見出し画像

私をバンクーバーと英米文学の世界に連れてきた西加奈子が、この場所で乳がんになっていた

Amazonの電子書籍で予約購入をして、日本時間の4月19日0:00、バンクーバーの4月18日8:00に語学学校へ向かうスカイトレインの中で息を詰めて読み始めた「くもをさがす」。感想を書こうとずっと思っていたのにあまりの愛で書き進めることができずこんなに時間が経ってしまいました。

西加奈子のファンだという方、こんにちは。友達になりましょう。

西加奈子にがっつり影響を受けて西加奈子が作家になるきっかけだと語っていたトニ・モリスンに興味を持ち、大学で黒人女性であるモリスンを含むマイノリティと呼ばれる(呼ばれてしまう)文学、先住民文学を研究する素晴らしい教授に出会ってさらにのめりこみ、挙句の果てに「西加奈子が選んだ場所だし良いところに決まってるやろ」というのを一つの理由にカナダに飛んできてしまいました。ファンです。書いていて自分でもちょっと…ドン引きしたので怖がらせていないか不安ですが、多少引いてもスマホの画面から少し距離をはなし、目を細めてこのまま読み進めてください。大丈夫です。

テレビやラジオで西加奈子のことを耳にして興味を持ったという方。このnote読まなくてもいいから西加奈子の本を今すぐ手に入れて読んでください。あの人柄と同じように最高の本だから。(あ、でもやっぱり全力で西加奈子への愛をぶちまけたから読んで)

はたまた、カナダやバンクーバーに何かしらの理由で興味を持っている方。「くもをさがす」は作品として素晴らしいだけでなく、街の空気感や人々の姿勢、BC州の医療のことを詳しく知れる点でも最高だったのでぜひ!

文法書を捨ててまで22kgに抑えたスーツケースに入れてきた一冊

↓角で殴られたらだいぶダメージを受けそうな厚さだけど大変優秀な文法書。ユリイカとの一騎打ちに敗れて現物がないのでAmazonで。

To advatisement: Do Not Invade OUR BODY

こちらに引っ越してしばらくしてから、自分がある種のストレスを感じていないことに気がついた。街が静かなのだ。それは、音がない、ということだけではなく、脅しのような広告や、ポルノ紛いの絵や写真を見ないことに端を発する静けさだった。
東京では、新宿を通る沿線に住んでいた。新宿の喧騒はもちろんだが、電車の中や街中で、青年誌の扇情的な写真や、「太るな」「老けるな」「ムダ毛を生やすな」、そんな風に、あらゆるNGを突きつけてくる広告を目にした。そしてそれらを見ているだけで、身体で騒音を感じていた。

「くもをさがす」p49

「くもをさがす」では日本とカナダの文化の文化の違いが色々な角度から紹介されているが、中でも印象的だったのが広告についての記述だった。

一番のお気に入り
よく見かける広告。カナダらしさを感じる一枚。
ビクトリアのバス。広告費を稼げるスペースで席を必要な人に譲ろうねのポスター入れる心の美しさに私の汚れた心がきゅっと音を立てた。
アパホテルの歌が聞こえてきた気がした
電車を待っているときの視点から

はて、とここで考える。私は日本にいたときに広告に体を侵食されるほど影響を受けていただろうか。

友達に聞いたらきっとあんたに限ってそれはない。と笑われるだろうと思う。中学生の時に思春期らしく反抗期に突入しようとした際「お前は育ててもらった恩をなんだと思って親に楯突くのか。あんたがその気なら私はいやいや期に入ってやる。」と母に言われ、矛先を失った感情を静かに社会に向けていたので、「これであなたもー」「美人過ぎるー」「まだ〇〇してないの?」といった広告や雑誌を目にするたびに心の中で全力のツッコミを入れていたし、YouTubeは標準体重(つまり平均より重め)で筋肉質な体を中学バスケ部、高校山岳部において鍛え上げていた私に「痩せてないせいで彼氏がほかの女に~でもこのサプリメントのおかげで~」「ムダ毛の生えた私の体を見て男子がゲンメツ~」等虫唾が走るような広告を表示しくさったので生年月日を1919年に設定した。そしてそれを全部友達に話していた。

もっと言えば私の肌はよりつるつるに、白くと望む以前にアトピーでぼろぼろになっている期間が長かったので、社会からの「年頃の女の子としてこうあるべき」という圧力をもろに受け取っていたらとてもではないが精神が持たなかったのでそうするしかなかった。そして肌と同じくらい敏感になったセンサーで「自分のために美しくなろう」「美人ではなくたって愛嬌を身につければ最強」というような一見味方に見せかけた表現のその背後に透けて見える思惑とこちらを操ろうとする意志、オブラートに包んで押し付けられる標準に呼吸が浅くなるほど嫌気がさしていた。今から考えると目にする広告一つ一つに対して「うっせー」「んなバカなことあるかい」と憤っていた私は常に戦闘モードで社会に向き合っていたように思う。時間とお金をかけて作られた広告は顧客である私に商品を嫌われ、私は私自身の貴重な時間を当て場のない怒りに裂き続けていたことになる。こんなにLose‐Loseな関係もなかなかない。

でも、私は化粧も洋服を選ぶことも好きだ。一緒に出掛ける人と場所のことを考えながら服を選ぶこととそれに合わせた雰囲気の化粧をすること、言葉にしなくてもあなたとの時間を楽しみにしていたのだと伝えられる素敵な手段だと思っている。また、威嚇したい人がいるときにダークレッドの口紅をしっかりと2度塗りして、三白眼を強調する真っ黒なアイラインと黒いマスカラを限界までホットカーラーでバチバチにカールさせた顔を準備すれば、真顔で何も言わず真っ直ぐに相手の目を見るだけで一瞬怯ませることができること、そう信じていられることでやっと立ち向かっていけた場面が何度もある。化けて、粧(よそおう)。すっぴんと印象を変えた顔を持てることは私の性格にも影響を及ぼしたと思うし、相手にこう思われたいという印象を造るためとはいっても、自分のために化粧をしていることに疑いはない。ただ、広告から勉強したように思える閲覧者の興味を引くために過大な言葉で商品を紹介し、より美の基準に近づけることを笑顔で伝えるSNSやYoutubeを見て化粧を研究し、次に買う化粧品を決めていた自分に対して矛盾を感じることもある。そして、その矛盾に悩むことに費やした時間を思うと気が遠くなる。それでよかったことと言えば松田青子の本を全力で楽しめたことくらいだ。

もう一つ、日本で「それなりの」身なりをしようと思ったら、収入に対して洋服と化粧品に対する支出が大きすぎるとカナダに来て思うようになった。日本にいたときによく見に行って買っていたデパコスと呼ばれる化粧品は大体4000円~10000円。カナダのブランドMACやYSL、Diorなどほとんどの外資系のブランドはこちらでも手に入れることができるが、大体$40~$100、つまりカナダドル$1を100円だと考えるとほとんど日本と同じか為替の状況によっては安く買うことができる。洋服もZaraやH&Mといった企業では日本と同じくらいの値段で買える。最低賃金は2倍くらい違うのに、だ。インターネットを見ていると日本とカナダやオーストラリア、アメリカ等の最低賃金を比較して「日本は暮らしにくい」「いや日本より最低賃金の高い国は物価も高い」という議論をよく見かけるが、化粧品と服に関してはカナダに住む同世代が旅行や大切な人との時間、将来への貯蓄や勉強に充てられている資金を削って購入しているという事実は存在している。

日本から来たのよ。というだけでたくさんの人が目を輝かせ日本のここが好きなのと伝えてくれる、ニッチな所にニーズを見つけ出し、より便利にと改造を繰り返し、細部に宿る美しさを大事にする日本的な文化を持つ国に生まれ育ったことを、私は誇りに思っている。だけど、その細かさが人の完璧ではなさを突いて不安を煽る方向に向けられ、それを新たなビジネスの需要と呼び、どこかの企業の社員たちの大切な時間と努力によって成長させられることに使われているのだとしたら、私はそんな文化を持つ場所で生きていきたいとは思えない。私はその細やかさを、「なんでよりによってそんなところにそんな熱量と労力をかけたのよ」と少しの尊敬とともに笑い飛ばされるようなところに使いたい。トリビアの泉の実験みたいなのとか。地味ハロウィンみたいなのとか。(地味ハロ、どこかで記事を見つけて読んだ英国人ホストマザーに大うけだった)

西加奈子とは違って私はカナダでも毎日化粧をして、何なら大学にいたときと同じように毎日雰囲気を変えて職場に行っているけれど、それでもカナダの友人たちと過ごす中で鏡を見続けて絶望する時間やネットで化粧について調べる時間はびっくりするほど減ったし、そのことが思った以上に心に平穏をもたらした。この感覚を日本で忘れそうになったときにどうやって思い出そう、どうすれば日本でもこんな気持ちで日常を過ごせるようになるんだろう、ということが目下私の悩み事である。

 東京が特別なことは分かっている。でも、こうも何かを提供され続けると、頭が混乱した。とにかく刺激に対して、休む暇がないのだった。そしてそれらが、狭さから来ていると、私は徐々に思うようになった。
 狭い台所で涙ぐましい努力をしていた私と同じように、各店も、企業も、この狭い場所で何とかスペースを確保するために、努力を必要とされる。スペースは、社会的な居場所にも変換される。社会的な居場所がないと、金を稼ぐことが出来ないし、もっと極端なことを言うと、生きてゆくことすら困難になる。他の店と同じではいけない。他の企業と同じことをしていてはいけない。少しでもスペースが空いていたら何かに利用するべきだし、顧客に精神的な余白があるのなら、それを逃す手はない。

「くもをさがす」p.192

じゃあ本当にバンクーバーってルッキズムへの意識が高いの?

ここからは少し実際に西加奈子がいた場所で働きながら生活している私の視点から。

私がは今、西加奈子が住んでいた高級住宅地キツラノというエリアからは少し離れたもう少し庶民的な場所(それでも家賃は目ん玉が飛び出るくらい高いけど)のスターバックスで働いている。同僚の出身の内訳はカナダ7、香港6、フィリピン3、インド3、パキスタン2。ウクライナ、ハンガリー、ブラジル、イラン、アメリカ、韓国からそれぞれ1人ずつ。そして日本出身の私を入れて28人。人種のモザイク…もはやイッツ・ア・スモールワールド実写版が出来そうな多様性。宗教も肌の色も母国語もここまで違うと肌の色の違いはあまりにも取るに足らなくて意識することすらなかった。体毛も…ブロンドの毛をもつ同僚の腕の毛が日にあたってきれいだなと思って見とれた0.5秒を除いて注目したことがなかった。

さて、問題の体型について。カナダに来る前は痩せているほうが美しいという認識すらないのかと思っていたけれど、正直なところ残念ながら太っているよりも痩せている方がいいという認識は、少なくとも私と同世代にはある。でも、日本と全く同じ認識かと言われたら、少し違う気がする。

17歳のインドから移民してきた両親を持つカナダ人の同僚アッシュは標準体型より少し軽いくらいに見えるのに「(My fucking)父親と男友達がみんな太ってるって言うからもっとジムに通って痩せなきゃ」と言っていた。私はびっくりして「それ以上痩せたら骨だけになってまうがな…」ということしかできなかったが、一緒にいた24歳のフィリピン人の同僚ゾラが「あんたはまじで、一切、太ってない。誓うって。その体型でそれ以上痩せなきゃとか自分にプレッシャーをかけるのはほんとに良くないからやめた方がいい」と彼女を諭して、彼女も「今まで私が太ってないってそんなに真剣に言ってくれる人がいなかったから本当に嬉しかった」と言っていた。この彼、初めて会った日に「日本語!知ってる!! Konnichiwa...Genkidesuka......Oppai!」とのたまった大馬鹿者なのだが、それでも背筋を伸ばさなければならないところがどこなのかはちゃんとわかってる。普段はわりと救いようのないお調子者なんだけど。

また別の日、仕事が終わった夜の10時頃に2人の同僚、カナダ人のロンとハンガリー人のアンと私でマクドナルドに行き、ハンバーガーとポテト、スプライト、ナゲットのフルセットを買って最寄りの公園…運動公園のエクササイズ中の人がたくさんいる陸上トラックの眼の前のベンチで食べるという悪行に手を染めていたとき。アンが「最近マネージャーが新しく買った休憩室の簡易折りたたみ椅子に座ったらキュゥ…って鳴いたんよ!最近また太ったし買った直後に私の体重のせいでぶっ壊したかと思ってまじで焦った!」と言いながら息も絶え絶えに爆笑していた。(ちなみにこの椅子は日本の折りたたみ椅子と逆方向に開くため、私はマネージャーの目の前で尾てい骨から床に落ちた。)つられて私もフォローする前に爆笑してしまったので「私は半年ぶりに体重計乗ったら記憶にある体重から6kg太っててん!この前身分証明書作るときに少し多めに書いておこうと思って元の体重から4kg増やして書いたんだけど2kgもサバ読んでたわ」と告白した。「そりゃあみんなスタバで働いてるからそうなるよ」と肩を叩かれる。そういえば私を含め同僚はほとんど皆健康的な体形をしている。爆笑しながら齧りつくハンバーガーとポテトはそれはそれは美味しかった。

改めてこの違いは何なんだろうと考えてみる。ここで暮らし始めてから痩せていないという理由で肩身が狭そうに、恥ずかしそうにしている人を見たことがない。というかそもそも自分の見た目や振る舞いを恥ずかしいと思う感覚があまりないように感じる。また、日本語ではしょっちゅう使っていたのに英語ではあまり聞く機会がなく毎回なんて訳そう…と戸惑ってしまう言葉に「憧れる」という言葉がある。直訳して”I admire her/him"。意味により忠実に訳して”I have always wanted to have her body shape”ということもできるけれど、なんというか、聞いたことも使う機会もない。その代わりに好きな俳優やミュージシャンについて話しているときによく聞くのが”She/He is soo hot""I like her/him"と言った言い回し。彼女/彼は私の体とは関係のない場所で私という個人から好かれている個人であるというこの感覚が今の私にはとても心地いい。

そういえば、西加奈子が彼女の作家人生の始まりとしてよく名前を挙げるトニ・モリスンの「青い目がほしい」。本題は"The Bluest Eye"だけれど翻訳者である大社淑子がこの作品で黒人の主人公が白人の少女に向けるゆがんだ、純粋な渇望を「ほしい」という日本語に訳してタイトルに付け加えたのもこの「憧れ」の文化と関係があったのかもしれない。

”It is what it is”という言い回しがあるけれど、太っている人は痩せるポテンシャルを持っている人ではなく、その人の大切な肉体を持って生きるその人そのものでしかない。だからルッキズムに対する意識が高い、というよりもそもそもの考え方が違うのが原因な気がする。


私が働いているスタバは驚くほど狭く、同僚との距離が文字通りものすごく近い。だから、通りすがりに相手にぶつからないように「ちょっと横通るね」と言って抱きしめることがよくある。彼女たちの柔らかく温かいハグが、私は本当に好きだ。

西加奈子の作品って本当に「肯定と祝福」なん?

西加奈子作品は「肯定」と「祝福」という言葉で紹介されることが多い。

違うやん!と積極的に否定するほどではなくとも本当にそれが一番大きいテーマなんかなぁとは「くもをさがす」の前からうっすらと思い続けていた。

西加奈子の本を読むたびに私は「肯定されてる」「祝福されてる」という外部から与えられる喜びよりも、ただ酸素をいっぱいに吸い込んで全身の隅々にまで酸素と水と栄養がいきわたった体で見た世界が前よりもずっと鮮やかになっていたような、もっと原始的な内面からの喜びを感じているから。

書き出して早々に尊敬する作家の言葉を振りかざして卑怯だけど、村田沙耶香は「人間を剥がす生き物」の中で西加奈子についてこう書いている。

彼女こそ、本当の餓鬼なのだった。私よりずっと飢えた化け物なのだった。(中略)彼女は、愛するというやり方で、人間を、世界を、食べている。そいう妖怪なのだった。

「ユリイカ 西加奈子」p68

これを読んでストンと胸にはまったのと同時にもう一つ、彼女は読者を彼女の中に取り込んでしまうブラックホールのような怪物なのだとも思う。西加奈子の本を読んだあとに感じる鮮やかな世界は、西加奈子が彼女の中から覗かせてくれた世界だ。というのが彼女の作品の感想に一番近い。

エキについて

エッセイ集「まにまに」で見開き1ページの短いエッセイ「エキについて」。暗記するくらいに何度も読み返したこのエッセイのエキのその後についてまさかこの本で読めるとは思っていなかったのでびっくりした。

友人が自殺した。恋愛のもつれから、車で海に突っ込んだということだった。

「まにまに」p48

この文章で始まるエッセイは、2文目からはもうこの友人についてほとんど触れられることはなく、「くもをさがす」にも書かれているエキを見つけて彼女のうちの仔になるまでの経緯についてあの西加奈子のユーモアに溢れた文章で書かれている。でも最後、エッセイはこう締められる。

猫の名前はエキにした。電車の車庫にいたから。エキは死ななかった。
友人にはもっと生きていてほしかった。泳ぎが、とても上手い人だった。

「まにまに」p49

何度も何度も目にしているのに今ここに書きながらまた泣きそうになっている。

西加奈子の作品で人が亡くなることは少ないのに、どの作品を読んでいても「生」「死」がむき出しになって差し出されているような感覚になるのはなんでなんだろうとずっと考えていた。でも今回の「くもをさがす」では本人も癌に罹患してエキも病院で覚悟を決めてくださいと言い渡されるまで状態が悪化するというという、真正面から生死に向き合った内容だった。

そのなかでも特にはっとさせられたのがこの2か所。

彼がドライフードを食べる音を聞いたのは、明け方だった。
カリ、カリ、カリ
その小さな音を、自分がどれだけ心待ちにしていたか、その瞬間に分かった。私は泣いていた。小さな頃の彼を思い出しながら、泣いた。液状の糞をし、点滴で生きていたあの頃の彼が、初めてご飯を自らの意思で食べたときのことを思い出していた。彼は、生きる決意をしたのだ。

「くもをさがす」p96

私たちはそれがどのような状態であれ、命を出来うる限り保持しようとするものだ。そしてそれは、勇敢さや、自分自身への献身からくるものではない。ただの衝動だ(だから、その衝動を断ち切る決意をした人の勇気は、計り知れない)。

「くもをさがす」p120

私はきっと、彼女の作品の致命的な怪我をしても敵から逃げ続ける野生動物のように、生物として当たり前に生を選び続けることの美しさを丁寧に描き続けてくれることに安心感を持っていたのだと思う。この作品では今までの作品と同じ安定感を感じるところと、少しぐらつきを感じるところがあるような気がして1回目に読んだときに不思議な感覚になった。それはきっと、今まで当たり前に作品に込められ続けた彼女の生に対する絶対が揺らぐほど癌の治療が壮絶だったからなんじゃないかと思う。この本がなかったら気がつけないままだった。

彼女を救った作品がこの世界にあること

冒頭でも少し書いたけれど、私は西加奈子と彼女が生み出した文章に、何度も、何度も救われてきた。

コロナで入学式が中止され何が何だかよくわからないまま親元を離れ大学に入学し、感染がひどかった地元に帰ることもできず、キャンパスライフのcの字も見えないまま授業はすべてオンライン。という状況の中で「この話、続けてもいいですか?」を開けばげらげら笑える。「きりこについて」を読めば涙が出るほど笑いながら生き物として猫のようなまん丸の眼を世の中に向けて生きていこうという強さを思い出せる。「i」「サラバ!」「ふくわらい」「しずく」「漁港の肉子ちゃん」… こうやって題名を打ち込むだけで何度も読み返した部分が浮かんできて、あぁ、私は、大丈夫だ。と思える作品があることが、どれほど生きていくうえでのつっかえ棒になってくれていたか。

そんな、56億7000万年後の弥勒菩薩のような勢いで私を救い続けてくれている西加奈子が「くもをさがす」の中で、彼女を支えた言葉を論文といい勝負なくらい様々な作品から引用していた。彼女も私と同じように作品に救われている。そのことに思っていた以上に衝撃を受け、嬉しくなった。

今、ここで

西加奈子が過ごしたこの場所では、今日もバスや電車にいろんな国の言語とアクセントが入り乱れ、ダウンタウンにはマリファナと尿の臭いが充満し、車道のど真ん中で首を傾げながら車を見つめているカナダグースの後ろには渋滞ができていて、朝日は山と海と家々をハッとするほど遠くまでペカーと照らしている。


西加奈子が生きていてくれてよかった。この場所で、あなたが書いたこの本を今読むことができて、本当によかった。


p21, 西加奈子が情報が錯綜するなかノリコさんと一緒にクリニックとがんセンターに電話をかけたというGrounds For Coffeeのシナモンケーキ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?