「私は狩猟採集民だったのか?」

 気付いたが、私の「懐かしいもの」の記憶の中に、人間や人工物は残っていないのだ。
 
 思っていたより簡単な話だったのかもしれない。
 人間や人工物の覚えが無く(山小屋や山道具、趣味の絵に関する道具ですらも)、やけに鮮明な身体感覚やものの考え方が残っているのだから、その記憶の私は人間ではなかったと考えるのが妥当だろう。

 先住民族や、自然に近い暮らしをする人間だったのではないか、とも考えていたが、文化的なものの覚えがない。踊り、歌、道具の扱いどころかそのもの自体、伝承のようなもの、家、「なかま」と認識するもの以外の存在(家畜、奴隷、王といったもの)、宗教的な観念など…

 そもそも具体的な記憶は、野を駆けたり、じゃれたり、まどろんでいたりしたことのみで、あとは身体感覚、当時沁みついていたものの考えや価値観のようなものだけだ。

 以前あげた内容に関して、宗教観に近いような表現もあったと思う。アミニズム、自分が世界の一部であり、世界そのものなのだという感覚(ハガレンに出てきたのと同じもの)など。

 だが上記の内容は宗教とは異なる気がする。自分の感じ方がそうだった、という話だからだ(ハガレンの修行の場面を、宗教的だとはあまり思わないだろう)。
 
 よって、タイトルの問に対し、私は人間ではなかったのだと、再度考えが落ち着いた次第である。

【追記】
 もし生まれ変わり、輪廻転生のようなものが本当だとするならば、前世の記憶が無いというのは当然のことなのかもしれない、と思った。
 その記憶に、考えや行動を強く制限されるからだ。
 前世と明らかに異なる環境にいるのに、他人であるはずの者の記憶があっては、その環境にある自分自身を生きることが難しくなると思う。
 だから、今の自分の環境を活かし、利用してやる(いい意味で)、楽しんでやるという心持ちが良いと思う。
 あと、私がなつかしいと思い出すものはほぼ、非言語で抽象的、感覚的なものだということから考えると、直観とか自分の感性みたいな部分を見つめてみたら、自分に合った、楽になれる価値観が見つけられるのでは、と思った。

 なに書いてるんだろうな、と思いながら書いたが、流れに乗って考えるとやはり、その理論に辿り着くので、もしかしたらそういうこともあるのかもしれない。