで来たらしい。どこもかしこも森の暗さに閉ざされている。ゾゾはいよいよ不安になってきた。同時に覚悟もしたし、安楽な心持ちに浸りさえした。
 さらに奥深くまでいこうとした。
 「ダレダ…?」
 しわがれた声が聞こえてくる。
 「ダレダ?」
 声は少しずつ近づいてきた。
 ゾゾは息を呑み、その場に立ちすくんだ。悪魔だ。悪魔は本当にいたんだ。さあ、おれを食え。食うがいいさ。これで不自由ともおさらばだ。
 声の主が暗闇から姿を現した。鈍重な動きで近づいてくる。正体がよく判らない。
 前肢が見えた。さらに一歩前出てくると、もう片方の前肢が半分ばかりなくなっているのが判る。後ろ足も同じように、片方だけがなくなっていた。四肢の半分を失い、身体中には無数の疵あとが残っている。
 ゾゾは、ことばも出ず、身体も動かず、呆けたようになっていた。
 「おい。おい!」
 「…」
 「いったいどうしちまったんだね、え?若いの」
 「はは、は、は、は」
 言っておくが、ゾゾの気が狂ったのではない。
 目の当たりにしたのは悪魔でも怪物でもなんでもなかった。井戸の世界の誰もがそうであるように、ゾゾ自身がそうであるように、声の主もまた一匹のカエルだったのだ。容姿は少しばかり違うようだが。
 「いや、失礼した。てっきり、森の悪魔かと思って」
 すっかり気を取り直したゾゾは安心しきった様子で、その年老いたカエルを見た。
 「森の悪魔か、若い連中はまだその伝説に怯えているのかね。長いあいだ生きてきたが、そんなものはいやしなかったよ。まやかしじゃて。
 いや、それにしても…同族と会うのはずいぶん久しぶりだ」
 老カエルは冷ややかな眼差しでゾゾをまじまじと見つめていた。あらゆる事柄を知り尽くしている年長者独特の達観した目つきだ。いっぽうで、悪魔でないとわかったゾゾだが、老カエルの異様な姿に別の畏怖する感情を抱いていた。そのことに気がついて老カエルはいった。
 「わしが珍しいかね?まあ、そうだろうな。これは代償じゃよ。なにかを成し遂げようとすれば、代償を支払わなければならん。おっと、そんなことはお前さんには関係ないか。もう村へ帰るがよい。ここはお前さんのような若いカエルが来る場所ではない。歌の練習があるのだろう。ふん、歌か。唄うことがそうも楽しいものかね」
 老カエルのことばを聞いていると、ゾゾはなぜだかわからないが正直に自分の気持ちを伝えてみようと思えた。
 「いいや、楽しくなんてないよ。おれは歌なんかよりも空を眺めているほうがよっぽど好きなのさ」
 「ほう、空をかね。お前さんも少しばかりひねくれもののようじゃな。すると、あの〈合唱〉から逃げ出してきたというわけか。それでここまでやってきたというのか。それにしては変だな。悪魔に怯えていたくせに、わざわざのこのこやってくるとは」
 「それは…自由になれると思ったからだよ」
 ゾゾは自分のことではないようにいった。まるで諦め口調であった。長老は最初考え、ふむと頷き、ゾゾを叱咤するかのような厳しい眼差しを向けた。
 「悪魔に食われてかね? ふん、馬鹿馬鹿しい。そんなもの自由とはいえんわ。食われたらそこでおしまいじゃ。自由を感じることすらない。諦めることが自由だというなら、てんで、馬鹿者じゃて、お前さんは。諦めとは納得を捨てること。納得なき生き方に、自由はないとは思えんかね?」
 ゾゾは反論の余地もなく口ごもってしまった。
 「やれやれ、図星かね。どれ、わしについてきなさい」
 引っ張るような口調でいわれたので、ゾゾはやむを得ず老カエルのあとを追うことにした。
 老カエルは身体が不自由なので、二匹で移動しようにもとても時間がかかった。老カエルは口が重たかった。道中あまり話さなかったが、ゾゾは気になることが多少なりともあったので、たまに質問したりした。
 「あなたの名前は?」
 「お前さんの好きなように呼ぶがいい。名前なんぞ、とうの昔に忘れちまったからな」
 そう言われたので、ゾゾは老カエルのことを「疵だらけ」と呼ぼうと思った。全身が痛々しい姿をしているからだ。でもそれを直接言うと老カエルが怒りだしはしないかと心配したので、胸の内で静かにつぶやくことにした。おれはゾゾだ、と名乗っておいた。
 「村であなたの姿を見たことがないけれど、ずっと〈禁断の森〉で暮らしているのか?」
 「いいや、わしも若いころは村の一員だったよ。だが、森で暮らす年月の方が長いのは確かだね。お前さんといっしょで、歌なんかよりは空の方が好きだった」
 疵だらけは自嘲気味に笑った。
 「ところでお前さんはなぜ空が好きなのだね?」
 「ことばにするほど特別な理由はないんだけれどね。ただなんというか、さっきもいったとおりだよ。自由なんだ。いや、そう感じるだけれど」
 「すると、自由を感じなければならないほど、お前さんは不自由だとでもいうのか?」
 「おれは歌も唄えないようなカエルなんだ。音痴でね。駄目なやつってことだろ、それって。いいわけに聞こえるかもしれないけど、おれは歌に自分の生き甲斐を見出せなかったんだ。嫌な思いをしながら唄い続ける一生なんて、考えるだけでうんざりするよ」
 疵だらけは、ふうむなるほどのう、と深く声を漏らして頷き、ゾゾに同情しているみたいだった。
 「お前さんのいうことはわかるとも。しかしな、若いの。時には不自由なほうがこの世では生きやすかったりするものじゃて。自由、自由といい続けたところで、それが他者にとっても自由とは限らないだろ。けっきょくは多数の感じる自由が優先されてしまうのだから、少数の自由などはそれらからすれば極めて理解し難く、むしろ不自由かもしれんぞ。お前さんさえ我慢することができれば、不自由の中でも、そのお前さんのいう自由を感じる瞬間は少しばかりともあるだろう。そう考えたことはないかね?」
 「…」
 「まあ難しいことだがのう。頭で考えれば簡単なことのように思えるが、そうはいかんのが我々カエルじゃ。誰にでも自由はある。だからこそ、わかりにくいところじゃよ」
 それからまたしばらく二匹は無言になった。
 疵だらけが立ち止まった。どうやら目的とする場所にたどり着いたようだ。前方の岩壁によって、あとに道はない。
 「ここになにがあるんだ?」
 ゾゾはいぶかしがった。
 「見れば判るだろ、岩壁じゃ」
 ますます判らない。疵だらけはそれに構わず、言葉を継いだ。
 「わしもお前さんくらいのときには自由だなんだといっていたものよ。歌も唄わず、空ばかり眺める日々を送っていた。だがな、それをよしとしない連中がいた。なぜわしだけの自由が許されなかったのか、それはいまだ謎のままだがな。そういう連中に限って、唄い上手だったりする。もちろん、やつらにわしの自由を妨げる権利はどこにもない。わしは猛抗議したよ。でもそれでも、なにが不服なのか、連中はわしに唄うことを強要してきよった。連中は唄い上手だから、それに賛同するものが続々と現れてなあ、どいつもこいつもわしに避難のことばを浴びせてきよったよ」
 疵だらけはひと息ついてから、またはなした。
 「わしはとても窮屈だった。でもそれは井戸の世界で生きているなら仕方のないことだとも思った」
 「抗えないことだったのか?」
 「それが井戸の世界というものよ」
 「…」
 「わしはな、嫌気をさしたんじゃ、この世界に。お前さんと同じじゃて、けっきょくは森へ逃げてくるしかなかった。そう、悪魔に食われれば、それでもいいかと諦めの気持ちもあったよ。しかし悪魔はいなかった。遠い昔のカエルたちは、この森があらゆるものの逃げ場所だと知っていたのかもしれんな。だから、悪魔だなんだと不安をつくりあげ、いく先がそこしかないと信じ込ませたのだろう。逃げ場所がなくなれば、誰もがひとつのルールに頷くしかないんだからのう。〈禁断の森〉などとたいそうなネーミングまでつけてな」
 おっといかん、いかん、話がそれてばっかりじゃ、と頭を左右に振り、もう一度、はなし直すようにして、岩壁を見上げた。
 「そうそう、それでな、森でしばらくはひっそり暮らしていたんじゃ。そうするとなあ、あるひとつの真実が見えた気がするんじゃよ。この森には自由なぞありはせん、とな。なぜかって? 少し想像力を働かせればわかるだろう。森の中でしか自由が許されんのだぞ ?はやいとこいえば、不自由とそう大差ないんじゃよ。わかるか? はなしは戻るが、そう、この世界に嫌気がさしたんじゃ。だからのう、脱出を試みたわけよ」
 じっと聞いていたゾゾはこの老カエルがなにをいいたいのか、そのときになってようやく察しがついた。
 「あんた、まさか、岩壁を登ろうとでも思ったんじゃ…」
 疵だらけは長いこと上げていた頭を正面に戻すと、肩が凝ったわいとひと息ついてから、ゾゾと目を合わせた。
 「そうだとも。ん? まさか、お前さんもかね」
 ゾゾは苦笑していた。
 「ああ、ついこのあいだ挑戦したさ。でも一度だけ。どうやっても登れはしないさ。無理だよ」
 「ふむ、なぜ無理だと思うかね?」
 「なぜかって…無理なものは、無理だと思うからだ」
 そこで疵だらけはまた頭を左右に振った。
 「無理と思うのは、決めつけているからだ。世界に挑むことほど、無茶はないからのう。だがな、若いの、ゾゾよ。お前さんはまだ若い。無理だと決めつけるにはちと早すぎはしないか? もしも、お前さんが本当に空が好きだといい、己の自由を求めているならば一度だけといわず、何度でも挑めるはずじゃ」
 「それは…」
 「まあ、それこそ他者が無理にやれと言えることではないがね。わしの身体を見れば判るだろう。これが自由を求めて敗れたものの姿よ」
 疵だらけの不自由になった身体は、目をそらすことのできない現実そのものであった。ゾゾはなにもいえない。
 ああいかん、はなしすぎたわい、ちょいと休ませてくれ。疵だらけはそう言って、話の腰を折った。
 「年寄りの長話は嫌じゃのう。自分であきれちまうわい。久方ぶりにはなし相手ができて嬉しかったもんでな、ほっ、ほっ、ほっ。さて、わしは家に帰って少し休むとしよう」
 四肢を引きずるようにしてその場から離れていく疵だらけ。
 「わしとお前さんが出会ったのもなにかの縁。わしでよければ岩壁登りの技術を教えよう。だが、それもお前さんの心ひとつだがね」
 疵だらけは森の暗闇の中へ消えていった。

 歌声が聴こえてこなくなる夜を待って、ゾゾは森から抜け出した。悪魔がいないとわかったので気が楽になったのだろう、緊張していた面持ちはやわらぎ、空気を口いっぱいに吸い込むと、ゾゾは自分の存在がそこにあるのだとはっきり感じることができた。
 それにしても不思議な出会いだった。ゾゾは疵だらけと名づけた老カエルの姿を頭に浮かび上がらせていた。
 世界を見渡し、周囲の岩壁を仰ぐと、圧倒的な巨大さでゾゾの前に立ちはだかっている。やはり疵だらけの言うことは無茶で、叶いそうにないことのように思えた。でももう、あまり気にする必要もなかったのだ。悪魔がいないのだから、夜に出歩けば問題は解決する。夜空の下でなら、ゾゾはまた自由なのだ。
 どこか適当なところへいくと、草を枕にして仰向けになった。
 夜空が見える。月が見える。煌めく星々が見える。おれは自由なんだ、そう思いたかった。だが、いままでのようにはいかなかった。
 見ようとしなくても、視界に映ろうとしてくる。それは意識しているからに他ならない。その先になにがあるのか、知ってしまったからだ。知らずに生きていればなにも意識する必要はなかったのだ。知ってしまったがゆえに、ゾゾはもう二度と同じ自由を感じることができなくなってしまった。
 ゾゾは岩壁を登り終えた自分の姿を夢想した。雲にはなしかける自分の姿。雲になった自分の姿。そして、なにに邪魔されることなく自由である姿。
 想像するだけでゾゾの胸は高鳴った。
 しかし、その傍らをふっと横切るのは、目に見える現実だった。自分にいい聞かせようとした。見ただろ、あの老カエルの姿を。身体はぼろぼろになり、あげく、森からも出られない有様だ。不自由そのものではないか。おれはまだ自由でいられる。身体はこのとおり丈夫だし、夜のあいだであればどこにだっていけるんだ。むしろ、いままでよりも自由じゃないか。
 「…」
 なんてことだ!
 とんでもないことに気がついてしまった。丘にいけば、また以前と変わりない生き方に戻れるぞ。は、は、は、よし。
 ゾゾは急いで起き上がり、丘へ向かって跳ね出していた。

③-3へ続く

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