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死後、私信をメディアで公表されることについての所感

民放局が運営するYoutubeチャンネルにて公開されている、知床観光船事故のニュースの件で思うことがあったので、書き留めておきます。
なお、故人の尊厳のため、ここでは該当動画のURLは貼らないものとします。ご了承ください。


ことの始まり ― Youtubeでのニュース ―

Youtubeで民放局が運営するチャンネルに投稿されたニュース動画を見ていた際、こんな内容が報道内容に含まれていた。

端的に言えば、事故で亡くなられた方の中に、交際中の男女が含まれており、その男性側に焦点を当てた報道だった。
その男性は、件のクルーズのあとにプロポーズをする予定だったようで、男性の車には交際相手へ宛てた手紙が残されていた。
また、この男性は両親にその旨を伝えていたため、事故後のその手紙の意図や渡すタイミングなども、遺族となった両親は知っていたようだった。
それらを踏まえ、遺族はその手紙を「故人が生きた証」として公表した。

そして、実際にニュース内でナレータが全文を読み上げることとなったのだが、ここで自分はナレーターが読み上げている箇所を飛ばし、その後に続く報道内容を視聴した。

死後の私信を扱うことと、故人の尊厳

該当箇所を飛ばした理由だが、端的に言えば、「自分がそうなった場合、あまりにも辛い」と感じたからだ。

ニュース内で取り上げられた手紙。あれはあくまで、交際相手へのプロポース後に渡す予定だった私信であるはずだ。さすれば、婚約者以外に見せないが故に、純粋で赤裸々な、それこそプライベートでしか話せない内容を綴っている可能性もある(実際どうなのかは、先述の通り聞いていないので知らない)。
仮に、第三者から見て「ぜんぜん普通じゃん、何恥ずかしがってるの」と思う内容であっても、当事者が恥ずかしいと思えば、それは恥ずかしい内容となる。
あおり運転やセクハラが成立する理論(被害者がそう感じれば、加害者に意図がなくとも成立する)と同じもの、そういう考えだ。

少なくとも、あの私信は、故人が「公表されるのは恥ずかしい」と思っている可能性を内包しているものである、ということだけでも、前提として理解してもらいたい。

そして今回の件は、「筆者にとっては『公表されるのは恥ずかしい』という可能性がある文章が死後、ニュースコンテンツとして公表された(強い言い方をすれば『消費された』)」と言い換えられる。自分としては「故人の尊厳をもうちょっと労ってあげて……」と思ってしまう程度には、あの報道の仕方は個人に対し、やや酷な仕打ちに思えた。

今回の件をぶっちゃけて言うならば、やっていることの方向性としては「文豪が残していた性癖丸出しなエロ小説を公開」とか「故人の巨匠が残したフェチズム丸出しのスケッチ群を公開」といった事例と、やっていることの内容は変わらないと思う。彼らだって、公表しないからその表現をすることができたのであり、時代や世情を踏まえて公表できないと分かっていたから、自室の閉じた引き出しやハードディスクの中にそれらを隠していたのだ。
愛する交際相手から愛する妻になった相手へ充てる手紙なんて、どうあがいてもその相手かその家族ぐらいにしか見せることのないもの。仮に他人に見せるとしても、幸せな関係を築いており、「やめてくださいよ〜!」と照れながらも受け入れることができる程度には信頼関係がある相手に限定される、条件付きの公開範囲が伴うであろう私信だと考える。

当事者の考えるウェイトに差異はあれど、やっていることとしては「見せる予定のない部外者に、私的な内容を公表する」以外の何物でもないように思える。

「報道する権利」は、もはや免罪符になりえないでは?

あの私信は、自分を含む世間に向けて書かれたものではない。少なくとも赤の他人である自分がそれを読む資格は無い。
少なくとも、自分はそう感じたから、先のYoutube動画では、該当部分を飛ばし、手紙の内容を知ることをしなかった。

では、メディアが私信を公開する権利は、はたしてどこにあるのだろうか?

遺族が、故人の行きた証として、遺族なりに受け入れるために読むことは、納得出来るかどうかは場合によるが、十分に理解ができる。
また、告別式となれば故人の関係者が訪れるわけで、その方々に直前の個人の思いを伝えるために公表することも、生前に予想はできずとも、まだ理解はできる。
だが、そういった「関係者のみが参列する閉じた空間」から、「全世界の人間が見ることができる公共空間」に持ち出すとなった際、「報道の自由」と「遺族の許可」は手紙を公表する理由として、倫理的なすべてを解決できる程の免罪符なのだろうか?
無関係な第三者にプライベートな内容を公表する意義はどこにあるのだろう?この行動は、「故人をいたわる」と大義名分を掲げながらも、結果として視聴率のために「故人をいたぶる」ことになっていないだろうか?

死後の権利も必要なのかも?

これを防ぐ手段としては、生前に親に伝えておくか、毎年「私信は死後、世に公表しないこと」と明記した遺書を書いて、それを常に目の届くところに忍ばせるぐらいしか、パッと思いつく方法がない。
と同時に、そんな生活をすること自体が、ストレスだしすごく嫌だなぁ〜と感じる。

加えて、「死人に口なし」という言葉もあるように、死後の采配や肖像・私物の管理などを故人が行うことは出来ない。故人が残した著作物の場合、管理団体や遺族の許諾などがないと、自由に使うことができないケースは多いが、一個人の私信にまでその効力が及ぶかといえば、実際はそうなっていないように思う。
結局のところ、故人となった自分自身を守る明確な手段は、現状遺書と物理的な破壊以外に無いようなものではないか?と、今回の一見で感じた。

となると、現状は報道を行うメディア側の倫理規定やガイドラインに対策を求める手段が手っ取り早いが、度を過ぎれば「報道の自由を規制するのか」と反対派との衝突で、折衝案も見出だせないことになりかねない。

願わくば、ある程度メディア側で「遺族がOKって言っているけれど、この内容は公表しないほうが故人から見たら良い対応だよね」といった倫理感が働くような、何かしらの方向転換があればと思う。

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