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原宿が「裏原系」を生み出し、世界のファッションの首都となった理由。

2023/7/24追記
noteでの記事の更新は停止し、記事の更新とサブスプリクションは「山田耕史のファッションブログ」内「山田耕史のファッションアーカイブ」で行っています。

詳しくはこちらの記事をご覧下さい。


今回ご紹介するのは「ブルータス1996年6月1日号」です。
特集は「原宿をつかまえろ!」

目次にはこうあります。

ものすごいスピードで変化を遂げていくのが東京の特徴なら、原宿はまぎれもなく、東京の顔と呼べる。ファッションを中心に常に新しいムーブメントが生まれる街に迫る。時代のエネルギーをつかみとれ!

誌面冒頭のページで取り上げられているのは浅野忠信さん。「これからが楽しみな22歳」と

「趣味っていうか、最近はチャラに凝ってますよ」と、当時からナイスなキャラクターだったんですね。

原宿が「東京の中のアメリカ」になった理由

そして、こちらが特集「原宿をつかまえろ!」の冒頭ページ。

特集のカラーページはここから26ページにわたります。
ですがその前に、カラーページの後にあるモノクロページの「原宿グラフィティー60s-70s」を先にご紹介します。

1996年当時、ファッションの一大発信地だった原宿。「原宿グラフィティー60s-70s」では、そこに至るまでの歴史が紹介されています。
60年代後半から70年代までについてのインタビュイーは、イラストレーターの宇野亜喜良さん。(強調引用者以下同)

外国人が比較的多く住んでいたのでちょっとバタ臭い雰囲気がありましたけど、閑静な住宅街という感じでした。緑が多くて、静かな街だったという印象ですね。なにしろ表参道辺りなら、いくらでもクルマを止めていられたんですから

次のページでは、マドモアゼルノンノンの黒沢加代子さんも「60年代の原宿は、東京の中のアメリカ的空間」と語っています。

学生の頃、毎朝、原宿駅から電車に乗っていたんですけど、乗り降りするのはいつも私ひとりでした。ほんとに人がいなかったんです。でもその頃から、ワシントンハイツがあったせいか、キディランドやオリエンタル・バザーがどことなく異国情緒を漂わせたステキな街でした。道行く人も外国人のほうが多かったくらい。表参道の青山寄りのところによく霞がかかる場所があって、すごく幻想的な風景だったのよ」 ワシントンハイツばかりでなく、セントラルアパートにもまだ外国人が多く住んでいた時代である。

「お昼によく行ったのは、セントラルアパートのネブスというアメリカっぽい料理を出すお店とか、そう、あとコープオリンピアの中のオリンピアダイネット。あそこはカウンターから何からすべてアメリカから取り寄せて作って、まるでアメリカそのもののようだったわ。チェリーコークとかもあって、それにハンバーガーやホットドッグがとてもおいしかった」
そもそもの街の成り立ちから、原宿はアメリカ的だったのだ

黒沢加代子さんのインタビューに登場する、ワシントンハイツ。ビームスの代表取締役社長、設楽洋さんが1960年代の原宿を振り返るインタビューにも登場しています。

「1960年代の原宿、とても懐かしいなぁ。今からは想像できないほど、静かな街でした」
生まれも育ちも新宿。生粋のシティボーイだった設楽氏にとって、原宿は10代の頃から身近な街だった。当時の原宿周辺の様子を尋ねると、明治神宮に参拝するための”正月の街”という印象で、夜になると人っ子ひとり通らないような静かな住宅街だったそうだ。
「どことなくアメリカンな香りが漂う街。小さいながらに、そんなイメージもありましたね」
聞けば当時、同エリアにはアメリカ軍属の住宅地「ワシントンハイツ」があり、そこに住む人たちが贔屓にしていたキデイランドやオリエンタルバザーは今よりずっとアメリカンな雰囲気だったそう。新宿文化圏で生まれ育った設楽氏にとって10代前半の頃の原宿は、米軍関係者が主に入居していた「原宿セントラルアパート」(1960年)、ワシントンハイツの跡地にできた東京オリンピック選手村(1964年。現・代々木公園)、日本初の億ションとして話題になった「コープオリンピア」(1965年)の誕生など、どの街ともなにか違う”ちょっと不思議な住宅街”だった。

原宿が「東京の中のアメリカ」になった理由として、ワシントンハイツの存在は非常に大きいようです。
そのルーツを知るために、時間を第二次世界大戦末期の1945年まで巻き戻します。

原宿を燃やし尽くした山の手大空襲

日本が劣勢になっていた第二次世界大戦末期の東京大空襲は、1944年11月24日から1945年8月15日まで、延べ100回以上に及びました。
東京大空襲として一般的に知られているのが、10万人以上の死者を出した1945年3月10日の「下町空襲」。

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ですが、東京にとどめを刺したとされるのが、1945年5月25日の「山の手大空襲」です。
米軍の新鋭爆撃機、B-29が470機襲来した「山の手大空襲」では、死者3600人以上、罹災者は56万人以上。焼失16万6千戸が消失し、国会議事堂周辺や東京駅も被災しました。
渋谷、新宿一帯は焼け野原、表参道は炎の川となり、表参道のケヤキの木は、翌朝になっても音を立てて燃えていたそうです。
青山通りの交差点では、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
その交差点のすぐそばで、現在も営業を続けている山陽堂書店の長女として大正12年に生まれた清水濱子さんが、「山の手大空襲」のときの様子を語っています。

少し長くなりますが、空襲の様子がリアルに伝わる貴重な証言なので、引用します。

「なんてきれいなんだろう」
濱子さんが見たのは炎に包まれた渋谷の町だった。二十二時をまわったころのことだった。空襲警報が響く中、外に出た濱子さんは思わずそう声に出したという。
まもなく戦闘機が近づいてきた、驟雨のように降ってきたのは、B29から落とされた焼夷弾だった。着地すると火を吹き、炎の塊は暗がりに広がった。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

火の雨が降る青山通りから一歩 「かつみ屋」の中に入ると、ひんやりとして妙に落ち着いた。そこだけ空気が澄んでいた。暗がりの中、座っていた老婆が二人、濱子さんの持つヤカンの水を求めた。 店の奥から破裂音が轟いて赤い炎が見えたのは、それから間もなくだった。「かつみ屋」の奥に 道一本隔ててあった薪屋が燃え始めていた。
「ああ、このまま死ぬんだと思いました。 でもどうせ死ぬのなら、家で死んだほうがまだいい。そう考えて、うちに帰ろうと」
一緒に逃げようと老婆たちを誘ったが、足が不自由なのでここに残ると拒まれた。 濱子さんは急いで家に向かう。 「かつみ屋」 と隣の山陽堂書店までの隙間は、わずか二十五センチほど。 入り口もすぐそこだ。それなのに、とても距離を感じた。 熱風が目に当たって進めない。
ところが、鍵をかけたはずの店の扉が五センチほど開いている。扉を開こうとすると、怒声が投げつけられた。
「駄目だ。いっぱいだから、他へいけ!」
中を見ると、そこはすし詰め状態。 避難してきた人たちだった。
「入れてください。私の家だから」
そう叫んで、やっと中に忍び込んだ。
「店の中には百人はいましたよ。鉄筋だから火の粉を避けられると考えたんでしょうね。細長い店内が人でいっぱい。でもみんながみんな、狭い通路に立っている。売りものの本の上に乗る人はいなかったから。 私は足の踏み場もなくて、しょうがないから壁際に積んであった本の上を歩いて、階段を昇りましたけど」
三階に上がると、父と弟が窓の隙間から入り込もうとする炎を防ごうとしていた。青山墓地に逃げようとした父も、諦めて戻ってきていた。逃げ遅れた人たちを一階に受け入れたのも父だった。
水を求める人たちの叫び声に、父は地下に降りて井戸水を汲み上げる。やがていつも訓練してい バケツリレーが始まり、本に水をかけた。
しばらくして空襲が収まると、濱子さんは二階の窓からぼんやりと外に目をやった。暗闇の中を 赤い炎が動いている。 火だるまが目の前の参道を転がっていた。それが石造りの安田銀行の前で止まった。
それは焼け焦げた人間だった。衣服に火がつくと、人間の身体は丸くなって転がっていくのだということを、濱子さんはこのとき知ったという。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

今も交差点横に建っている大灯籠。この灯籠が一部欠けているのは爆撃の跡で、黒ずんだ部分は焼死した人たちの脂だと言われています。

「下町空襲では、焼死体はかろうじて人間の形をとどめる状態で、炭のように黒こげになっていた。 でもね、青山で見たそれは、生々しい蝋人形のようでした。その違いがどこからくるのか不思議に思いましたね。安田銀行の白い建物の下の方には、ところどころに黒い模様がついていた。焼死した人たちの身体から出た、人間の脂だったんですね。よく見ると、その黒い模様の中に人の輪郭が残っている。その角で多くの人が壁によりかかったまま焼け死んだことがわかりました。人間の脂はこすったぐらいでは落ちないものらしく、黒い模様はその後しばらく、不気味に残されていました」

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

東京の中にアメリカをつくる


1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号で無条件降伏した日本は、米軍を中心とした連合国軍の占領下に置かれることになり、全国で40万人、東京には4万人の米国兵士が送り込まれることになります。
マッカーサーをはじめとしたGHQの主要幹部たちは、すでに大きなホテルや洋館風の日本家屋を占拠し、アメリカ風に改装して生活していました。
占領軍は皇居の向かい側に総司令部GHQの本部を置き、明治神宮に隣接した広大な代々木練兵場跡に大規模なキャンプシティを設営します。
ですが、それはあくまでもテントによる仮住居だったため、翌年の1946年夏に改めて工事が始められ、9月には「米軍家族居住地」が完成します。
その「東京の中のアメリカ」は、米軍により「ワシントンハイツ」と名付けられました

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ワシントンハイツの工費は8億円。労務者は延べで216万7千人。鹿島建設、清水建設、戸田建設などが工事を請け負いました。
GHQは接収した三菱商事ビルに「デザインブランチ」という設計室を創設しました。学校やクラブ、教会などの施設を建設し、兵士がアメリカ本国と同じ生活を維持することが目的です。
ワシントンハイツには、兵士たちが本国から自分の車を持ち込むことが認められました。当時の日本車からは考えられなかった、青や黄色、赤といったカラフルな色の乗用車が街を走るようになりました。
家屋だけでなく、家具も日本で生産されました。
家具のデザインの参考資料としてGHQが日本人スタッフに提示したのが、シアーズ・ローバックのカタログです。
シアーズという言葉に見覚えのあるファッション好きも多いでしょう。

そう、古着でもよく見かける、あのシアーズです。
1895年にメールオーダーによる通信販売を始め、そのカタログは「聖書の次に読まれている本」と呼ばれるくらい、アメリカでは一般的な存在でした。こちらが、1940年代のシアーズ・ローバックのカタログです。

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シアーズ・ローバックのカタログでは、衣類だけでなく、家具や食器、果ては住宅まで販売されていました。
シアーズ・ローバックのカタログを参考につくられ、ワシントンハイツに納入された生活用品には、チーズおろしやポテトマッシャー、レモン絞り器、トースターなど当時の日本人が見たこともない品も多数ありました。
また、このようなアメリカの生活用品は、PXでも扱われていました。

PXとは、 Post Exchangeの略だ。そこには物資不足の日本では目にすることすらできない、 戦勝国アメリカの日用品が本国から運ばれ売られていた。後には米軍宿舎の中にも店を構えるよう になるが、占領から二ヶ月後には銀座の服部時計店(現和光)にオープンしている。彼らが本国と同様の生活を営むために必要なものばかりだった。
晩年の共産圏で庶民が羨望のまなざしを送っていたドルショップ同様、そこに置かれた品々は、 日本の庶民にはすべて高嶺の花だった。もちろん、店内に足を踏み入れることさえ許されなかった。
チョコもガムもタバコの「ラッキーストライク」も、そこで手に入れた安いプレゼントで、アメリカ兵は「いい人」になれたのである。ちなみに、共産主義政権崩壊直後の東欧では、先進国からの「マルボロ」が同じ機能を果たした。
こうして東京の中心部は、着々と「リトルアメリカ」化されていった

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

東京に広がるアメリカのファッション


そしてもちろん、ファッションの分野でもアメリカの影響は東京に、日本に広がっていきます。

街を行き交う彼らの服装も、日本では異質だった。そこにはまさに「リトルアメリカ」が再現されていた。茶色のジャケットを着て、「ギャリソンキャップ」を被った兵士。 それが最も典型的な GIのイメージだった。日本の少年たちはこの姿に憧れた。昭和二十一年の毎日新聞には、名古屋の熱田神宮での七五三に、このユニフォームを真似た服を着た日本人三兄弟の写真が掲載されてい る。米軍兵士をあらわす 「GI」 とは、Government Issue、 官給品のことをさす。 兵士の衣服などがすべて国からの支給品であったことから、そう呼ばれていた。
そして、白いセーラー服姿の水兵。 濃紺のセーラー服を着た海軍の憲兵。 チノパンの語源になっ ベージュの「チノーズ」を穿き、ヘルメットを被った兵士。さらにはアーミーカラージャケット にスカート姿の陸軍看護婦部隊の婦人兵士。 それまで目にしてきた日本人の軍服とは色もデザインも違う男女で、東京の街はあふれかえった。日本の軍人とは異なり、笑みを湛えて楽しそうに振舞うアメリカ兵。彼らのがっしりとした立派な体型も手伝って、これらのユニフォーム姿は、日本庶民を圧倒した。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

アメリカ軍が日本に与えたファッションのインパクトは、軍服だけではありません。
広島への原子爆弾投下で被災した日本人姉妹が、青山通りに開いたショールーム「ミカ・シスターズ」には、アメリカ軍関係者からのオーダーが集まるようになります。

また、米軍と仕事をする日本人女性たちも、パーティの席上ドレスが必要となっていた。アメリカ車のセールスで車を乗り回していた日系二世の女性や、銀座、赤坂の高級クラブのマダム、政府関係者の夫人たちも、この「ミカ・シスターズ」を訪れた。ここにくれば、西欧のデザインに身を包むことができるからだった。
生地を持ち込むのと同時に、将校夫人たちは必ず本国の雑誌を持参する。そこには日本では目にしたことのないデザインが詰まっていた。 初めて見るイブニングドレスの直しも頼まれた。それをほどいて、カットや縫い方、付属品の付き方などを盗んだという。こうして、姉妹には本場アメリカのデザインが身についていった。
後にパリコレに進出し、表参道に店を構えた森英恵さんも同様の経験を持つ。占領期に新宿に構えた洋裁店「ひよしや」には、将校夫人たちが訪れて服をオーダーするようになる。 彼女たちは生地だけでなく、ボタン、ジッパーそして型紙を持ち込んで、自分の好みの服をリクエストしたのである。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

森さんも仮縫いのため米軍住宅を訪ね、個々人の家にブティックにあるような大きな鏡があったことに驚いている。
昭和二十九年から、日活映画の衣装を手がけることになった森さんは、丸いフォルムを北原三枝さんや南田洋子さんなど女優たちの衣装に反映させていった。そのデザインはその後、日本女性の憧れとなって定着していく。そして昭和四十年、森さん自身はニューヨークでデザイナーとして国際デビューを飾ることになる。
その森英恵さんの服に合う帽子をデザインしたのが、平田暁夫氏だった。戦後すぐ彼が働いている帝国ホテル内アーケードの店に将校夫人たちが来店し、その注文を受けて婦人向けの帽子を手がけるようになった。やがて、自分の作品にあった帽子を作ってほしいと日本のデザイナーたちが殺到するのだが、それはパリでの三年を経て、東京オリンピックの翌年、表参道にアトリエを構えてからのことだった。
日本の若い女性の間でも、洋裁ブームが巻き起こる。地方紙でも洋裁教室の広告が競うように掲載された。物資不足のその時期に紙とインクをどこで調達したのか、型紙を伴ったカラフルなスタイルブックが昭和二十一年から次々に発行されている。その中身は、たとえば画家・東郷青児がデ ザイン画を描き、 shirt や one-piece dress など、カタカナにアレンジされる前の正しい英単語がアルファベットで描かれていた。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻ん戦後

白洋舎が学んだアメリカ軍式クリーニング

ワシントンハイツがきっかけで成長した日本企業も少なくありませんでした。
クリーニングで知られる白洋舎もそのひとつです。

白洋舎は五十嵐健治によって明治三十九年呉服橋で創業され、大正九年に渋谷に移ってきた。健治は本社ちかくの富ヶ谷に教会を建てるほど熱心なクリスチャンであり、日本で最初にドライクリーニングを手がけた。その長男であり、有爾氏の兄にあたる丈夫は、戦時中に日本軍の軍服や飛行服などをクリーニングした経験から、進駐軍にも当然その需要があるのではないかと考えた。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

米国留学経験のある丈夫は、「進駐舞台洗濯引き受けの嘆願書」を横浜のホテルニューグランドに滞在していたGHQに提出していた。
結果、予想をはるかに上回る需要があった。米軍の中では、戦時中のクリーニングは重要な位置を占めていた。日本軍は戦地で疲れた身体にムチ打って自分たちで手洗いしていたが、第一次大戦の経験を踏まえて、米軍は衛生保持のため軍隊内部に専用部隊を持っていた。戦場へも、トレーラ にクリーニング機材を積んだ 「クリーニング小隊」が従軍するほどであった。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

東京でのランドリーは、地魚河岸市場の中に設けられた。日本人が多数雇われていたが、監督は白洋舎が行なった。氏が驚いたのは、見たこともない械が持ち込まれ、きわめて効率よく作業が行われていたことだった。
「洋服は揮発油で洗い、シミはスチームで落としていました。軍服にはアイロンをかけずに、機械でそのままの形で一度にプレスしてしまう。 驚きましたね。戦争で払い下げられた機械を業者から買い、白洋舎は技術的にもアメリカ化が進んだと思います」
占領軍の下で新しいアメリカ式の技術を学んだ日本人が、戦後のクリーニング業界の近代化に大きな貢献をすることになる。白洋舎はその後、ノウハウを自社の工場内で全国的に実践したのだった。

ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後

このように、第二次世界大戦後、原宿が「東京の中のアメリカ」となった理由に、ワシントンハイツの存在が非常に大きかったことがわかります。
さて、ここでブルータス1996年6月1日号の「原宿グラフィティー60s-70s」に戻ります。
ここからは、70年代のお話。

ここでも、「原宿という街がワシントンハイツの昔から備えているアメリカ的な底抜けの夢と希望」と、ワシントンハイツの影響下について触れられています。

参考文献:

原宿初の古着屋、クリームソーダ

さて、ブルータスのページを戻しましょう。
こちらは「原宿をつかまえろ!」特集の最初のページです。

マップに掲載されているのは、原宿を代表するショップの数々。アンダーカバー、ノーウェア、

ミルク、

ビームス。

「原宿の神々。」という特集。

「原宿の神」の一人目は、ピンクドラゴンの山崎眞之さん

↑のページの山崎眞之さんのプロフィール。

18歳で上京して、新宿のファッションストア <三峰> の店員になる。20歳の時、新宿のクラブ<ジュンブライン>の雇われ店長になる。 相棒のバンさんとはその頃からの付き合い。 72年、新宿に初めてのロックンロール・クラブ <怪人20面相>をオープン。<キャロル>とともに一世を風靡する。 その後、拠点を原宿に移し、 サクセスを重ねる。

日本のメンズファッションを知る上で欠かせない名著「AMETOARA」では、「拠点を原宿に移し、 サクセスを重ねる」部分が、とても詳しく紹介されています。

唯一動きらしい動きがあった場所が、明治通りと片側3車線の表参道との交差点に建つ、セントラルアパートだった。そこでは新進のファッション・デザイナーがワンルームの部屋を借り(和製英語ではそれを“マンション"と呼ぶ)、非実用的な衣類を少量ずつ縫製していた。これらの"マンション・メーカー"は新たなクリエイター階級を形成し、彼らは休憩の時間になると、1階にある喫茶店のレオンで、自分たちと同じように髪の長い、ひげを生やした友人たちと交遊した。 怪人二十面相のスタイリッシュな顧客は、大半がセントラルアパートかその周辺で働いていたため、山 崎は次のバーを開くなら、原宿がうってつけだろうと考えた。
1974年、彼は父親に、企業年金から250万円を前借りしてほしいと頼み、その金を保証金 にして、ビルの地下に粗末な酒場を開いた。彼はこの店をキングコングと命名し、壁をヒョウ柄の プリントと、熱帯のビーチを見わたすカリブ人女性を描いた、巨大な壁画で覆い尽くした。客は空のビールケースに座った。
最初の何か月か、この哀れをもよおすスペースにはほとんど客が来なかった。しかしあるひとりの客が、山崎の人生を永遠に変えることになったイギリスで生まれ、半分日本人の血が入ったモデルのヴィヴィアン・リンである。

AMETOARA

こちらがそのヴィヴィアン・リンさん。

https://www.pinterest.jp/pin/201465783304686786/

カタコトの日本語で何時間か言葉を交わした山崎とリンは、 すっかり意気投合した。数週間後、18歳になる資生堂のキャンペーン・モデルと20歳になる炭鉱夫の息子は、カップルになっていた。それからの何か月かで、山崎は日本と海外を行き来するリンのジェット族的なライフスタイルについていくために、自分たちの事業の銀行口座を完全に空にしてしまう。しかしクリエイティブなミューズの役目を務めた彼女は、最終的に大きな儲けを生み出した―東南アジアでリンと忘れがたい逢瀬を楽しんだ山崎は、1975年5月、シンガポール・ナイトという、熱帯をテーマにした50年代風のキッチュなバーをオープンする。この店はすぐさま、 有名人とバイク乗りの両方に好評を博した。

AMETOARA

1975年の終わりになって、リンがとうとう山崎を引きずるようにしてロンドンに連れもどし、ネオ・テディ・ボーイ・シーンをその目で直接確認させた。ブライトンのマーケットで、 山崎は古着を売っている屋台をいくつか見つけ、ボウリングシャツ、アロハシャツ、ラバーソール、 ボクシースーツ、タック入りのズボン、そして肩パッド入りジャケットの入った箱を拾い上げた。 リンの母親が口をはさんだ。「ヤマちゃんはフィフティーズが好きなのね」。山崎にとってははじめて耳にする言葉だが、これですべてが腑に落ちた。彼は〝フィフティーズ"が好きだったのだ!
ロンドンから持ち帰った古着を売るために、山崎ははじめて小売専門の店を原宿にオープンした。クリームソーダである。この界隈ではこれが、最初の古着店だった。山崎は店のファサードに "Too fast to live, too young to die" (生きるには速すぎるし、死ぬには若すぎる)と書いた。この スローガンはマクラーレンがレット・イット・ロックにつけた新しい店名を、そのままいただいたものだった。クリームソーダはほんの数週間で、山崎が手がけた店としては、最大の成功を収めることになる。服はロンドンで買った値段の6倍の額で売れ、以前は金策に四苦八苦していたバー経営者は、安定した現金収入を得られる身になった。
しかし何週間もしないうちに、アパレル業界の関係者たちがオリジナルの古着を買い尽くしてしまい、やむなく山崎は安価なクリームソーダのオリジナル製品をつくりはじめた。ティーンは古着以上にこれらの製品を愛し、このブランドのけばけばしいヒョウ柄や、シャーベットトーンの派手 なシャツやスカートを求めて、店の前に列をつくった。
じきに山崎は需要に応えるために、もっと在庫を増やす必要に迫られた。カリフォルニアで安い 中古品が手に入るといううわさを耳にした彼は、1976年にサンフランシスコに向かった。しかしどの古着店をまわっても、彼のフィフティーズ趣味に合致した服はまったく売られていなかった。 もう諦めようとしていた瞬間、謎めいたイギリス人ヒッピーが彼に近づいてきた。家には山のように服が溜めこんであるという。山崎は彼に連れられてヘイト・アシュベリー区域に足を踏み入れ、 その日いっぱい、ビンテージ衣類の膨大なコレクションを漁りつづけた。彼は200万円相当の商品を原宿に送り、それが早々に売り切れると、さらに1000万円を支払って、30フィートコンテナにいっぱいのカビ臭い衣類を追加で送らせた。これが東京の街頭では、1億円の値段で売れた。

AMETOARA

現在も原宿は古着の街として世界に知られていますが、そのルーツが山崎眞之さんが手掛けたクリームソーダだったのです。

「原宿ファッションの教祖的存在」藤原ヒロシ

そして、次のページが今号の僕的ハイライトです。
「<ミルク>の大川ひとみが結成した一夜限りの、おしゃれロックバンド」

中心となっているのはもちろん、ミルクの大川ひとみさん。僕は大川ひとみさんを「日本のストリートファッションのゴッドマザー」と勝手に呼んでいますが、彼女がフックアップした数多くの若者が、世界のファッションに影響を与える存在になっています。

その筆頭、藤原ヒロシさん。この号でも、「原宿ファッションの教祖的な存在」というキャプションが付けられています。

ニット帽、目深に被り過ぎ笑。まぁそれはともかく、アランニットのパーカとキャップは、彼が手掛けていたブランド、グッドイナフものでしょう。

そして、トイショップ、バウンティ・ハンターのオーナーの岩永光さん。僕がファッション誌をよく読むようになるのは、1997年くらいからだったと思いますが、そのときは岩永光ではなく、ヒカルという表記だった記憶があります。ブリコのサングラスがトレードマーク。

岩永光さんの足元はエアマックス95。1996年に発売された、通称「ブラックボーダー」モデルだと思われます。

余談になりますが、広末涼子さんがNTTドコモのポケベルのCMで着用していたのも、これじゃなかったっけ?と思って調べてみたら、広末涼子さんのはレディスモデルだったようです。

https://fashion-archive.com/about-airmax-hunt/

大川ひとみさんのオシャレロックバンドのメンバー紹介に戻りましょう。イラストレーターの立花ハジメさん。

テクノポップバンド、プラスチックスのメンバーとしても知られています。

「女の子たち」は「今、大川さんが最も注目しているモデル」佐藤康恵さんに、今や俳優として大活躍の市川実日子さん。当時はオリーブの専属モデルでした。

大川ひとみさんが語る原宿。

なぜ、原宿なのか?
「なぜって、原宿が東京の中で一番、カッコいい街だからですよ。それは25年前も今も変わらないと思っています」

原宿が新宿や渋谷と違うのは、可愛いコが圧倒的に多いということ。彼らは、何か面白いことやおしゃれなことを探しに原宿にやってくる。そして原宿には、彼らの夢や希望を叶えてくれるチャンスとパワーがあるんです」

原宿で生まれたセレクトショップ、ビームス

次ページ。「<ビームス>設楽悦三は、心強いブレインに囲まれ新鮮な発想を」

「心強いブレイン」は、ファッションブランド、チューブのデザイナーの斎藤久夫さんや、ネクタイメーカーのフェアファクス代表の慶伊道彦さん、雑誌ポパイなどを手掛けた石川次郎さんなど、錚々たる面々。

「<ビームス>創業者であり、社長」。
「私はもともとダンボールを扱う仕事をしていまして。昭和49年のオイルショックの後、景気に左右されない違う業種を手がけてみようと、好きだったファッションに注目したのが始まりでした」とあります。

前掲「AMETORA」には、ビームス創業にまつわるエピソードが詳しく記されています。

1970年代の初頭、 重松理はほかのティーンエイジャーとは一線を画した存在だった。彼は本物のアメリカ産ファッションに身を包んでいたのだ。逗子という浜辺の町で育った彼は、近隣の横須賀で、しばしば海軍の子どもたちにベースでしか売っていないアイテムを買ってきてくれと頼んでいた。15歳の時、フライトアテンダントをしていた姉の伝手でハワイ行きの飛行機に乗った彼は、そこで自国では手に入らない衣服を、山のように買いこんだ。すでに日本のメーカーは、海外のブランド名を使ったライセンス商品をつくりはじめていたが、重松からするとそれは偽物でしかなかった「向こうで直に買って着るものと日本で売ってる差というのは、当時ニホンナイズされたサイズになっていましたから、バランスが違ったりするのです」
大学を出た重松は、同世代の若者たちも、偽物の海外ブランドに似たような気持ちを抱いているのではないかと考えた。とりわけカリフォルニアのヒーローたちと、同じ格好がしたいと願う湘南のサーファーたちは。 しかしこうしたティーンたちも、浜辺で過ごす時間を犠牲にしてまで、遠く離れたアメ横に輸入衣類の山をかきまわしに行こうとは思っていなかった。つまり東京のトレンディなショッピング街の中心部に、本物のアメリカ産カジュアルウェアを持ってくれば、大きなビジネス・チャンスになるのははっきりしていたのである。あと重松に必要なのは、店をオープンするための経済的な支援だけだった。
1975年、友人が彼を「段ボールのおやじ」段ボール箱の製造会社、新光紙器株式会社を経営する設楽悦三に紹介した。日本の輸出ブームと歩を一にして20年間成長をつづけてきた新光は、 1973年のオイルショックで壁に突き当たった。紙の値段は上がり、各種製品の出荷が減った ぶんだけ、段ボール箱の需要も少なくなっていた。会社を復活させるためには、もっと儲けの大き 他分野に進出する必要がある。そう考えていた設楽に重松は、成功まちがいなしの新事業を売りこんだー本物のアメリカン・ファッションを、原宿の若者たちに向けて売り出すのだ。 設楽はこのアイデアに惚れこんだ。しかし新光の従業員や彼の家族は不安を隠せなかった。この35歳になる 段ボール箱製造会社の社長に、ファッション・ビジネスのいったいなにがわかるというのか? 設 楽は彼らの懸念を無視し、使っていなかった工場用地を売却して、原宿エリアに210平方フィー トの土地を借りる資金をつくった。
場所探しは簡単だった―だが輸入する商品の手配はそうもいかなかった。競合店のミウラ&サンズ―輸入品をアメ横から東京のシックなエリアに持ってきた最初の小売店はどうやら、『Made in U.S.A』を商品選択の手引きにしているらしかった。ミウラは日本の輸入業者と手を組み、リーバイスのジーンズ、ネルシャツ、レッドウィングのブーツといったヘビーデューティー系の商品をストックしていた。それ以上に異国的な商品を探すとなると、直接原産地を訪ねる以外にない。姉から安い航空券を手に入れた重松は、巨大な空のバッグをいくつも携えてカリフォルニアに向かった。彼は通常の小売店で大量の衣類を買いこみ、レジで値引きの交渉をした。
1976年2月1日、設楽と重松は彼らの新しい店、アメリカンライフショップ・ビームス (BEAMS)をオープンした。内装はUCLAの学生が暮らす寮の部屋を模し、スニーカー、スケー トボード、カレッジTシャツ、ペインターパンツ、バギーチノがずらりと並べられていた。ビームスは日本では誰も見たことがない多種多様なアメリカン・グッズを販売し、そのなかには『Made in U.S.A.』で紹介されていた"ニケ"―またの名をナイキという、オレゴン州ビーヴァートンのブランドが製造するランニングシューズもふくまれていた。

AMETORA

重松理さんはビームス原宿店の初代店長を務めるなどした後に、ビームスを退職。1989年に、同じくビームスのスタッフだった栗野宏文さんらと共に、ユナイテッドアローズを創業します。

1996年の「原宿王」たち

大川ひとみさんや設楽悦三さんたちが「原宿の神」。
そして、このページから登場するのが「原宿王」。HARAJUKU KING。

構成と文は、現在はトップスタイリストとして活躍する祐真朋樹さん。祐真朋樹さんのファッション業界でのキャリアのスタートは、雑誌POPEYEの編集者でした。
「みんなそこにいた。気がつけば王様になっていた。ジョニオ、イチノセ、マノ君、ムラ、そしてナカノ、NIGO、YOPPIE…。みんな原宿を舞台に自分の世界を確立していった。そしてついでに、原宿を魅力的にし、活力を与え、世にも稀なワンダーエリアにしてしまったのである」
当時の感覚でも、原宿は相当に活気のある場所だったことがわかる文章です。

高橋盾・一ノ瀬弘法(FUNNY FARM)

「原宿王」の筆頭が、高橋盾さんと、一ノ瀬弘法さん
アンダーカバーは当初、高橋さんと一ノ瀬さんのふたりが手掛けていたブランドでした。その後、一ノ瀬さんはマイノリティというブランドを始めます。

1996年当時、高橋さんと一ノ瀬さんは共に26歳。
「ジョニオ→落ち着きます。イチノセ→知り合いがいる。」は、おそらく「あなたにとっての原宿とは?」という質問の答えかと思われます。何故か誌面には掲載されていません。

触れられているFUNNY FARMは、以下のようなブランドでした。

90年代、UNDERCOVER(アンダーカバー)のデザイナーJONIOこと高橋盾氏と、MINORITYやN.W.O、VANDALIZE などを手掛けてきた一之瀬氏がロサンゼルスのタトゥースタジオ『FUNNY FARM』のタトゥーアーティストであるBob VessellsとMark Paramoreの4人で90sに原宿にて僅か数年のみ展開していたLAスタジオと同名の伝説的なブランド「Funny Farm(ファニーファーム)」。
Bobのタトゥーグラフィックをベースにアパレルからシルバーアクセサリーまで展開し、スケーター、モデル、DJ、オモチャ好き、ミュージシャン、デザイナーなど原宿カルチャーを作り上げた有名人達が集った伝説のSHOP”FUNNY FARM”

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真野勝忠(HIDE&SEEK)

次の「原宿王」は、バーテンダーの真野勝忠さん

「店内はワイルドな雰囲気がプンプンと漂っている」とありますが、その雰囲気通り、かなりワイルドな来歴の方です。

当時17歳だった眞野は、原宿のウェンティーズを溜まり場とする“ギャンブラーズ”というチームに所属していた。リーゼントにボタンダウンシャツ、チノーズにサドルシューズという生粋のフィフティーズのファッションに身を包み、先輩や仲間と原宿の街を我が者顔で闊歩していたという。いわゆる“顔役”になるのが、この時代のとっぽい若者にとってのステイタス。自分を着飾り大きく見せようイキがったり、時には喧嘩しながら自分の居場所を作ろうと懸命で、眞野もご多分に漏れずその渦中にいた。当時はフィフティーズだけではなく、パンクもロックもタケノコ族もあらゆるスタイルの仲間が原宿で吹き溜まり、路上でのライブやパーティに明け暮れていた。皆、手を付けられないような不良たちだったが、先輩のライブとあらばウッドベースや機材を運んだ。近所の弁当屋が余ったからあげを袋いっぱいくれたり、帰れなくなったらショップの倉庫で寝かせてもらったり……。そこには昔ながらの暖かみや助け合いなど、血の通った人間関係があった。当時のそんな人間関係や人の温もりは、やがて裏原宿の伝説のバー「HIDE&SEEK」を作り上げる眞野の人間力の礎となっていると言って良いだろう。

http://www.traversetokyo.com/journal/k_mano.html

裏原宿のド真ん中に位置し漆黒に包まれたビル。そこに在ったBar&洋服屋、“HIDE&SEEK”をご存知だろうか?裏原宿ブームの真っ只中、シーンを牽引していたデザイナーから芸能人、エリック・クラプトンやディカプリオ、暴走族までが溜まる伝説のバーである。狂騒的なムーブメントを牽引した主人公たちの、持て余すエネルギーのやり場として行き着いたのが眞野のバーだったのだ。夜な夜な当時の関係者たちが集まり、その様相は玉石混淆を極めていた。そのとてつもないエネルギーを眞野が一手に引き受け、皆にとってなくてはならない隠れ家を作り上げていた。恐らくこの時期にこのバーを切り盛りできたのは、それまで原宿・渋谷で散々遊び回って、顔役として名が通った眞野だったからではないだろうか。人々の喜怒哀楽、心の機微、凶暴さなど、むき出しの人間の本能をすべて受け止めることは並大抵のことではない。眞野の器量の大きさが皆の憩いの場を支え続け、トラブルは一度も許さなかった。その奇跡的なハンドリングもまた、眞野の人間力のなせる業だったと言える。
「当時の裏原宿には、才能を持っている子たちが集まっていた。藤原ヒロシを筆頭に、WTAPSのTETSUやm&mのムラ、ジョニオやNIGOにしてもそう。そんな中で俺たちみたいなのに「何ができるんだ? 」っていうのはあったよ。俺は才能がない分、ハートで勝負するしかないと思っていて。みんなを楽しませるとか、受け入れるとかそういうね。そこで俺っていう人間を少しは評価してもらえたのかな。未だにその時に出会った人たちに支えられて今があるから。やんちゃなことばっかやって来たけど、人を裏切ったことはなかった。『眞野君はああいう人だけど、すごくいいところもある』っていう感じで生かしてもらえたのかな。」

http://www.traversetokyo.com/journal/k_mano2.html#mainWrapper

真野勝忠さんは現在RATSというブランドを運営しています。

村上俊実(M&M)


上掲のインタビューにも名前が上がっている、「m&mのムラ」。

「内装屋」村上俊実さんはここに挙げられている裏原系のブランドだけでなく、シュプリームなどのショップやレストランなどの内装を現在も手掛ける他、M&M Furnitureというブランドで家具、M&M Custom Performanceというブランドでアパレルを展開しています。

https://tokyo-recycle.net/archives/%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A8%E3%83%A0-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC-mm-furniture-%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB-2.html
https://mashup-net.com/SHOP/1122672/list.html

中野毅(NGAP)


「ペンキ屋」の中野毅さん

中野毅さんが率いるNGAPは、裏原系ブランドのショップの内装などを手掛け、90年代終盤にはアンダーカバーなどの裏原系ブランドとのコラボレーションアイテムも数多く展開されていました。

中野毅さんは現在、SKOLOCTというブランドを手掛けています。

ーーまずは、ブランド設立の経緯を教えてください。NGAPの頃のお話も伺いたいのですが。
NGAPは10年くらいやってたかな。もともと俺らは建築をやっていて、ペンキ塗ったり、お店作ったりっていうことをしてました。そこから服作りもするようになったんです。
ーースタートはいつぐらいだったのですか?
初めて携わったのが、NOWHEREっていうA BATHING APEのはじまりのお店だったんですけど、その頃はペンキ屋みたいな感じ。90年代前半かな。その後、NGAPとして建築やったり服作り始めたりして、1998年頃から2005年くらいまでやってたかな。展示会は6年間、12回くらいしましたね。
ーーNGAPからSKOLOCTへの変換期とはどういったものでしたか?
NGAPはどうしても建築がベースだから、服作りにも枠というか、建築っぽい洋服っていう縛りみたいなのがあったんですよ。でもやっていくうちに、その枠の中でできることだけっていうより、もっと自由な表現をしたいなと思ったんですよね。それでNGAPをやめて、SKOLOCTを始めることにしたんです。SKOLOCTっていうキャラクターを描いて、アート作品を作ってってという方向に。

https://highsnobiety.jp/p/skoloct/

ーーそのクラブが、ジョニオさん、NIGOさん、スケシンさん(Sk8thing)、藤原ヒロシさんといった、いわゆる裏原ファッションシーンの人達との出会いのきっかけという感じですか?
そうそう。当時は先輩の紹介で、クラブのセキュリティーみたいなことを任されてたんです。新宿のMILOS GARAGEっていうクラブなんですけど、月曜日はロンナイ(ロック)、火曜日ヒップホップ、水曜日レゲエ、木曜日ロカビリー、金曜日ハウスで、土曜日は藤原ヒロシっていう、いろんな音楽が流れるクラブだったんですよね。結構みんなそこで出会ってると思う。もちろんヒロシくんはもっといろんなところでやってたけど、とにかくみんなそこでDJしてて、俺はそのクラブを守る係みたいな。そこで自然と仲良くなったんです。
ーークラブは渋谷じゃなくて、新宿なんですね。
俺らよりちょっと上の世代のクラブシーンって新宿なんですよ。六本木とかもあったみたいだけど、音楽が好きなマニアの人達は新宿っていう感じだったかな。で、そうやってみんなと遊んでるうちに、NIGOとジョニオが原宿でNOWHEREって店をやることになって、「中野なんかやってよ」ってことで、さっきのペンキの話。そこから、「原宿おもしれーな」って思って、自分も物を作るようになっていったんです。

https://highsnobiety.jp/p/skoloct/

NIGO(NOWHERE)

そして、原宿王と言えばこの人。

NOWHEREディレクターという肩書で登場のNIGOさん

当時のNIGOさんにとって原宿は「3年前のほうが好きだった」そうです。1996年当時、「今やビジネスとしては大成功を収めた<NOWHERE>」で、祐真朋樹さんは「メジャーすぎるのは彼の望むところではないようだ」と分析しています。

YOPPIE(HECTIC)

「本業はあくまでもプロ・スケートボーダーである」と本文で触れられている、江川芳文さん

原宿は「ムーミン谷」

そして、次ページは「王様たちの場所」

高橋盾さん、一ノ瀬弘法さんのFUNNY FARMのショップや、NOWHERE。

NEIGHBORHOOD。

祐真朋樹さんによる文章。
「原宿はムーミン谷である」
「そんなこんなで、この界隈はなんだかみんな繋がっている。「村」というか、「学校」というか、なんかムーミン谷みたいなところなのである。さしずめムーミンはジョニオか!?とするとミーは誰だ?俺は通りすがりのスナフキンか?」とありますが、本当の「ムーミン」は藤原ヒロシさんなんでしょうね。

「恐るべし!原宿を制するニュータイプの青年実業家たち。」というタイトルで、経済的な視点からの裏原宿ムーブメントの分析がされています。

いわゆるバブル崩壊というのが来て、土地の値段が下がり、それまで売れてきたものが売れなくなり、バンバン広告を打てば高いものでも売れるという方程式も崩れた。そんな状況の下、雨後のたけのこのごとく出てきたのが今回取材したような店である。
社長はみんな20代。もちろん最初は、おっかなびっくりで始めたビジネスだろうが、今ではちゃんと軌道に乗ってかなりの利益を出し、みんないい車に乗って人生をエンジョイしている。

ここで、祐真朋樹さん担当のページは終了です。

原宿はファッションの中心地

ミュージシャンのA.K.I PRODUCTIONSのA.K.I.さんによる、「原宿ポップス。10年ぶりの竹下通り。」

A.K.I PRODUCTIONS。

子供の頃に頻繁に通っていた竹下通りを10年ぶりに歩くという企画。言葉遣いや、ミュージシャンやタレントなどの固有名詞から当時の雰囲気が味わえます。

竹下通りのお店がずらりと掲載されています。このページを見ながら、今の竹下通りを歩くのも面白そうです。

次ページは「ヘアカット・コンプレックス」。原宿の有名美容室のインタビュー。
僕でも名前を知っている美容室、SHIMAの嶋英憲さんは「東京で何店舗が出していて、原宿にお店がないというのは、何かもの足りないんですね。美容に限らず、洋服、ファッションだってそうでしょ。青山、代官山だけではね、ややもするとマニアックになる。なんだかんだ言っても原宿には底力がある。ファッションの中心地だというのは事実なんですよ。」というコメントからは、やはり当時の原宿の発信力が相当強かったことが伝わってきます。

「神宮前スタイル」。原宿に実際住むには、というページ。
今も表通りから少し入ると、古そうなアパートが結構ある原宿。「家賃はどれくらいで、どういう人が住んでいるんだろう?」なんて思っていましたが、今もこんな感じなのかもしれませんね。

「グローイン・アップIN原宿」。EAST END×YURIのYOGGYさんをはじめ、神宮前で生まれ育った3人の対談。

日本のヒップホップを語る上で欠かせない存在である、EAST END×YURI。

カメラマンの栗本恵介さんの「小学校卒業と同時に九州に転向し、中2で再び原宿中学へ。学ランにボンタンという田舎では最高のお洒落も、原宿ではまったく通用せず、むしろ失笑を買い、田舎と都会の「カッコよさ」の違いを身をもって知った」というエピソードは、かなりファッションの本質を語っているように思えます。

6万円台で売れたノースウェーブのスニーカー

以上でカラーページは終わり、最初にご紹介したモノクロの「原宿グラフィティー60s-70s」のページが続きます。
その後が「原宿の現在を掘り起こせ!」という、1996年当時の原宿の最新情報を集めたページ。

まず目につくのが、ノースウェーブのスニーカー
「ここのタウンユースのスニーカーがかわいい、というのは去年の夏頃すでに情報通の若いコの間で話題になっていた」ということは、1995年の夏には既に人気を集め始めていたということですね。
それが、「原宿では、6万円台の値段をつける店もあったらしいが、それでも売れたからすごい」とあります。

スニーカーブームを象徴するエアマックス95のファーストモデルである通称「イエローグラデ」が発売されたのが、1995年6月

その後、上掲の1996年のNTTドコモのテレビCMで広末涼子さんが着用したあたりから、本格的なブームとなります。
そして、エアマックス95に付いたプレミアは、ノースウェーブのそれを遥かに上回るなんてことは、このブルータスが出た頃には想像もつかなかったのではないでしょうか。
そのスニーカーブームは、老舗古着店にも影響を与えました。原宿の有名店マービンズの店長で、90年代はファッション誌にも頻繁に登場していた半沢和彦さんは「ポスト<エアマックス>は<エアズームフライト>ですね」と語っています。

確かにエアズームフライトも人気となりましたが、この頃は全てのナイキのハイテクスニーカーが大人気

こちらの座談会でも語っていますが、当時神戸に住んでいた高校生の僕は、エアマックストライアックスという微妙なモデルをプレミア価格で購入しています笑

「こんなもので騒がれたくない」高橋盾とNIGO


お次も90年代を象徴する話題。

高橋盾さんとNIGOさんによる、NOWHEREの3周年記念に発売されたのは、缶詰。その中に入っているのは、Tシャツにバッジ、藤原ヒロシさんのカセットなどなど。「カリスマ的人気の象徴!」とあるように、「瞬くまの完売」だったそうですが、「こんなもので騒がれたくない」というのが当時の高橋さんとNIGOさんの意識だったようです。

セレクトショップの勢いがすごい

そして、こちらも90年代のファッション誌にはよく登場していた、酒寄隆夫さんら、セレクトショップのバイヤーについて。
「今、世の中は猛烈なインポートブームだ。ビンテージと新品、ビッグネームとノーメームを区別する意識は薄れ、それらをボーダレスで買い付けて店に置く、いわゆる「セレクトショップ」の勢いがすごい」ということで、セレクトショップの人気が非常に高かったことが伺えます。

酒寄隆夫さんは90年代後半の日本のデザイナーズブランドブームを語る上で、欠かせない人物だと思います。にも関わらず、インターネット上には酒寄さんについての記録はほとんど残っていません。幸い、酒寄さんが登場している昔の資料がいくつか僕の手持ちにあるので、改めてnoteの記事にできればと思っています。
で、次がこの特集の最後のページ。左上には90年代を代表するデザイナーズブランド、W&LTのTシャツが。こちらを扱っていたのは、やはり原宿の人気セレクトショップだったA NEW SHOP

酒寄隆夫さんが手掛けていたアクアガールや、上掲のA NEW SHOPなど、個店のセレクトショップのほとんどはセレクトアイテムのみを取り扱っていました
大手のビームスやユナイテッドアローズなどでは既にオリジナルアイテムを数多く扱っていましたが、当時はまだ「スタッフが欲しいけれど、仕入れられないアイテム」を具現化した、というような商品が多かった印象があります。
だからこそ、「セレクトショップの勢いがすご」かったのではないでしょうか。

原宿カルチャーが頂点を極めていた1996年

原宿はいつから原宿だったのでしょうか。
1559年の奥書がある「北条氏所領役帳」に記載があることから、遅くとも戦国時代には「原宿」という地名が成立していたことがわかっています。
中世の史料で「宿」と呼ばれる場所は、主要な道沿いにあった集落を意味しており、当時は大山街道と鎌倉街道が重なる付近が「原宿」と呼ばれていたと考えられています。
1906年には日本鉄道品川線、現在のJR山手線の原宿駅が開業します。
1920年には明治神宮が、明治天皇とその后昭憲皇太后を祀る神社として創建されます。
その後、当記事の冒頭でご紹介した第二次世界大戦での敗戦、その復興を経て迎えた1964年の東京オリンピックを機に、原宿は大きく変貌をします。
ワシントンハイツの出現により。「東京の中のアメリカ」になった原宿は、山の手に住む裕福な若者たちの夜遊びの場になります。
1960年代から70年代にかけて、原宿の若者文化の発信地となったのが、セントラルアパートです。
1958年にアメリカ軍関係者向けに建設されたセントラルアパートには、1960年代以降コピーライターの糸井重里さんやイラストレーターの宇野亞喜良さんなどの当時の最先端の若手クリエイターが事務所を構え、1階にあった喫茶店レオンは、そんなクリエイター達の交流の場でした。
雑誌、ブルータスやスタジオボイスなどのアートディレクションを手掛けた藤本やすしさんは、レオンについてこう回想しています。

僕が原宿セントラルアパートに出入りするようになったのは出版社を退職してデザイナーとして独立した80年代。仲のいい友達がオフィスを持っていたからたまに訪れていたけど、すごい雰囲気でした。スタークリエイターが集まるカフェ『レオン』なんかは、怖くて一度も入れませんでしたね(笑)

1980年代には、竹の子族が登場。

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このように育まれてきた原宿のカルチャーが花開き、日本全国を席捲するに至ったのが、1990年代
そして、今号で紹介されている高橋盾さんやNIGOさんら「原宿王」たちはその極みと言えるでしょう。
1996年は原宿カルチャーが頂点を極めていた年なのかもしれません。
このブルータス1996年6月1日号の最後に、編集後記のようなページがあります。
そこに掲載されている、原宿特集の担当者によるであろう文章がこちらです。

原宿をさらに知りたくて、さまざまな人から話を聞いた。特に歴史に関しては、1冊の本が出来るくらい面白い話が集まった。
かつて表参道には武家屋敷が並び、キャットストリートのあたりは職人街だった話。 原宿駅前では、土産として皇族、皇居の写真が売られていた話。戦後、米軍駐留でワシントンハイツが出来たことで、街の雰囲気が変わっていった話など、挙げていくときりがない。 昔から変化の多い街だった。
そんな原宿も最近、大手企業の進出により、 次の時代へと移りつつある。どのように進化するのか、期待と不安が入り交じる。

この担当者が抱いていた不安は、残念ながら現実のものとなってしまったと言えるでしょう。
僕は、1996年の原宿を知りません。
ですが、2023年現在の原宿が1996年の原宿よりも面白いとは、僕には到底思えません


世界に広がる裏原宿の遺伝子

原宿自体の発信力が低下したのは事実でしょう。
ですが、1996年に日本を席捲した原宿カルチャーの遺伝子を受け継いだ「裏原系チルドレン」たちは、2現在世界のファッションシーンを席捲しています。
2010年代のメンズファッションで、最も大きなムーブメントとなったのが、ラグジュアリーストリートです。

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ラグジュアリーストリートを牽引したブランド、オフホワイトの創始者であるヴァージル・アブローは裏原系から強く影響を受けたことを公言しています。

(藤原)ヒロシとNIGO。この偉大な2人がいまの僕をつくったと言っても過言ではないね。彼らがいなかったら、ぼくのキャリアは存在していなかったかもしれない。人々が昨日今日で目にしていることではなく、彼らが最初に始めたスピリットが重要なんだ。ぼくはシカゴで生まれてニューヨークに住み、ファッションの都にストリートカルチャーを持ち込みたいと思っていた。当時は、ここまでファッションとストリートカルチャーが密接になるとは予想していなかったけど、例えばパリのファッションシーンよりは、ヒロシやNIGO、髙橋盾のような存在により共感し、親しみを感じていたからね。つまり、彼らがぼくがパリでファッションビジネスをやる基礎をつくってくれたようなもの。

そのヴァージル・アブローは、ルイ・ヴィトンのメンズアーティスティックディレクターに就任します。黒人がラグジュアリーブランドのディレクターに就任したのはヴァージル・アブローが初めて。
そして、ヴァージル・アブローが手掛けたルイ・ヴィトンの初コレクションのフィナーレで、彼をフックアップしたカニエ・ウェストとの抱擁は、ファッション史に残る名シーンと言えるでしょう。

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ヴァージル・アブローは、ルイ・ヴィトンとNIGO®さんとのコラボレーションコレクションを展開。

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このコラボコレクションは、結果的にヴァージル・アブローが師とも言うべきNIGO®をフックアップしたことになりました。
その後、NIGO®さんはルイ・ヴィトンと同じLVMHグループに属する、KENZOのクリエイティブディレクターに就任します。

ヴァージル・アブローは、2021年に急逝。
その後任として、ルイ・ヴィトンのクリエイティブディレクターに任命されたのがファレル・ウィリアムスです。

ファレル・ウィリアムスはNIGO®さんと共に、ブランドBILLIONAIRE BOYS CLUBを手掛けている、まさに盟友的な存在。
ヴァージル・アブローと同じく、裏原系の遺伝子を受け継ぐクリエイターです。

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原宿と歩行者天国

2003年に発売された、竹の子族の実態を記した書籍では、原宿の歩行者天国がファッションの発信地として重要な役割を担っていたと指摘されています。

「竹の子族」は翌年の昭和五六(一九八一)年には下火になった。 けれども原宿の歩行者天国は、形を変えて若者で賑わい続けた。六〇年代のアメリカ 映画や音楽に影響を受けた「ロックンロール族」はその後も見られたし、とりわけ昭和
六〇年代になると、ここで繰り広げられるロックバンドの演奏に多くの若者たちが集まり、「ホコ天」は当時若者が好んだ音楽の代名詞とも言える言葉になった。
厳密な意味での「竹の子族」はいなくなったが、ここに集まって踊る若者のことを 「竹の子族」と呼び続ける地元の人もいたという。その名の由来となったブティックも、 店頭に並んだ商品の中身は変わりこそすれ、なくなりはしなかった。リポーターの川上健一と中部博の予想はある意味で当たっていたが、はずれた部分もある。 原宿の歩行者天国はそれから長いあいだ、若者の「広場」であり続けたのだ。
しかし平成一〇 (一九九八) 年になって、その歩行者天国自体がついに廃止となった。 交通渋滞や違法駐車、騒音問題がその理由とされた。当初、中止は「当分のあいだ」という説明であったが、今に至るまで歩行者天国は再開していない
現在は原宿が当時ほどの影響力を失い、ファッションもまたその性質を変えつつあるのは事実だろう。流行はより細分化され、九〇年代以降、「定番」と呼べるトレンドは少なくなってきた。それでも若い世代のファッションをリードする街・原宿は、賑わいを続けている。
八〇年代初頭の原宿で、ダンスに自分自身の思いをぶつけた少年や少女の姿は一見奇抜にも見えるが、同時に色濃く時代の雰囲気を反映したものでもあった。それは情報化社会の中で地方にまで広がりつつあった東京発のトレンドが、形を変えてその中心に戻ってきた瞬間でもあった。
若者たちが共有した時代の気分もまた、大人による管理への反発から、その中でいか に生き残っていくかという部分に焦点が移りはじめていた。思い悩みながら、矛盾を感 じながらも、一途に「自由」を求めて原宿の歩行者天国に集まってきた彼らの姿には、 その後の急速な時代の変化を読み解く鍵さえ、見え隠れするのである。

NHKアーカイブス〈1〉夢と若者たちの群像

歩行者天国が原宿ファッションにとって重要な存在だったということは、今も世界中から支持されているストリートスナップ雑誌、「STREET」や「FRUiTS」の編集長である青木正一さんも語っています。

青木さんは原宿が日本のファッションの中心地になった理由を、歩行者天国、通称ホコ天があったからだと語っています。
街中に若い子が集まる広場的な場所があり、そこから新しいファッションが生まれるのはパリやロンドンでも同じだそうです。
そして歩行者天国が廃止された1998年を境に、原宿ファッションがおとなしくなっていったそうです。

もし、今後原宿に歩行者天国が復活したら。
原宿がファッションの街として再び輝きを取り戻すのかもしれません。
(終)
参考文献:

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