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【1995〜99年】Boonの「ページ端っこ広告」に見る、ハイテクスニーカーブームの熱狂と没落、バブル崩壊後の日本経済。

2023/7/24追記
noteでの記事の更新は停止し、記事の更新とサブスプリクションは「山田耕史のファッションブログ」内「山田耕史のファッションアーカイブ」で行っています。

詳しくはこちらの記事をご覧下さい。


貴重な情報源だったスニーカー広告

1980年生まれの僕にとって、ファッションの原体験のひとつになっているのが1990年代後半のハイテクスニーカーブームです。

そして、↑の座談会の冒頭でも話題になっている通り、当時のハイテクスニーカーの主な情報源はファッション誌

僕が当時見ていたファッション誌のなかで、ハイテクスニーカーについて多く誌面を割いていたのが、「Boon」「COOL TRANSE」「Street Jack」などのストリート系メンズファッション誌でした。
当時のこれらのストリート系メンズファッション誌に必ずあったのが、ページ端っこに掲載されていたスニーカー広告

当時高校生だった僕は、こういった広告に掲載されている、プレミア価格が当たり前のハイテクスニーカーを憧れの眼差しで見ていました
今回、僕の手元にある1995年、1996年、1997年、1999年の4冊の「Boon」を見ていると、ハイテクスニーカーブームの流れがはっきりと見て取れることがわかりました。

これは面白いと思ったので、1990年代の経済の流れと併せて、ハイテクスニーカーブーム栄枯盛衰をご紹介します。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」からバブル景気に至るまで

まずは、ハイテクスニーカーブームが起こる1990年代中盤までの経済の流れをざっとご紹介してみます。
その前段階となる第二次世界大戦後から、1980年代序盤までの日本経済の流れは、↓の第一弾の記事でご紹介しています。

1980年代の日本経済は、戦後の高度経済成長期が一区切りし、安定成長期に入り、名実共に世界有数の経済大国になっていました。
上掲記事でも触れているように自動車がその象徴で、1980年には日本の自動車の生産台数が世界一となりました。
低価格で高品質な日本車が大量に流入したことにより、アメリカの自動車産業では失業者を多く出すことになります。
日本車をアメリカの労働者が叩き潰すというインパクトのある写真は、日米貿易摩擦を象徴する光景と言えるでしょう。

そんな日本経済のパフォーマンスの高さの源が日本独自の会社組織や経営方法、政治や教育にあるとし、アメリカをはじめとした世界に紹介したのが、1979年に刊行された書籍「ジャパン・アズ・ナンバーワン」でした。

第二次世界大戦後、アメリカを筆頭とする連合国に破れ、その後アメリカによる占領も経験した日本。その占領期についてのエピソードは、第2弾記事でも詳しくご紹介しています。

1980年代はそんなアメリカに、経済の面で日本がついに肩を並べた時代でした。
そして、1980年代の日本経済を象徴する言葉が「バブル景気」でしょう。
バブルとは、株価や地価などの資産価値が、経済の基礎的な条件から大きく乖離して上昇することです。
ではなぜ、1980年代の日本にバブル景気が到来したのでしょうか。
1981年に就任したレーガン大統領は、高金利による金融引き締めによりインフレを抑え込む、新しい経済政策が進めます。
高金利は海外からのドルへの流入を招き、ドル高が進行しました。
アメリカは景気回復には成功したものの、巨額の経常収支赤字を抱えこむようになり、それは世界経済の波乱要因になる可能性がありました
1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催された、先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議では、ドル高是正の協調政策をとることが合意されました。これをプラザ合意と呼びます。
プラザ合意ののちに、円高の動きが急速に始まります
1985年初頭には1ドル250円だったドル円相場は、1985年末には200円近くまで上昇し、1988年には120円代前半に達します。
つまり、1985年から88年の3年間で円の価値が2倍になったということです。
こういった状況を受け、日本の資産価値は1980年代後半に急上昇しました。
特に、1987年以降景気が急回復する中で企業収益が大幅増益を続けたことが要因となり、株価が上昇。
また、東京都心部におけるオフィスビル需要が増加したことにより、地価が上昇しました。
1982年10月を底に上昇し始めた日経平均株価は1984年に1万円台、1987年に2万円台を付け、1989年末の大納会での終値は3万8,915円となります。
これ以降、2023年の今に至るまでこの3万8,915円が日本の株価のピークでした。ちなみに、今この項を執筆している2023年4月6日現在の日経平均株価は27,507円です。

認識されなかった「バブル」と、その崩壊

年が明け、1990年に入るとバブルの崩壊が始まります
同年3月に日経平均株価は2万円台に、10月にはピーク時の約半分の2万円近くまで下落します。
ちなみに、バブル景気の象徴というようなイメージが持たれているジュリアナ東京のオープンは、実質的にはバブル景気が終了していた1991年でした。

1991年の時点でジュリアナ東京は大盛況。

全盛期は、平日でも1000人以上の集客があり、台風で山手線が止まった月曜日であっても、約800人が来店した。1991年年末頃の金・土・日曜日は2000人以上、3000人を超えることもままあった。そのため、店内が鮨詰め状態であり、周囲の他人と触れることなく、店内を移動することは不可能であった。

このジュリアナ東京の浮かれっぷりからもわかるように、1991年の時点でバブル経済が崩壊したという認識は、世の中にはほぼありませんでした
そもそも、それまでの好景気がバブルだったという認識を持っていたのは、専門家でもごく少数でした。
事後的に見ると、1989年末の日経平均株価3万8,915円がバブル景気のピークであり終わりであったとわかります。
ですが、1991年8月に経済企画庁が作成した月例経済報告の判断文に「国内需要が堅調に推移し、拡大傾向にある」とあるように、日本政府も1991年の段階ではバブルが崩壊したという認識はしておらず、景気は上昇局面であるとしていました。
ですが、1992年に入ると景気の低迷が顕著になりはじめ、1993年頃には、1989年頃までの景気がバブルであったことが、世間一般にも広く認識されるようになります。

不良債権と住専問題

バブル崩壊の負の遺産として、その後の日本経済に最も悪影響を与えたもののひとつが、不良債権です。
不良債権とは、金融機関が融資した金額のうち、元本や利子の回収が困難になった部分を指します。
融資の担保になっていた不動産価格が下落すれば、担保があっても回収は難しくなります。更にバブル崩壊による経済の低迷は企業の経営状態の悪化を招き、債権の回収は更に難しくなります。
1992年9月に大蔵省が公表した不良債権の額は12兆3000億円
ですが、当初は経済の先行きに対し楽観的なムードがあり、不良債権はそれほど大きな問題とは捉えられていませんでした。
ですが、1994年9月には東京共和信用組合と安全信用組合が経営危機に陥り、1995年7月には都内最大手の信用組合であるコスモ信組の経営破綻が報じられ、預金者が殺到する騒ぎになるなど、徐々に金融不安が広がっていきます
1995年8月には、第二地銀最大手の兵庫銀行と、信組大手の木津信組の処理が発表され、1兆円の債務超過を抱えていた木津信組は従来の方法では処理が不可能であったため、1996年に預金保険法が改正され、信組の破綻処理機構として整理回収銀号が設立されました。
不良債権問題の中で最初に大きな問題となったのが、住専問題です。
住専とは住宅専門金融機関のことで、1970年代以降金融機関が母体となって設立された、住宅ローン専門会社です。
不動産会社に多額の融資を行っていた住専は、バブルの崩壊により不良債権化。1995年には住専7社が6.4兆円の損失を出して破綻。農協系金融機関に及ぼす影響が懸念されたため、6850億円の公的資金が投入されました。

「Boon」とスニーカー

ということで、今回最初にご紹介する「Boon」1995年6月号が発売されたのは、日本がそのような混沌とした経済状況だった頃です。

創刊当初、「Boon」は大学生向けのインドアマガジンでしたが、1980年代終盤に発生した渋カジブームに目をつけ、1989年に組んだヴィンテージジーンズ特集の号が実売70%を超えるという大ヒットを記録。
1990年代前半にはナイキやコンバースのヴィンテージスニーカーも誌面で扱うようになりました。

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次第に高まっていたスニーカー熱に、さらなる拍車をかけたのがNBA人気です。
特に、マイケル・ジョーダンのシグネチャーモデルであるナイキのエアジョーダンシリーズに代表されるナイキのバスケットボールシューズに関する特集は、Boonの看板企画になっていきます。

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話は前後しますが、1996年のアトランタオリンピックに向けて結成されたバスケットボールのアメリカ代表、通称「ドリームチーム」はバスケットボール人気、そしてバスケットボールシューズ人気にさらなる拍車をかけました。

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ハイテクスニーカーブーム直前の「Boon」

ところで。
今回ご紹介する「Boon」1995年6月号、この1995年6月というのは、スニーカーの歴史において、大きな意味を持っています。

なぜなら、ハイテクスニーカーブームの火付け役となったエアマックス95が発売されたのが、1995年6月だったからです。

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このことに関しては、前回の記事でも詳しくご紹介しています。

ここで重要なのは、「Boon」1995年6月号が発売されたのは、エアマックス95が発売されるほん少し前ということ。
つまり、「Boon」1995年6月号で取り上げられているスニーカーは、ハイテクスニーカーブーム直前に人気だったスニーカー、ということになります。

読者プレゼントはアウトドア系サンダル

これを踏まえた上で、「Boon」1995年6月号に掲載されているページ端っこ広告をご紹介していきます。
が、その前にまず、誌面最初に掲載されてる読者プレゼントのページを見てみましょう。

ナイキのアウトドアラインである、ACGの銘品エアモックがプレゼントの目玉。その他アディダスやフィラなど、アウトドア系のサンダルが並んでいます。

裏面はG-SHOCK。80年代のデッドストックや、「Boon」別注のモデルなど。

巻頭の特報ページは、NBAを引退→MBAに挑戦→NBAに復帰したマイケル・ジョーダンと、エアジョーダン10。

特集は’70sスケーター

で、ここで初めてページ端っこ広告が登場します。

スケーター特集に合わせてと思われる、スケートボードやを中心とした横ノリ系商品を扱う、アクティーズという渋谷明治通りにあるショップ。

ちなみに、このページ端っこ広告は業界では「縦3広告」呼ばれるそうです。
小澤匡行さんの書籍「1995年のエア マックス」から引用します。(強調引用者以下同)

インターネットがまだ普及していなかった1990年代前半。ショップへの問い合わせは 基本的に電話で行われた。雑誌ではたびたびショップ特集が企画され、読者は巻末のショップリストや、ページ内に商品クレジットとともに入っている電話番号をチェックしては、片っ端から電話をかけて在庫を確認したり、通販が可能かを問い合わせたりしていた。スニーカーブームがピークとなった頃には、全国各地で並行輸入ショップがオープン。雑誌への広告出稿や、掲載依頼といった店側からの逆アプローチも多かった。
特にページの端の3分の1スペースに、米粒のような大きさで、解像度の低いスニーカーの写真と値段が連なる、いわゆる「縦3広告」は、広告用に用意したページでは収まりきらない出稿を何とか掲載するための苦肉の策で、雑誌バブルを象徴するレイアウトでもあった
この頃、家庭用ファクスの普及率も年々高まっており、総務省の通信利用動向調査によれば、1995年には16.1%に達していたとされる。その普及によって雑誌の編集部では、付き合いのあるショップ一軒一軒に電話をかけるだけでなく、ファクスの一斉送信を用いて、効率よく入荷や在庫の情報を把握できるようになった。これによって、雑誌により広い全国のショップ情報が掲載されるようになっていく。

「1995年のエア マックス」

お次のページ端っこ広告は、なんとサカゼン

現在は大きなサイズを得意とするサカゼン。今もアメリカからのインポートアイテムを扱っていますが、当時はサーフやスケート系に力を入れていたようです。

そして、「下北沢でSURF&STREET」というキャッチコピーのページ端っこ広告は、サカゼンの関連会社であるゼンモールのもの。

続くページ端っこ広告は「AMERICAN CLOTHING,CO」という、渋谷ファイヤー通りにオフィスを構える業者卸専門の古着屋、「50’s〜70’sの貴重なアイテムを大量入荷!」という文言から、1995年当時は80年代以降の古着には付加価値が生まれていなかったことが伺えます。が、本論からは離れてしまうので、ここらへんの考察はまたいつか。

ここでやっと、ページ端っこ広告にスニーカーが登場します。
アム・スポーツ・フットウェアというショップのもので、先程ご紹介した読者プレゼント同様、ナイキやアディダス、リーボックのアウトドア系サンダルのみ。

お次はゼンモール東神田店オープンのページ端っこ広告。ユーズドとミリタリーの卸部門が新規オープンしたそうです。

千葉県柏市のビッグフットというショップのページ端っこ広告は、アディダスのスーパースターなど、オーセンティックないわゆるローテク系スニーカーが中心。

「レアシューズ通販」という銘打ったページ端っこ広告は、エアジョーダン1が13,800円という、今からするとかなりのお買い得価格。そしてここで初めてエアマックスが登場しています。米国限定ということで、正規品よりも高値が付けられているようですが、画像の小ささから注目度の低さが伺えます。

「Dead Stockメールオーダー!!」はスケートブランドのウェアやシューズ。

こちらもアディダスのスーパースターを筆頭に、ナイキのスエードやGTSなどのローテク系スニーカーばかり。

コルテッツも多いですね。

青森のスタジアムというショップ。フレッドペリーのポロシャツなど。

G-SHOCK。

仙台いたばしというショップでは、ナイキのGTSやキャンバスなどのUSA限定。

関西人にはお馴染みの、スニーカーショップステップ。筆頭はヒップホップ系のブランド、カール・カナイのブーツ。リーボックはバスケットボール選手シャキール・オニールのシグネチャーモデル、シャックアタックのサンダルバージョンと思われる、シャックサンダル。

1万円ちょいでエアジョーダンが買えた1995年

エアジョーダン揃い踏みの広告。僕の大好きなエアジョーダン8が17,800円他のエアジョーダンも、1万円台前半。良い時代だったんですねぇ…

ちなみにこちらはエアジョーダン8を着用したマイケル・ジョーダンの、ゲータレードの広告。

https://www.pinterest.jp/pin/866380047049597444/

こちらは関西を中心に多くの店舗を構えるシューズショップ、ステップの1ページ広告。筆頭はアディダス。

ボンテージジャケットにボンテージパンツでパンク系かと思いきや、ウエスタンブーツも扱うRichardsという竹下通りのショップ。調べてみると、数年前まで竹下通りで営業していたようです。

スウェットで知られるチャンピオンのスニーカー。ライセンス商品でしょうか。

NFL(アメリカンフットボール)とMBA(野球)両方でプロ選手として活躍した、ディオン・サンダースのシグネチャーモデルであるダイヤモンドターフや、アウトドアバスケ限定モデルという、エアバハ341というモデルは初めてみました。ググってみても、めぼしい情報は全く見つからず。かなり珍しいモデルだと思います。

ファッション誌では珍しい、スクーターの広告。トモスというブランド。

ウィキペディアによると、スロベニアの企業だそうです。

古着卸フリークスストア

ページ端っこ広告なのに、横向き。

こちら、今や大手セレクトショップとなったフリークスストアが古着屋、そして古着卸業態だった頃の広告です。

ここらへんは既に誌面終盤。

ページ端っこ広告が少なくなり、代わりに1ページ丸々を使った広告がメインになります。

アディダスやプーマなどのローテク系、そしてブーツが主流

こんな広告も、誌面後半ならでは。

「空間満足家具を奪取!」…なぜ奪取?

こういうの、どれくらい効果があったでしょうか。

裏表紙裏は、レザーショップ広告。ということで、以上が「Boon」1995年6月号のページ端っこ広告のご紹介でした。

エアマックス95がブレイクしたのはいつ?

続いてご紹介するのは、「Boon」1996年11月号

表紙に「SCOOP!エアマックス95「黒レザー」」とあるように、この頃にはハイテクスニーカーブームが到来しています。

エアマックス95がブレイクした瞬間はいったいいつだったのか。
上掲「1995年のエア マックス」から引用します。

当時の『Boon』は、ナイキジャパンから新作のサンプルを借り、それを発売前に誌面で紹介していた。しかし1995年の「エア マックス」について紹介された誌面を見れば、お粗末な写真に、わずかなキャプションが添えられた程度に過ぎなかった。
専門誌である『陸上競技マガジン』(ベースボール・マガジン社)でも、1994年に「マルチチャンバー エア」を初搭載した「エア マックス スクエア ライト」が発売になった際には編集タイアップや純広告によりつまびらかに解説していたのに対し、本作に関しては純広告のみ。特集などはまったく組まれなかった。
そのようにして1995年6月、静かに日本で発売された新作の初速は、全国的に見ればかなり緩やかだった。ただ原宿界隈の販売店舗に限っては、在庫の少なさも影響して、当初からハイスピードで売れていったという。特に、一連のスニーカーの傾向をしっかりと捉えていたファッション業界人は、ハイテクとアウトドアが結びついた斬新なルックスを見逃さなかったと思われる。
イエローグラデが発売された、約半年後に2ndカラーが投下される。メンズは通称「ブルーグラデ」、ウィメンズはフットロッカー限定の通称「ネイビーグラデ」。この発売あたりから少しずつ世間が騒がしくなっていく。緩やかに売れていったイエローグラデが全国のスポーツ店の棚から姿を消したことで、新色のリリースに注目が集まったのである。

「1995年のエア マックス」

年始まもなく発売された3rdカラーは、メンズは通称「レッドグラデ」、ウィメンズは「ブルーボーダー」。続く4thカラーはメンズが「ブラックボーダー」、ウィメンズは「パープルボーダー」。4thカラーではボーダー柄を取り入れており、それまでの地層をイメ ージしたアッパーのデザインからの変化が見られた。
著者の記憶では、本格的に日本で人気が爆発したのは、3rdカラーだった。 「レッドグラデ」は『週刊朝日』(朝日新聞社。現在は朝日新聞出版社)の表紙で木村拓哉が、「ブルーボーダー」は広末涼子がドコモのポケベルのCMで着用した。特に決定的だったのは、後者のCMである。

「1995年のエア マックス」

こちらが木村拓哉さん表紙の週刊朝日。僕は今回初めて見ましたが、これは確かにエアマックス95の印象が非常に強く残りますね。

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=423925765

そしてこちらが、広末涼子さんのCM。

1996年の読者プレゼントはハイテクスニーカー揃い踏み


ということで、この「Boon」1996年11月号が発売された頃はハイテクスニーカーブーム真っ只中
それは読者プレゼントのラインナップからも伝わります。最も大きな写真で目立っているのは、エアバースト2。アメリカのスポーツ専門店、フットロッカー専売モデルだったため、高いプレミアが付いていたモデルでした。

エアマックス96に、アトランタオリンピック記念カラーのエアマックストライアックス。

エアジョーダン7、エアフットスケープ。

モデル名不詳らしく、「競技用」という名称のモデルも。

で、この号初めてのページ端っこ広告が、1995年6月号でも掲載されていた、アム・スポーツ・フットウェアのもので、配色デザインのジャックパーセルやフィラのスケートシューズ、ニューバランスのM467というトレーニングシューズ、アディダスのカジュアルブーツという、かなり特徴的なラインナップ。

次のページ端っこ広告も同じく、1995年6月号でも掲載されていたアークティーズの横ノリ系グッズ。

そして。
ついにここでページ端っこ広告にエアマックス95が登場です。

エアマックス95はカラー毎に入荷数が明記されており、注目度の高さが伺えます。

ヴィンテージデニムも。もちろん状態によりけりなんでしょうが、リーバイス501XXが58,000円よりというお値段。「赤耳3,000本」と、この時代はまだまだヴィンテージジーンズが「残っていた」ことがわかります。

続いては調布パルコに店舗を構えていたリー・ブラザーズ・クラブというショップ。ACGのウェアなど。掲載商品量の少ない、すっきりとした見た目の広告です。

所狭しと並ぶプレミア価格スニーカー

で、こちらが僕の記憶に色濃く残っている、ページ端っこ広告の代表的な例大量に並べられた小さい画像のスニーカー、そしてどれもこれもプレミア価格

とはいえ、そんなにエグい価格もありません。最高値はエアジョーダン11の39,000円

1995年6月号ではアンダー1万円で買えたコルテッツは12,000円。

次のページ端っこ広告は、↑と同じショップのもの。

エアマックス96は28,000円。

2010年代のラグジュアリーストリートブームのときは「モアテン」と呼ばれ人気を博したエアモアアップテンポは最高値で26,800円。マッチアップテンポというモデルもありました。

当時のハイテクスニーカーブームの熱気が感じられる、普通の記事もご紹介しておきます。1997年スプリングモデルの先取り記事です。

上掲の「1995年のエア マックス」と同じく小澤匡行さんによる書籍「東京スニーカー史」には、当時の「Boon」のスニーカー記事について、当時を知るライターの方がこうコメントしています。

メーカーからの情報を待っている状況じゃなかった。とにかく並行輸入されたサンプルをスクープしたり、海外取材もするようになりました。アトランタのスーパーショーを 視察したり、ニューヨークのナイキタウンのオープニングも取材しました。「エアジョーダン」と「エアマックス」、この2つのシリーズの後継モデルは、とにかく探していましたね。

「東京スニーカー史」

このページに掲載されている画像も、こういった取材で得たものなのでしょう。

エアズームフライトや、ノモマックスといった人気モデル。このあたりも1997年スプリングモデルだったんですね。

最近復刻された、アディダスのアディマティック?と思いきや、ノートンというモデル。

そして、このページのページ端っこ広告には、エアマックス96やテイルウインドなどの人気モデルに並んで、当時人気だったダーク・ビッケンバーグのブーツに激似のモデルが。

こちらが本家ダーク・ビッケンバーグの。↑はおそらくコピー品でしょう。今思うと、コピー品があるのは、それを求める人が多かったということでしょう。ダーク・ビッケンバーグのブーツのコピー品がこうやって売られているのは、当時デザイナーズブランドの人気が高かったことの証左になるでしょう。

https://www.pinterest.jp/pin/288582288633030110/

「ARK STORE ASHIKAGA店10月OPEN」のページ端っこ広告。

こちら、現在は栃木や群馬など北関東に多数の店舗を構えるセレクトショップ、アークネッツでしょう。当時はストーンアイランドやディーゼルを扱っていたんですね。

千葉県のショップによる、ページ端っこ広告。

エアモックは9,800円。当時はやはりハイテク系の人気が高かったようです。

リバティーという、神奈川県海老名のショップ。

エアバッグやテイルウインドが筆頭。

こちらはブーツがメインのお店。レッドウィングの定番モデル875は29,000円。

今だと、Amazonで45,870円です。

こちらはハイテク系メイン。

リーボックのフューリーロードは19,800円。隣のトリコロールカラーのエアバースト2、当時欲しかったんですよね。当時はアルバイトをしていなかったので、こんな価格では当然手が出ませんでした。

珍しいターンテーブルのページ端っこ広告。

イケベは今もある楽器屋さんです。

ハイテクスニーカーブーム当時僕が履いていたエアマックス


こちらはエアジョーダン11が筆頭。

これこれ!当時僕が履いていたのが、このトライアックスエキストラです。神戸の三宮センター街にあったごく普通の靴屋で、この広告と同じくらいの価格で購入しました。確か、このモデルの定価は1万円くらいの筈。

当時、手が出る価格で買えるエアマックスはほとんどなく、妥協で購入しましたが、今改めて見ても良いデザインだなぁと思います。

こちらはニューバランスが筆頭。

メイドインUSAのスウェット素材のニューバランスM576が16,800円!

こちらはバッシュがメイン。

新星堂スポーツというお店があったんですね。フューリーロードは15,000円が定価。「シリアスランナーのみならずカジュアルユース用としても、爆発的な人気を博している」とありますが、当時のシリアスランナーは履いていたんでしょうか。

こちらも広告ページ。

エアマックス95イエローは価格応談。

ナイキのノースウェイブ。

ノースウェイブのクラブラインというモデルは初めて見ました。

ん?これさっきも同じ広告ありましたよね…

これこれ。こちらは45ページ。↑は276ページ。同じ号に同じ広告が掲載されているの、ミスなのか、狙ってのことなのか。

こちらはエアマックス96のレディースやアディダスノートンなど、ちょっとマイナーなモデルが中心。

ページ端っこ広告ではありませんが、ライトオンの広告もご紹介。

エアマックス96を履いています。

当時のページ端っこ広告でもあまり見ないポンプフューリーのパープルが33,000円。

ページ端っこ広告ではありませんが、当時こんなアクセサリーの広告もよくありました。

こちらはページ端っこ広告が集まって構成されたような広告ページ。

「『ローン』なんかも扱ってるから、気軽に☎してネ!」と、「小崎さん」。

「A.M'96」「P.F」「A.B-2」など、暗号のような商品名。

ページ全面広告。

「プレミアオリンピックカラー」が多数。アトランタオリンピック開催により、オリンピック限定カラーのモデルが多数展開されていました。

エアジョーダン8が21,800円とお安い、と思ったらキッズサイズでした。

こちらもページ全面。

珍しくエアマックス95のレッドが。48,000円と、他のハイテクスニーカーとは一線を画す高値。

誌面終盤なので、ページ端っこ広告は少なくなり、全面広告が続きます。

エアマックス95イエローが39,800円。相場に比べて安い…怪しいですね…

ステップ。ここは全て定価だと思われます。

当時はオシャレとは最も遠い場所にあったアシックス。今見ると…いや、今見ても良いとは思えないデザインです笑

攻殻機動隊Tシャツが2,900円!

パンク系ショップの全面広告。

スルーしようかと思ってたんですが、AKIRATシャツと攻殻機動隊Tシャツが目に留まりました。なんと2,900円!「From U.S.A」ということは、米国製ということでしょうか。

現在暴騰とも言えるくらい高値になっているアニメTシャツの中でも、AKIRAと攻殻機動隊は別格の存在。いやぁ、タイムマシンで当時に行って買い占めたいですね笑

一部商品の価格が掲載されていない広告。

「人気商品!!」と「人気商品」の違いはなんなんでしょう…こんな内容で注文する人はいたんでしょうか…

トミヤマという、大阪の老舗靴屋さんの広告。

エアフォースワンのハイとミッド。どちらもフットロッカー別注。コルテッツは定価の6,000円。僕は高校生のとき、ネイビーを履いていました。

レザーコルテッツもおそらく定価でしょう。この感じ、今履きたいですね。

こちらも靴屋さんの広告。アディダスやヴァンズが中心。

このエアマックストライアックスレザーは初めて見ました。

アディダスのスーパースターにリップルソールがあったとは。

左ページ上は、古着屋時代のスピンズ。

右ページはアクセサリーとか雑貨とか。ジェイソンセットは版権クリア…してないでしょうね笑

こちらではナイキのハイテク系はプレミア価格ですが、フューリーロードが定価。

クラークスのデザートブーツが14,800円。この頃だと、イギリス製だったはず。

スポージアムは先程もあったアシックス。

「業者卸も相談にのります」。フットスケープは「TELにて」。

「業者卸しています!」の文字が。

白のフューリーロードは格好良いです。

ハイテクスニーカーに混じって、「コロン」があるのが面白い。

狭いスペースにぎっちぎちに商品を詰め込む多くのページ端っこ広告とは一線を画す、洒落た雰囲気の広告。これで成果が出たのかどうか、気になります。

ゲットライという神戸のショップ。

ここで1996年11月号の広告はおしまいです。

「Boon」1997年1月号

次にご紹介するのが「Boon」1997年1月号。当たり前ですが、1996年11月号から2ヶ月しか経過していないので、ページ端っこ広告に掲載されているモデルや価格はほぼ変わりありません。なので、それぞれの広告の画像は参考資料としてアップしますが、それぞれについての文章でのご紹介は省略しますので、興味がない方は「Boon」1999年5月号についてご紹介する次項まで読み飛ばして下さい。


アジア通貨危機

次にご紹介するのが、「Boon」1999年5月号
実際は1996年の年末に制作されたであろう1997年1月号から2年半弱の間で、日本経済には大波乱が起きていました
その中でも最も大きな影響を受けたのが、
1997年7月に発生したアジア通貨危機です。
1990年代、東アジア諸国は「東アジアの奇跡」と呼ばれるほど高い成長を続けていました。
ですが、1997年7月にタイバーツが急落し、その影響は周辺のアジア諸国に波及していきます。中でもインドネシア、韓国は大きな打撃を受け、マレーシア、香港、フィリピンにも影響が及びました。その後も1998年はロシアで財政危機が、1999年にはブラジルで通貨危機が起こるなど、全世界で通貨金融不安が広がっていきます。
アジア通貨危機は当然日本にも大きな影響を与えました。
株価が下落し、輸出の減退で景気も悪化し、既に大量の不良債権を抱え込んでいた金融機関の財務状態が更に悪化しました。
バブル崩壊により経営難に陥っていた準大手証券会社、三洋証券が1997年11月3日に破綻
この破綻により市場は大混乱となります。
1995年3月期決算から赤字転落しており、経営難が明らかになっていた都市銀行のひとつ、北海道拓殖銀行が1997年11月17日に破綻
そして、その1週間後の1997年11月24日に四大証券会社のひとつだった山一證券が自主廃業します。
この自主廃業を発表する記者会見で、「社員にはどう説明するのか」という記者の質問に対し、野澤正平社長が「私らが悪いのであって、社員は悪くありません。善良で、能力のある、社員の皆に申し訳なく思っています。一人でも二人でも、皆さんが力を貸していただいて、再就職できるように、この場を借りまして私からもお願い致します」と涙ながらに訴えたのは大きな話題となりました。

ナイキはストリートではなくアスリートのためのブランドである

こうして、バブル崩壊後低迷を続けていた日本経済にさらなる重圧がかかる頃、ハイテクスニーカーブームにも暗雲が立ち込めていました。
1994年に本国ナイキ社のコントロールにより設立されたナイキジャパンは、自社の商品がアスリートのためのスポーツギアではなく、ストリートでのファッションアイテムとして人気を集めている状況を打壊し始めます。
まず「Boon」などのストリートファッション誌での誌面掲載協力を中止を通告します。
そのときの様子を当時の「Boon」編集長はこう語っています。

突然ナイキさんが会社にいらっしゃるということで、珍しいなと思っていました。しかも 企画でお付き合いのある方々ではなくて。会議室で「今後は商品 貸出の協力ができません」とはっきり言われて、鳩が豆鉄砲を食っ たようでした。何か悪いことしたかなと。

「1995年のエアマックス」

また、ナイキは自らの手で企画を立てたスポーツ視点のムック本も発売

更に、1996年からは直営店であるナイキショップを全国で続々とオープンされるなど、「ストリートではなく、アスリートのためのブランド」ということを強くアピールするようになります。

沈静化していくハイテクスニーカーブーム


それと同時に、ナイキが打ち出すスニーカーのデザインや革新性の魅力も薄れてきていました
1997年の春に登場した、エアマックス96 Ⅱ

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1997年夏に発売された、エアマックス97

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そして、1998年に発売されたエアマックス98

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今の感覚なら、「これはこれでアリなのでは?」と思いますし、2000年代は実際に僕もエアマックス97の復刻版を愛用していました。
ですが90年代当時、96より後のエアマックスのデザインは、年々ストリートからの支持を失っていました
エアマックス98に至っては「過去最も進化のないエアマックス」と揶揄されるくらいでした。
結局、エアマックス95が革命的過ぎたのでしょう。
エアマックス95に匹敵するインパクトが生まれず、徐々にハイテクスニーカーブームは沈静化していきます。

閉店せざるをえなくなるスニーカーショップ

ハイテクスニーカーが売れなくなってくると、スニーカーショップは当然苦境に立たされます

1998年になると、打って変わって、多くのショップが店を畳むこととなる。 そもそも為替や物価の違いを利用して販売する並行輸入とは薄利多売が基本で、海老で鯛を釣るようなビジネスはしにくい。バイイングにかかる渡航費やショップの地代家賃、人件費などを差し引いて黒字を計上することを考えると、先の見通しが立てにくく、単価の安い スニーカーをメインの商材として扱うのはリスクが高かった。

「1995年のエアマックス」

スニーカーがお金にしか見えていなかった並行輸入のバイヤーたちは、市場の停滞に焦りを覚え始めていた。
手当たり次第にお店を回るだけの表面的なバイイングをしているバイヤーも多かったが、 大成功を収めていた一部のショップは、それと異なる仕入れ方法をとっていた。具体的には近くの親戚以上に頻繁にコミュニケーションをとっていた海外のショップとのコネクションを生かし、彼らがメーカーより仕入れたカタログをいち早く見せてもらい、半年先に発売されるモデルを発注する。つまりフューチャーオーダーシステムへ秘密裏に便乗することで確 実に、そして定価よりも少し安く仕入れていたのである。
しかし、そうした先物買いの仕入れ方法が完全に仇となってしまう。 オーダーから入荷されるまでの間にブームが一気に終息傾向へ突入したため、絶対数が減った客を前に在庫が捌けないというスパイラルに陥り、多くのショップがありえない量の過剰在庫を背負うことになってしまったのだ。不明瞭なマーケットを前に、売り上げを担保できるモデルが見つけられないままヤマを張る形のバイイングに未来はない。こうして、多くのショップは資金繰りがうまくいかなくなり、店を閉じざるをえなくなった。

「1995年のエアマックス」

そうして終焉したハイテクスニーカーブーム
「東京スニーカー史」では、ハイテクスニーカーブームを扱う章の最後がこう結ばれています。

ブームなき後、スニーカーは何を理由に買うべきか。ディテールでも、新作スクープでもない。するとストリートが頼りにしたのは、インフルエンサーという救世主だった。

「東京スニーカー史」

藤原ヒロシが表紙の1999年5月号

日本経済、そしてストリートでのスニーカー熱が冷え込んだ状況の中、最後にご紹介するのが、「Boon」1999年5月号
表紙は世界最強のストリートファッションインフルエンサー、藤原ヒロシさん

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